2024年7月29日月曜日

バウムクーヘン

Club Harie
ドイツ菓子のバウムクーヘンは、私が子供時分から珍しいものではありませんでした。といっても、どこでも買えるお菓子ということではなく、結婚式の引出物の定番だったのです。年輪を重ねるという意味で、めでたいお菓子とされていたようです。引き出物としての人気は、1960年代に始まったようです。正直なところ、引出物のバウムクーヘンは、パサパサとした食感で、さほど美味しいものとは思いませんでした。その後も、好んでバウムクーヘンを食べることはありませんでしたが、18歳の頃、札幌のユーハイムのカフェで、生クリームを添えたバウムクーヘンを食べて、その本当の美味しさを知りました。モロゾフと並んで神戸の洋菓子界を牽引してきたユーハイムは、 日本にバウムクーヘンを紹介した店です。

プロイセン生まれの菓子職人カール・ユーハイムは、ドイツの租借地であった中国の青島で喫茶店を営んでいました。第一次世界大戦のおり、青島は日本帝国陸軍に制圧され、カールも捕虜として日本に連行されます。1919年、カールは、広島の似島にあった収容所でバウムクーヘンを焼き、ドイツ作品展示会で販売しています。これが日本におけるバウムクーヘンの事始めです。第一次大戦後もカールは日本に残り、神戸に店を開きます。店は大繁盛しますが、カール自身は第二次大戦の終戦前日に亡くなっています。戦後、紆余曲折はあったものの、店は繁盛を続けます。そして、1960年代に入り、バウムクーヘンが引出物として人気になると、ユーハイムは日本を代表する洋菓子店へと成長していきます。

バウムクーヘンの起源については諸説あるようですが、ドイツ東部発祥のお菓子ということのようです。面白いことに、ドイツにおいて、バウムクーヘンは、必ずしも一般的なお菓子ではないようです。来日して初めて食べたというドイツ人も少なくないようです。本場よりもかなり普及している日本のバウムクーヘン界に大きな変化をもたらしたのは、クラブハリエだったのではないでしょうか。2010年前後のことですが、関西一円の人たちが、滋賀の「たねや」へバウムクーヘンを求めて人が集まり、開店前から大行列ができている、と聞きました。和菓子の名店たねやとバウムクーヘンが結びつかず、困惑しました。店は、たねやの洋菓子部門から生まれたクラブハリエでした。

実際に、食べてみると、そのふんわり、しっとりとした新しい食感に驚かせられました。クラブハリエの社長兼グランシェフの山本隆夫は、たねやの次男坊として生まれ、パティシエ修業を経て、店の洋菓子部門に入ります。新しいバウムクーヘンを目指した山本は、1997年、洋菓子店クラブハリエを草津に出店します。しかし、バウムクーヘンは見向きもされませんでした。1999年、山本は、梅田の阪神百貨店にバウムクーヘン専門店を開くという大勝負にでます。これが大当たりしたわけです。ドイツの地方菓子が日本のスウィーツに変身した瞬間でもありました。ちなみに、クラブハリエでは”バームクーヘン”と称しています。山本の心意気を感じさせます。山本は、日本を代表するパティシエとして国際大会で優勝するなど活躍しています。

クラブハリエが変えた日本のバウムクーヘンは、東京のねんりん家や大阪のマダム・シンコなどの参入もあり、新たな時代を迎えたと言っていいのでしょう。ちなみに、2005年頃、大阪のモンシェールが堂島ロールで大当たりし、ロールケーキ・ブームを起こします。私も、名古屋で並んで買いました。しかし、ロールケーキは参入障壁が低く、堂島ロールの影は薄くなっていきました。ヒット商品は大事ですが、それだけに頼った経営、いわゆる一本足打法は危険なビジネスです。ブランディングにおいては、信頼度や認知度とともに、新鮮度も重要な要素となります。それは何も新商品ばかりを意味しません。クラブハリエは、限定商品の投入で鮮度を保つだけでなく、たねやとの相乗効果、ラコリーナに代表される店舗戦略など、見事なマーケティングを展開しています。(写真出典:clubharie.jp)

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