2026年3月27日金曜日

庚申信仰

帝釈天参道
映画の文法のようなものを、おぼろげながら理解できたきっかけは、フランソワ・トリフォーの「男と女」、そして山田洋次の「男はつらいよ」シリーズだったと思います。「男と女」はビデオの無い時代に30回程度見ました。「男はつらいよ」は、全50作のうち、20作くらいは見ていると思います。”読書百回、その意、おのずと現る”というわけで、同じ、ないしは同じような映画を何度も見ていると、その製作手法が見えてくるものです。「男はつらいよ」は、はじめ渥美清のおかしさに笑い、次にその上手さにうなり、最後は山田洋次の巧みさに魅せられた、といったところです。舞台となった葛飾柴又は、いまだに観光客が訪れる名所ですが、何一つ変わっていません。帝釈天も何も変わっていません。

柴又帝釈天の正式名称は経栄山題経寺であり、1629年に創建された日蓮宗の寺です。中山法華経寺19世の開山とされています。本尊は、本堂に安置される大曼荼羅であり、帝釈天ではありません。柴又帝釈天の通称で知られるようになったのは、江戸中期のことだとされます。寺の修復を行ったところ、住職が、行方不明になっていた日蓮直筆の板本尊(いたほんぞん)を発見します。板本尊は木板にお題目や仏の名を刻んだものですが、発見された板本尊には、お題目と法華経薬王品の一節が記され、片面には帝釈天が描かれていました。発見直後に発生した天明の飢饉の際、住職が板本尊を背負って江戸市中と下総国を回ると、飢えや病気で苦しむ人々に不思議な御利益があったとされます。以来、柴又帝釈天は参拝客で賑わい、門前町も形成されました。

板本尊は、今も帝釈堂に安置されています。また、板本尊が発見されたのが庚申の日だったことから、柴又帝釈天の縁日は庚申の日とされ、板本尊も開帳されます。庚申信仰の原型は、平安期に中国から伝わった道教由来の行事でした。庚申の夜、眠っている人間から三尸(さんし)の虫が抜け出し、天帝に悪行を告げて寿命を縮めるとされ、それを防ぐために庚申の日前夜は眠らずに過ごすという行事です。平安の貴族たちは「庚申御遊」と称して、宴を開いて夜を過ごしたようです。武家政権の時代になると、それが侍の間にも、守庚申、後に庚申侍として広まっていきます。15世紀後半になると、会食主体だった行事に仏教要素が入り、勤行しながら夜を過ごすことになります。さらに在来信仰と結びつき、幅広い御利益のある民間信仰になっていきます。

庚申信仰の最盛期は江戸期であり、庚申の日前夜から眠らずに祈りを捧げる「庚申待ち」、「宵庚申」が盛んに行われるようになります。年に6回ある庚申の日の前夜ともなれば、柴又は提灯の火であふれたようです。どこか百日参りやお百度参りに通じるところがあるように思います。つまり、自らの身体に負荷をかけることによって、神仏に思いの強さを伝え、願いを成就してもらうという発想です。道教由来のイベントとは大きくかけ離れ、豊作、招福、厄除け、家族和合、良縁、病除け、諸芸上達までと幅広い御利益があるとされていたようです。藁にもすがる思いの民衆の願いが生んだ民間信仰なのでしょう。日本三大庚申とされるのは、京都の八坂庚申堂(金剛寺)」、大阪の「四天王寺庚申堂」、東京の「入谷庚申堂(喜宝院)」です。

現在、入谷庚申堂は、喜宝院から小野照崎神社に移されています。小野照崎神社は、渥美清が願掛けをして「男はつらいよ」の主演を射止めた神社としても知られています。「男はつらいよ」で寅さんが首から下げているお守りは、帝釈天のものではなく、小野照崎神社のものだったという話もあります。余談ですが、寅さんのマドンナは分不相応なお嬢様タイプで、寅さんが独り相撲を取って失恋するのがお決まりでした。マドンナとして異質だったのは、浅丘ルリ子演じるドサ回りのキャバレー歌手リリーです。リリー三部作と言われる“寅次郎忘れな草”、”寅次郎相合い傘”、”寅次郎ハイビスカスの花”は、相思相愛の寅さんとリリーが結ばれそうで結ばれないという切ないストーリーでした。忘れられた人々を描いた傑作だったと思います。どこか庚申信仰にすがった大衆の姿に通じるところがあるようにも思えます。(写真出典:katsushika-kanko.com)

庚申信仰