廃仏毀釈とは、仏教を排除し、釈迦の教えを捨てる、という意味です。仏教界にとっては一大法難でした。明治の初め、神官や大衆の間で起こった運動であり、決して明治政府の政策ではありません。ただ、明治政府が発出した「神仏分離令」等をきっかけに起った排斥運動であることは明らかです。王政復古、祭政一致を掲げる明治政府は、神道の国教化を企図し、まずは神仏判然令や神仏分離令によって、奈良時代から続く神仏習合を禁止し、神社から仏教的な要素を排除しようとします。あくまでも分離がねらいであったわけですが、神道国教化の流れを追い風とした神官たちが、大衆を巻き込み、廃仏毀釈へと走ります。また、薩摩など一部の藩も、寺院の財産を藩に取り込むことを目的として積極的に運動に加担しました。
薩摩藩領内では、1,066の寺院が完全にゼロになったといいます。また、土佐藩では、7割以上の寺が廃寺となっています。永代橋、永代通り、門前仲町など、その名を残す永代寺も、広大な敷地を誇る名刹でしたが廃寺になります。現在の小規模な永代寺は後に復興されたものです。統計は残っていませんが、一説によれば、全国の寺院の半数が廃寺となったと言われます。廃寺ばかりではなく、所蔵する貴重な仏像、宝物も失われ、多くの文化財は海外へも流れます。地域格差も大きかったようですが、行き過ぎとも言える状況に、明治政府は沈静化に動きます。また、各地では仏教と寺を守るための護法運動も起こります。廃仏毀釈運動は、明治元年から4年程度続きました。廃仏毀釈運動は、文化財保護という観点からすれば、薩長政府による大失態と言えます。
廃仏毀釈運動のきっかけは明治政府の神仏分離令等だったとしても、その背景には、江戸幕府の体制に組み込まれ、保護されてきた寺院への反撥もありました。ゆえに大衆運動化したというわけです。江戸幕府が創設した寺請制度は、領民を寺の檀家にすることで、領民管理とキリスト教禁教を徹底しようとするものでした。寺は、いわば幕府の出先機関となり、種々の保護を受けることになります。地域や寺によって格差もあったとは思いますが、おおむね、寺は寺請制度にあくらをかいていたと言えるのでしょう。政府は、廃仏希釈を意図していなかったとしても、徳川は悪だと大衆に喧伝し、かつ神道の国教化をねらうという思惑から、曖昧な姿勢、見て見ぬフリを続けていたのではないかと思います。だとすれば、これは犯罪的だとも言えます。
法難を受けた仏教界は存亡の危機に立たされたわけですが、一方では、それが幸いした面もあります。仏教界は、廃仏毀釈を機に、姿勢を正し、結束を固めた結果、復興を遂げることができました。また、明治政府の神道国教化政策は、神道の教義の曖昧さなどによって挫折します。そもそも神道は信仰であって、宗教ではありません。明治政府は、それを認めた上で、神道を国家的祭祀を担う国家神道と位置づけ、国政に取り込みます。後に軍国主義化が進むなかで、神道は大きな役割を果たしていくことになります。敗戦後、GHQは神道指令を発出し、国家神道の廃止、政治と宗教の分離、信教の自由の確保を目指します。国をはじめ公的機関からの神道への財政支援が禁止され、神社の国家管理は廃止されることになりました。(写真:若冲「動植彩絵」出典:ja.wikipedia.org)