2025年5月3日土曜日

「ゲッベルス」

”ゲッベルス  ヒトラーをプロデュースした男”                       監督:ヨアヒム・A・ラング   原題: Führer und Verführer   2024年ドイツ・スロバキア

☆☆☆

ドイツ人が、いつまでもナチスと真摯に向き合う姿には感心させられます。その背景には、右派が台頭するドイツの政治情勢もあるのでしょう。本作は、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスを描いています。史実を忠実に踏まえ、実際の映像や音声も交えてドラマが構成されています。昔から、フィクションをドキュメンタリー風に仕上げるモキュメンタリーという手法があります。本作は、真逆のパターンとも言えますが、最近、見かけることが多いように思います。結構、難しいアプローチであり、TVの再現ドラマのようになってしまうる恐れもあります。本作は、辛うじて映画として成立しているように思います。ただ、これは、そうした技術面よりも、ナチスの本質に迫ろうとするその姿勢を評価すべき映画なのでしょう。

原題の"Führer und Verführer"は、なかなかに面白いタイトルだと思います。フューラーは、幅広く指導者を意味するドイツ語ですが、ほぼ固有名詞化された”総統”としてヒトラーを指します。フェルフューラーは、誘惑者、あるいはそそのかす人という意味だそうです。単純に考えれば、原題は総統ヒトラーと宣伝大臣ゲッベルスを指す”総統と扇動者”となるのでしょう。ドイツ語は不案内ですが、いずれにもフューラーという言葉が入っている点が、表面的な意味以上に興味深いと思います。つまり、ゲッベルスを、単なる宣伝大臣やプロパガンダを行った者以上に位置づけ、ある意味、ヒトラーと同様にナチスの本質を体現していると言っているようにも思えます。それは、単にナチスの本質がプロパガンダにあるということだけではないように思います。

宗教は、天国と地獄を示すことで信者を誘導します。コミュニズムを含めた全体主義では、目指すべき社会の定義は曖昧ながら、諸悪の根源たる大衆の敵を明確にして批判することで人々を扇動します。設計図が不明瞭で共有されていないことが、個人の判断への依存を高め、全体主義を独裁に導いていくことになります。ゲッベルスは、類い希なるプロパガンダの天才ですが、とりわけ、定義することもできない天国を、漠然とイメージさせることに巧みな人だったと思います。ゲッベルスは、ドイツ人のDNAとも言えるロマン主義をくすぐり、人々を判断停止状態に落とし込んだと言えます。実に宗教的だと思います。ゲッベルスの天才を見抜いたヒトラーは、敵対しようとも、あるいは家族問題に介入してまでも、彼を離したくなかったのでしょう。

もちろん、ヒトラーの誇大妄想的カリスマ性は疑いようのないところですが、加えて人心掌握術にも非凡な才能を発揮した人だったのでしょう。本作でしきりと登場する会議での席順指定のシーンなども、その典型的な現れなのでしょう。ヒトラーは、側近たちを競わせ、疑心暗鬼な状態に置くことで操作し、自らの優位を確保していたと思われます。ゲッベルスも、その罠にはまり、ヒトラーの歓心を買うことに汲々とします。しかし、他の幹部たちとは異なり、最後の最後までヒトラーに寄り添い、家族を道連れに自決までしたのはゲッベルスだけです。それは、ヒトラーの巧妙な洗脳と言うよりも、ゲッベルスにとってのヒトラーが、自分が熱望しても得られないカリスマ性の体現者であり、生涯抱え続けたコンプレックスの裏返しだったからなのでしょう。

Führer und Verführerという組合せは、危険な化学反応を引き起こしかねず、まさに”混ぜるな 危険”だと言えます。近年、Verführerは一個人とは限らなくなっています。アメリカ大統領選挙など典型的ですが、SNSがその役割を担っているわけです。陰謀論やフェイク・ニュースを巧みに使うこと、貿易相手国、不法移民、ダイバーシティや妊娠中絶といったリベラルな政策を敵と定めて激しく攻撃すること、加えて言えば、目指すべき国の姿についても”Great Again”と言うばかりで曖昧になっていること、以上などからして、その扇動スタイルはゲッベルスを彷彿とさせるものがあります。肝心のFührer役のトランプがヒトラーほどに優秀ではないことが幸いしている面もあります。ただ、Verführer役のSNSがゲッベルスを超えるほどの潜在的パワーを持っていることが気になります。(写真出典:natalie.mu)

「ゲッベルス」