2024年7月31日水曜日

桂月

住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きや奥入瀬 三里半   

かつて、八甲田山、十和田湖方面へ向かう観光バスのガイドさんは、大町桂月のこの歌を必ず紹介したものです。大町桂月は、明治から大正期に活躍した高知出身の歌人、紀行作家、評論家です。正式な雅号は月の名所桂浜にちなんだ”桂浜月下漁郎”であり、桂月は短縮版です。桂浜には桂月の碑があり「見よや見よ みな月のみの かつら浜 海のおもより いづる月かげ」という歌が刻まれています。美文家として知られた桂月は、酒と旅をこよなく愛し、その紀行文は広く読まれたものだそうです。また処世訓「人の運」はベストセラーとなり、当時の男子学生は桂月の本を抱えて歩けば、女性からモテモテだったとも聞きます。

桂月は、1869年、土佐藩士の家に生まれ、東京帝国大学を卒業後、一旦は中学教師となりますが、すぐに博文館に招聘され入社しています。博文館は、明治期最大の出版社であり、時流に乗った国粋主義的雑誌などを多く出版していました。なかでも日本初の総合雑誌「太陽」は大当たりとなり、大きな影響力を持っていたようです。桂月は、「太陽」などに多くの随筆、評論を書き、人気を博します。桂月の文章は、当時、小説以外では最もよく読まれた文章とまで言われています。特に紀行文は人気だったようです。東日本を中心に、各地には桂月の歌碑が多く残っています。美文もさることながら、桂月の紀行文が、その地の知名度を全国レベルに引きあげたということなのでしょう。

なかでも、北海道の大雪山系、そして青森の十和田湖と奥入瀬渓流はことに有名です。1923年、中央公論に掲載された桂月の「層雲峡より大雪山へ」という紀行文は、大雪山を世に知らしめたと言われます。冒頭「富士山に登って山岳の高さを語れ。大雪山に登って山岳の大さを語れ」と語り、大絶賛しています。山系には桂月岳と命名された山も存在します。また、層雲峡や羽衣の滝は桂月の命名とされます。羽衣の滝は、、天人峡の一角、標高1,000mにあり、落差270mは北海道では第1位、日本では第2位の規模を誇ります。明治後期に発見されていたようですが、1918年、この地を訪れた桂月は「疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるか」と絶賛し、羽衣の滝と命名しています。

桂月が、初めて十和田湖と奥入瀬渓流を訪れたのは、1908年のことです。「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」と詠むほどに十和田・奥入瀬に魅せられた桂月は、以降10回に渡り、この地を訪れています。それどころか、こよなく愛した蔦温泉には、晩年、家族とともに移り住み、そこで生涯を閉じています。蔦温泉は、奥入瀬近くの山中にある一軒家の宿です。宿には、桂月の揮毫、愛用品も多く残され、敷地内には多くの歌碑も残されています。また、大正末期、日本でも国立公園設置の動きが始まると、桂月は「十和田湖を中心に国立公園を設置する請願」まで起草しています。十和田湖は、1936年、富士箱根、吉野熊野、大山とともに国立公園に指定されています。なお、現在は、奥入瀬渓流も含め、十和田八幡平国立公園になっています。

よく知られた文筆家として、ベストセラーを含む多くの著作も残し、かつ各地に足跡も残す桂月ですが、今日の知名度は、今一つといったところです。例えば、小説といった創作を残したかどうかによる影響も大きいのかもしれません。また、小説ならいざ知らず、美文調で綴られた紀行文や評論は、今の時代、古風に過ぎるのかもしれません。あるいは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対して国粋主義的な批判を行ったことが、今日的評価を下げているのかもしれません。いずれにしても、見事な美文が忘れられていくことは寂しい気がします。桂月の文章を読むと、明治期の工芸作家たちの超絶技巧を思い出します。素晴らしい作品も多く、海外でも高く評価されていますが、名を残した作家は、ごく希です。(写真出典:city.towada.lg.jp)

マクア渓谷