2025年10月20日月曜日

プロ・スポーツ

Noah Lyles
過日、東京で開催された世界陸上を観戦しました。19時開始のイブニング・セッションでしたが、3時間30分、まったくダレることなく楽しめました。トラックでは次々とレースが行われ、フィールドでは複数の競技が同時進行していました。DJ調のアナウンス、インタビュー、ディスコ風の音楽も会場を盛り上げていました。席は3階でしたが、トラック競技のフィニッシュ・エリアとインタビュー・エリアを見下ろす席でした。1、2階席は満席なのですが、3階は半分程度の入りで、ゆったり見られたのも良かったと思います。また、40年前にもらったニコンの双眼鏡を持参したのですが、場内の2つの巨大ディスプレイが競技の模様などをライブで映し出すので、まったく必要ありませんでした。

プログラムの構成も、偏りのない見事なもので、毎日、複数の決勝種目が組み込まれています。総じて言えば、超一流のエンターテイメントだったと思います。世界陸上は、陸上競技の国際団体であるワールド・アスレチックスが、1983年に始めています。モスクワ・オリンピックを多くの国がボイコットしたことが契機になったようです。現在は、隔年開催であり、今回の東京は、1991年東京、2007年大阪に続く、3度目の日本開催です。世界のトップ・アスリートが集まり競うという大会としは、オリンピックやサッカーのワールド・カップに次ぐほどの盛り上がりを見せていると思います。世界陸上を、ここまでにしたワールド・アスレチックスの運営手腕は見事なものだと思います。また、日本での人気は、TBSと織田裕二の貢献も大きいと思います。 

徹底的にエンターテイメント化された世界陸上を観戦しながら、アマチュア・スポーツとプロ・スポーツの違いについて思い起こしていました。かつて、アマチュアとは、スポーツで収入を得ていない者といった規定がありましたが、もはや垣根はほぼ存在しないと言えます。象徴的には、1974年、オリンピック憲章からアマ規定が外されたことが挙げられます。時代が変わり、厳密な規定化が困難になった面があったのでしょう。例えば、国や企業から何らかの支援を受けている選手を、アマと呼べるかどうかは微妙な問題です。一方で、野球やゴルフでは、特定の興行団体に所属する者がプロとされ、それ以外はアマという分かりやすい規定になっています。そもそも、プロとアマという区分は、本当に必要だったのか、とさえ思います。

スポーツの語源は、ラテン語の”気晴らし”だとされます。そもそもスポーツはすべてアマチュア競技だったわけです。日本の力士は、世界最古のプロ選手と言われます。力士は、貴族や武家が召し抱えられていました。18世紀の英国でも、貴族がスポーツ選手を抱えていました。いわゆるパトロン・スポーツです。産業革命後、市民を中心に賞金の出る競技会が普及し、多くの労働者も参加します。スポーツが市民に解放されたわけです。一方、これを良しとしない貴族は、アマチュア規定を発明し、労働者からスポーツを取り戻そうとします。つまり、プロ・アマ規定は、英国の階級闘争の産物だったわけです。その後、米国でも野球などにプロ・アマ規定が導入されますが、こちらは階級闘争ではなく、賭博と賄賂の横行が原因だったようです。要は、競技団体が競技と選手を管理しようとしたわけです。野球やゴルフの規定は、その名残だと言えます。

現代におけるプロとアマの違いとは、資格の問題ではなく、競技の興行団体側の問題、つまりエンターテイメント・ビジネスにおける運営・管理上の問題のように思います。例えばゴルフは、2022年に規定改正が行われ、アマも10万円以下の賞金なら受け取れるようになりました。大会参加費用に当てるという意味合いがあるようです。賞金のうち、10万円を超える部分は、慈善団体等に寄贈されるとのことです。また、アマが、スポンサーから金銭や用具を受け取ること、あるいはCMへ出演することに関する制限も無くなっています。つまり、ビジネスを守ることには熱心でも、それ以外のことは知ったことじゃないというわけです。我々の年代に浸透していたプロ・アマの区分は、既に存在していないと思っていいのだと思います。(写真出典:the.ans.jp)

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