2024年7月3日水曜日

最上川

今般、久しぶりに最上川の雄大な流れを見てきました。初めて最上川を見たのは、東日本大震災直後のことでした。被災地を訪問した際、東京への帰路として庄内空港を使いました。被害が比較的少なかった庄内空港は、震災翌日から運行を再開していました。チャーターしたLPGタクシーで三陸方面から庄内空港を目指したのですが、その際、初めて見る最上川の雄大さに感動しました。最上川は、日本三大急流の一つとされ、同一県内のみを流れる河川としては日本一の長さを誇る大河です。最上川は、県の最南端にある吾妻連峰を源流とします。南から北へと流れ、米沢盆地、山形盆地を通り、尾花沢盆地で出羽三山を回り込むように西に向かい、新庄盆地から庄内平野、そして日本海へと注ぎます。山形県の形は、最上川の流れに沿っているとも言えます。

山形県の平野部は、ほぼ全て最上川によって作られた扇状地です。最上川流域では、幾度も峡谷と平野部が繰り返されます。これは、かなり珍しいことなのだろうと思います。水量豊富な急流ならではの現象なのでしょう。峡谷を通ることで、川は養分を再補充し、豊かな平野部が次々と形成されます。山形の米、果樹、畜産、あるいは酒や蕎麦も、最上川がもたらす恵みなのでしょう。山形県内で、最上川は「母なる川」と呼ばれているようですが、母どころか山形県そのものであり、県名も最上が妥当ではないかとさえ思います。山形県は、山形市が中心の村山地方、酒田・鶴岡中心の庄内地方、米沢中心の置賜地方、新庄市中心の最上地方と4つの地域で構成されます。幕末には、4つの地域に9つの藩が存在しました。

さほど広くもない地域に、多数の藩が並立したのは、山がちな土地柄であること、そして一方では平野部が豊かな穀倉地帯であった証拠です。最上川流域での稲作は、紀元前4~3世紀には行われていたようです。8世紀初頭には、半世紀前に作られた新潟市の渟足柵を北進させる形で出羽柵が庄内地方に置かれています。ただ、庄内の出羽柵は、ごく短期間で秋田城址へと移転されています。その後、最上川は、豊かな農産品を運搬する舟運が大いに栄えていきます。律令時代にあっては、極めて希な水駅が最上川沿いに4ヶ所設置されています。江戸期、酒田は大阪や江戸への米の積出港として名を馳せることになります。自治都市でもあった酒田には、有力な船問屋や豪商が現れ、栄華を極めます。

なかでも、戦前まで日本一の地主として知られた本間家は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と庄内地方の俗謡に歌われるほどでした。本間家は、進駐軍による官制革命とも言える農地改革によって、ほぼ全ての土地を失い没落します。ちなみに、ゴルフ・クラブ・メーカーの本間ゴルフは、本間家の庶流が創業しています。明治期になり、川舟の航行が自由化されると、最上川の舟運はさらに盛んになったようです。ただ、20世紀に入ると道路や鉄路の開発が進み、最上川の大動脈としての機能は失われていくことになります。また、最盛期の酒田には、豪商たちの財力を背景に上方文化が持ち込まれ、大いに花開いたものだそうです。酒田市内には、その残り香を見ることができます。

「五月雨を あつめて早し 最上川」は、松尾芭蕉の奥の細道に掲載された句です。個人的には、いかなる文学よりも、いかなる絵画よりも、最上川の風情を最もよく伝える傑作だと思っています。芭蕉は、全行程150日のうち約40日を山形での滞在にあて、山寺に足を伸ばし、月山に登り、最上川を下り、鳥海山を回って秋田の象潟へと向かっています。また、正岡子規も、2年間に渡って、県北東部の大石田に滞在しています。「草枕 夢路かさねて 最上川 行くへも知らず 秋立ちにけり」も傑作だと思います。大石田は、最上川水運で栄えた町であり、西に出羽三山を望む町です。多くの文人や画人を惹きつけた山形ですが、その魅力の源泉は最上川と出羽三山が生み出す景観にあることを、改めて知らされた旅でした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷