2024年7月23日火曜日

日想観

四天王寺の日想観
近鉄大阪線は、大阪上本町と伊勢中川を結ぶ路線ですが、伊勢中川で山田線に入り、宇治山田まで行きます。大阪方面からのお伊勢参りのメイン・ルートであり、途中には長谷寺口、室生口大野など名刹の入り口となる駅もあります。また、清少納言が、有馬温泉、玉造温泉とともに三大名湯とした榊原温泉も沿線にあります。近鉄大阪線には何度か乗りましたが、いつも”俊徳道”という駅名が気になっていました。明らかに俊徳丸と関係する駅なのだろうとは思いましたが、案の定、俊徳丸が四天王寺へ通ったとされる道から命名された駅でした。俊徳道は、四天王寺南門から生駒山地の十三峠を超えて平城京に至る十三街道とも呼ばれていたようです。

俊徳丸の伝説は、古くから土地に伝えられてきた伝説とされますが、室町時代には広く知られていたようです。俊徳丸伝説を題材とした芸能も多く残ります。有名なところをあげれば、原曲は世阿弥の作とされる能楽「弱法師(よろぼし)」、菅専助・若竹笛躬の合作とされる浄瑠璃・歌舞伎の「摂州合邦ケ辻」、さらには説教節の「しんとく丸」や「愛護若」があります。さらには折口信夫の短編「身毒丸」、寺山修司の戯曲「身毒丸」も俊徳丸伝説がベースになっています。ストーリーとしては、シンデレラはじめ世界中の物語に見られる典型的な継母ものです。継母にいじめられるのが男子という点は特徴的かも知れません。また、俊徳丸の場合、日本の物語に特有の仏教的要素が加わっています。おおよそのストーリーは以下のようなものです。

河内国高安の山畑に在する信吉長者は子供がいなかったため、清水観音に願をかけて子を得ます。俊徳丸と名付けられた子は容姿も頭も良く、四天王寺で稚児舞楽を演じることになります。これを見た隣村の蔭山長者の娘は俊徳丸に一目惚れ、二人は恋に落ち将来を誓う仲となります。 しかし、俊徳丸は、実子を信吉長者の跡継ぎにしたいと願う継母の呪いによって、失明させられ、家から出されてしまいます。俊徳丸は四天王寺界隈で物乞いに落ちぶれます。この話を知った蔭山長者の娘は、俊徳丸を探しだし、二人で観音様に病気治癒を祈願します。すると、俊徳丸の目は見えるようになり、夫婦となった二人は蔭山長者の家を継ぎ、幸せな人生を送ります。一方、信吉長者の家は、長者が死ぬと家運が傾き、継母は蔭山長者の施しを受ける身に落ちぶれます。 

能楽「弱法師」になると趣きがかなり変わってきます。高安通俊は、人の讒言で息子を家から出します。過ちに気付いた通俊は、我が子の無事を祈って天王寺で施行を営みます。その満願の日、若い盲目の乞食(弱法師)が現れます。通俊は、弱法師に日想観(じっそうかん)を勧めます。日想観とは、西の空に沈む夕陽を拝み、極楽浄土を観想するという修行の一つです。弱法師は、かつて父と見た難波の夕焼けを思い出しますが、かえって盲目になったことに打ちのめされます。我が子だと確信した通俊は弱法師を家に連れ帰ります。継母も、蔭山長者の娘も出てきません。落ちぶれた継母の姿もありません。庶民ウケする要素は除かれ、仏法のもとに向き合う親子の情感が描かれます。盲目の弱法師にとって、日想観は実にアイロニカルな修行です。ただ、過去と現在が交差する時空を出現させているとも言えます。その日想観が父子に救いをもたらします。それこそが極楽浄土なのかもしれません。

静かに深く情感が語られていく「弱法師」は優れた能楽の一つだと思います。我が子を探して流浪する女物狂いが、我が子の死を知るという能楽「隅田川」が思い起こされます。派手な演出がないだけに、演者の技量次第という難しい能なのだろうと思います。それにしても、俊徳丸伝説から仏法に基づく幽玄の世界を導き出す世阿弥の天才ぶりには驚かされます。舞台となる四天王寺は、593年、聖徳太子によって創建された日本初の官寺とされます。難波の上町台地の上に立つ四天王寺ですが、かつて西門の前は海だったようです。夕陽の名所として知られ、極楽浄土の東門にあたるとも言われてきたようです。四天王寺では、今も、年に2回、春分の日、秋分の日の夕刻に日想観が行われているとのことです。読経が流れるなか、多くの人々が極楽浄土に思いを馳せているようです。(写真出典:kobe-trip.jimdofree.com)

命に別状なし