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カムイチェプノミ |
カムイは、日本語の神、あるいは唯一神を指す英語のGodとは大いに異なるわけです。日本的な八百万の神々は、山や川などに宿る目に見えない存在です。唯一神も天上にいる目に見えない存在です。つまり、神は、人間の上位にある擬人化された抽象的概念だと言えます。対して、カムイは、山や川そのものであり、人間と同等に実在する具体的存在だと説明されます。あるいは、山や川、人間が作った道具にも宿る魂のことだという言い方もあります。最も腑に落ちる説明は、アイヌの人々は、生きるうえで必要なものすべてをカムイとして、感謝の祈りを捧げる、というものです。私たちは、どうしても、自分たちが抱く神の概念に寄せてカムイを理解しようとするので、分かりにくくなってしまうのでしょう。
それは人間と自然の関係をどう捉えるかの違いだと言うこともできるのでしょう。人知を超える自然の営みは、人間を超えた誰かの意志によるものだ、と私たちの祖先は考えたはずです。それが、畏れをもって祈るべき対象としての神になったのでしょう。厳しい環境のなかで生活するアイヌにとっては、とりあえず生き延びることが最も重要であり、生きるうえで欠かせないもの全てにリスペクトと感謝を捧げたのではないかと思います。それがカムイになったのでしょう。そうした自然との向き合い方の違いは、農耕民と狩猟民との違いとして理解できます。農耕は人間が自然をコントロールしようとするものであり、狩猟は人間が自然の一部として共存をはかるものです。ここに大きな違いがあるのだと思います。
カムイチェプ(鮭)に関する興味深いアイヌ民話があります。「キツネのチャランケ」です。アイヌが川で獲った鮭を、キツネが一匹食べてしまいます。アイヌは、ありったけの罵詈雑言をキツネに浴びせ、この土地からキツネを追い出すようにすべての神に祈ります。それを聞いたキツネは、アイヌに談判(チャランケ)します。鮭はアイヌが作ったものではない。全ての動物が食べられるだけの鮭をカムイが与えてくれているのだ。それを聞いたアイヌの長老は、そのとおりだと感得し、キツネを責めたアイヌを叱りつけ、キツネに謝ります。アイヌの自然との向き合い方、あるいはカムイの本質を伝える話だと思います。アイヌの民話には、このようにアイヌと自然との関係を伝える内容のものが多いと聞きます。文化や思想の伝承ということなのでしょう。
この春、札幌地裁で興味深い判決が出されました。アイヌが、鮭漁は先住民の権利であるという訴えを起し、このたび、それを退ける判決が出たのです。北海道庁も、アイヌの文化享有権を認め、儀式用に少量の鮭を獲ることは認めています。ただ、漁業権のない人が鮭を獲ることは法的に禁じられています。アイヌにだけ特権を認めることはできないというわけです。理解できるところはります。鮭漁を巡ってアイヌと国は、度々争ってきました。ただ、今回の訴えの背景には、少数民族の権利を守るという世界的潮流があるとされています。思い起こされるのは日本の捕鯨に関するスタンスです。日本は、2019年、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、排他的経済水域内における商業捕鯨を再開しています。捕鯨は日本の伝統文化であると主張する政府とアイヌの主張に違いがあるようには思えません。(写真出典:asahi.com)