監督: ヴェロニカ・フランツ/セヴェリン・フィアラ 2024年オーストリア・ドイツ
☆☆☆
18世紀の中欧に関する民俗学的、宗教的なテーマを、丁寧な時代考証に基づき、絵画的とも言える映像をもって、リアルに再現したという点において、賞賛されるべき作品なのでしょう。ただ、ドラマとしてのポテンシャルは、決して高くありません。そして、最悪なのは本作をバリバリのホラー映画としてプロモートした配給会社の浅ましさです。ユニークなアプローチですが、そもそもホラー映画であることは間違いないのでしょう。娯楽性に乏しいテーマの映画を売り込む難しさも理解できます。ただ、それをありきたりなホラー映画として売り込むことは如何なものかと思います。訳の分からないタイトルも噴飯ものです。もっとも、ヴェロニカ・フランツとセヴェリン・フィアラのコンビは、ホラー映画で実績があり、評価もされているようです。メイン・プロットは、17~18世紀の欧州で頻発したという代理自殺(suicide by proxy)です。多くの宗教は自殺を戒めています。特に一神教にあっては、人の命は神が定めるものであって、人間が自ら判断することは神の冒涜だとされました。本作でも、伏線として、自殺した農夫が埋葬を拒絶され、野ざらしにされるシーンが登場します。かつての中欧にあって、この世をはかなんで自らの命を絶ちたいと思った人たちは、殺人を犯し、それを教会で告解し、そして公開処刑されることで救われると信じたようです。代理自殺に関しては、数百件に及ぶ記録が残り、研究も行われています。本作も、18世紀、オーストリア北部で実際に起きた代理自殺事件に基づき構成されているようです。
代理自殺を巡る議論としては、自殺を忌まわしいものとする宗教観に加え、告解という不思議な仕組みがポイントになります。告解は、自らが犯した罪を聖職者に告白することで、神のゆるしを得るという儀式です。ゆるしの秘跡とも呼ばれ、カソリックにおいては”7つのサクラメント(秘跡)”の一つとされます。日本では、しばしば懺悔とも呼ばれますが、これは正しくありません。懺悔は、仏教用語であり、罪を告白することで自ら悔い改めるという意味です。なお、プロテスタントでは、洗礼と聖餐だけがサクラメントとされています。聖書に忠実なプロテスタントは、他のサクラメントを現世御利益主義であり、迷信を生むものとして否定しています。告解は、教義ではなく、教会が信者を獲得し、つなぎとめるために発明したものなのでしょう。
代理自殺にともなって行われた殺人は、サクラメントが生んだ悲劇と言えるのかもしれません。ここを深掘りすれば、映画としては、より深く、より面白くなったと思います。ただし、それは、ダイレクトに、カソリック批判、教会批判、バチカン批判になるわけです。ドイツ語圏は、プロテスタントを生んだ土地柄ではありますが、ドイツにはプロテスタントとほぼ同数のカソリック教徒がおり、オーストリアでは過半数に及ぶようです。代理自殺の宗教的背景を深掘りすることなく、民俗学的興味に留め、ホラー的に扱うことが無難なアプローチだったのでしょう。同じキリスト教徒ながら、ユグノー戦争、三十年戦争はじめ血みどろの宗教戦争を戦ってきた国々ですから当然かもしれません。しかも、宗教戦争は、決して過去の話でもありません。
この映画が、プロテスタントの国で、かつ福音派が幅を利かせるアメリカで製作されたとすれば、随分と違った映画になっていたことでしょう。作中、気になるシーンがありました。映画の前半と後半に、主人公が告解のために教会へ行くシーンが挿入されます。深い霧の中を石造りの教会の門へ向かう映像は、見事に絵画的です。しかし、その教会は、どう見ても城塞にしか見えません。庶民を圧迫することにおいて、カソリック教会と領主層は同じだ、という製作陣の主張を感じさせます。カソリックに気を使いながら製作した映画だとは思いますが、やはり製作陣はプロテスタントなんだ、と思わせるシーンでした。(写真出典:klockworx.com)