高級カメラといっても、当時はオート・フォーカスでもなく、スナップ写真では、構図もさることながら、瞬時にピントを合わせるのが大変でした。そんなアルバイトをしていたので、カメラ好きになったかと言えば、そうでもありません。理由の一つは、カメラが良ければまずまずの写真が撮れると知ったからだと思います。高級カメラは極めて高価で、手が届くような代物ではありませんでした。もちろん、お手頃なカメラは持っていましたが、さほど熱心に撮るタイプでもありませんでした。一人で中国へ旅行した際などには、カメラを持参しなかったほどです。携帯電話、スマホの時代になり、以前よりは画像を撮ることも増えましたが、知れたものでした。ただ、定年退職後、老後の楽しみの一つにしようと思い、ややお高いカメラを買ったことがあります。
ニコンの知人にも相談し、いきなり高価な一眼レフではなく、高機能デジカメから入門するという段取りでした。しばらくは旅先でよく撮影していましたが、ドロミテで骨折して以降、ほとんど撮らなくなりました。片手でバッグからカメラを出そうとして転倒、骨折したのです。カメラが悪いわけではないのですが、それからは持ち歩くことすら面倒になりました。背景には、スマホのカメラが良くなったということもあるのでしょう。近年は、もっぱらスマホで撮影しています。といっても、さほどの枚数にはなりません。しかも、撮った画像を見返すことも、ほぼありません。思うに、カメラは、生来の面倒くさがり屋には向かない趣味なのだと思います。カメラ好きの友人たちには、概してマメな性格の人が多いように思います。
マメかどうかは別として、若い人たちはスマホでやたらと画像を撮ります。カメラ好きではなく、SNSにアップするために撮っているのでしょう。SNS中毒の症状の一つであり、承認欲求を満たすための麻薬のようなものです。美しい光景に出会っても、それを楽しむのではなくスマホで撮影することが目的化されます。映える食事を撮るために注文し、口もつけないという現象も起こります。それは極端だとしても、若者は、食事が出てくると、まずは撮影します。老人たちは、食べてから、撮れば良かったと思いがちです。また、ローリング・ストーンズ・ファンである友人から聞いた話があります。Youtubeでストーンズの最近のライブを見ると、観客が皆スマホを掲げて動画を撮っているので、ライブが盛り上がっているのかどうかが分かりにくいというのです。スマホが、いわゆる主客転倒を起こしているということになります。
後漢で書かれた「漢書」に由来する”百聞は一見にしかず”という言葉はよく知られています。画像や映像は、言葉を超えるほどに強力な伝達力を持っているものです。しかし、この言葉には続きがあります。”百見は一考にしかず”、見るだけでなく考えなければならない。”百考は一行にしかず”、考えたら行動しなければならない。”百行は一果にしかず”、行動するだけでなく結果を出さなければならない。”百果は一幸にしかず”、結果は幸せにつながるものでなければならない。”百幸は一皇にしかず”、幸せは個人のものではなく皆のものにならなければならない。古代中国の知恵の深さには驚かされます。今やネットと電話機能が付いたカメラと言ってもいいスマホの世帯普及率は、9割を超えているようです。過度な画像依存は、言葉の喪失、想像力の減退につながりかねず、人間の劣化をもたらす恐れもあります。(写真出典:fanto-magazine.jp)
