2024年7月5日金曜日

出羽三山

出羽三山とは、山形県中央部にある羽黒山、月山、湯殿山の総称です。古くから信仰の山として知られますが、特に修験道との関わりが深く、奈良県の大峰山、福岡県の英彦山と並んで日本三大修験道場の一つとされています。出羽三山は、6世紀末、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子によって開山されました。父崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子の追っ手から逃げた皇子は、丹後国由良(現宮津市)から船を出し、出羽国の由良海岸(現鶴岡市)に上陸します。由良という地名は、船出した由良にちなんで皇子が命名したとされています。羽の黒い三本足の鳥に導かれて羽黒山に登った皇子は、出羽権現を感得し、出羽三山を開きます。出羽神社境内には、皇子の墓があり、現在も宮内庁管理となっています。

三山の祭神は、出羽神社が伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現)、月山神社が月読命(月山権現)、湯殿神社が大山祇神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現)となっています。興味深いのは月山の月読命(ツクヨミ)だと思います。ツクヨミは、天照大御神(アマテラス)の弟であり、建速須佐之男命(スサノオ)の兄とされ、月の神、あるいは夜を司る神とされます。つまり、アマテラスを祀る伊勢神宮と対を成すという見立てができます。三山を巡る修行は「三関三渡」と呼ばれ、羽黒山が現在、月山が過去あるいは死、総奥の院とも呼ばれる湯殿山が未来を象徴し、生まれ変わりの山とも呼ばれます。過去・現在・未来ではなく、現在・過去・未来という順番が、我々の感覚とは異なっており、興味深いところです。

しかし、私が最も興味をそそられるのは、なぜ出羽三山が修験道の聖地になった、あるいは聖地とされたのかということです。山国日本には、もっと険しい、もっと霊気を感じさせる山も多くあるように思います。勝手な想像ですが、出羽三山の成立は、大和朝廷による蝦夷征討と深く関わっているのではないかと考えます。7世紀中葉に築かれた渟足柵を北進させて出羽柵を庄内に置いたのは8世紀初頭です。しかし、わずか20数年後、出羽柵は、現秋田城址へと移転します。同時期、仙台平野北部には多賀城が築かれています。秋田城が、東北深部へといきなり突出した形なったのは、庄内平野から秋田平野までの日本海側に開けた平野部がなかったからではないかと想像します。内陸に広がる横手盆地へも、秋田平野から雄物川に沿ってアクセスできます。

いずれにせよ、庄内平野に城柵を置く必要がなくなったという判断がなされたわけです。その判断の背景に何があったのかは不明ですが、ひょっとすると修験者を使って出羽三山を抑えたことが理由の一つになのかもしれないと思うわけです。修験道は、日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた神仏習合の産物とされます。しかし、修験道の起源に関してはよく分かっていません。飛鳥時代に役小角が創始したともされますが、役小角の実在性も疑問視されています。蝦夷征討が進むとともに、朝廷は修験者を東北に送り込み、土着の神社仏閣を天孫家の信仰体系に組み込んでいったという説もあります。北関東以北の多くの神社仏閣の創建が大同二年(807年)であることはよく知られています。それ以前から存在していたことが明確でも等しく大同二年創建となっています。

いわゆる「大同二年の謎」です。その背景に修験者の暗躍があったという説は頷けるものがあります。国家鎮守を旨とする南都仏教の時代にあって、朝廷と修験道の結びつきは容易に想像できます。ちなみに、私の祖父は古い神官の家系からの入り婿でした。祖父の実家は、平安期に都から東北に送り込まれた修験者の末裔だとする岩手大学の研究結果があります。事の真偽は不明ながら、修験者が蝦夷東征、続く陸奥経営の陰で暗躍していたであろうことことは想像できます。今般、初めて出羽三山を訪れました。ただ、大雨のため、羽黒山の三神合祭殿と国宝五重塔をお参りし、修験者の宿である羽黒山斎館で精進料理をいただいただけで退散しました。またの機会に、三関三渡に挑戦してみたいと思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

「ゲッベルス」