2025年6月8日日曜日

会津五街道

行きたいと思いながら機会がなかった大内宿へ行ってきました。江戸からは会津西街道、会津側からは下野街道と呼ばれた街道の宿場町です。江戸時代さながらに茅葺きの古民家が並ぶ町並みで知られています。現在、古民家は、土産物屋、蕎麦屋として利用され、多くの観光客が訪れています。山間の少し開けた土地であることから大内と命名されたものと思いますが、平家の追っ手を逃れてきた高倉宮以仁王がこの地にたどり着き、大内裏にちなんで命名したという言い伝えがあるようです。しかし、史実として、平家に反旗を翻して挙兵した以仁王は、南山城で討たれています。村には鎮守として高倉神社も祀られていますが、これは明治になって観請されたものです。

江戸期の会津は、東北諸藩ににらみを利かせる幕府の要衝として重視され、会津松平家(保科家)が、23万石、実高40万石を治めています。会津は、戦国時代から領主の変遷が激しく、蘆名、伊達、上杉、蒲生、加藤、そして保科と変わります。保科家の時代が始まると同時に、若松から放射状に延びる会津五街道も整備されています。南東へは白河とつなぐ白河街道。東は二本松へ向う二本松街道。西は越後へ続く越後街道。北へは米沢と結ぶ米沢街道。そして、南へは下野今市(日光)をめざす下野街道(会津西街道)が整備されます。これによって、奥州街道からは外れていた会津が、東北・関東一円へのアクセスを確保し、徳川家の北の守りとして機能したわけです。もちろん、会津五街道は、会津の産業をも支えることになります。

江戸幕府の五街道とは、日本橋を起点とする東海道、中山道、日光街道、甲州街道に、宇都宮で日光街道から枝分かれする奥州街道を指します。幕府直轄の基幹道路として、伝馬、宿場、一里塚、松林等が整備されます。謀反あれば、江戸から素早く幕府の軍勢を送り込む軍用道路だったわけです。大名の参勤交代も、幕府管理下の五街道を使うことが求められます。しかし、すべての藩を網羅しているわけではないので、中国路、伊勢路、北陸路等々の脇往還も整備されます。中国路などは大動脈ですが、江戸につながっていないので五街道の外ということになります。会津西街道も脇往還として整備された道でした。会津藩はじめ、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などが参勤交代で使っています。家康が眠る日光を通ることにも意味があったのでしょう。

初めて会津を訪れた時に驚いたのは、会津盆地の広さです。盆地の南東に位置する鶴ヶ城に登ると広大な盆地を一望できます。四方を囲む山々もすべて会津藩領であり、上杉家の時代には庄内、佐渡も含めて120万石に達していたとされます。また、石ヶ森はじめ複数の金山もありました。会津藩の石高23万石は、御三家を超えぬよう表面上定められたものであり、実高は水戸藩を超えていたと言われます。また、北の守りという性格から軍事力の増強も盛んに行われ、江戸期には薩摩と並ぶ軍事大国として知られることになります。幕末、薩長が戊辰戦争にこだわったのは、佐幕派、特に会津を壊滅することだったと言われます。無益な血が流れたようにも思いますが、中央集権国家をいち早く樹立させるためには避けて通れない戦いだったのでしょう。

明治になると、会津西街道は付替工事が行われます。街道から外れた大内宿は、その役割を終えています。大内宿には、再建された本陣もありますが、そもそも若松と田島宿の中間にあり、昼食休憩をとる場所に過ぎなかったようです。それが大内宿を半農半宿の宿場にした理由でもあるのでしょう。1683年の日光地震によって、会津西街道は、しばらくの間、街道としての機能を失います。会津藩の参勤交代も白石街道が使われるようになり、大内宿は、一層、半農半宿という性格を強めていったのでしょう。しかし、半農半宿の宿場であったため、街道がその役割を終えた後も、往時の風情を残すことになったのだと思われます。大内宿の名物と言えば、高遠そば、通称ネギそばです。箸ではなく、一本まるごとのネギを使ってそばを食べます。信州の高遠から伝わったとされますが、高遠では既に廃れています。とにかく食べにくいので、廃れて当然とも思います。(写真出典:icotto.jp)

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