2024年7月21日日曜日

ガルべストン

世界中には、歴史的役割をすべて終えたかのような街があるものです。かつて栄華を極め、その後、勢いを失った街には、甘美な優雅さやノスタルジックなけだるさを残すところもありますが、どことなく漂うわびしさは隠しきれないものです。特に、一世を風靡したリゾート地のなれの果てでは、街中を哀しみが覆っているようにさえ見えます。テキサス州ガルベストンにも、そんな印象を受けました。もちろん、ガルベストンは、今も、観光客が訪れ、海運、金融、教育の街としても知られます。ただ、19世紀には、全米最大級の港湾都市であり、全米一所得の高い街であり、テキサス州で最も人口の多い街であり、 メキシコ湾の女王とまで呼ばれた街です。

ガルベストンの19世紀の栄光は、今も、6つの歴史地区と国家歴史登録財である60を超すヴィクトリア朝建築にみることが出来ます。しかし、19世紀の栄華は、文字通り、一瞬にして失われました。1900年9月、今でもアメリカ最悪の自然災害と言われるガルベストン・ハリケーンが街を襲い、全てを破壊しました。最低気圧は936mb、雨量は230mm、最大風速は145mph。日本式に換算すれば、ほぼ65m/sということになります。気象庁の目安で言えば、家屋が倒壊、鉄骨構造物の変形がおこる風速となります。加えて砂州の上に築かれた街を高潮が襲います。死者数は8,000人とされますが、12,000人という説もあります。ガルベストンの全ての家屋が被害を受け、人口の1/4にあたる10,000人が家を失っています。

以降、ガルベストンは、投資をするにはあまりにも危険な場所になります。港湾は、隣接するヒューストンが自前の港を整備したことなどから、競争力を失います。市は、5mを超す防波堤を10kmに渡って築きます。防波堤の効果は、後のハリケーンで証明されましたが、一方で、街の大きな観光資源だったビーチが失われることになりました。どん底に落ちたガルベストンでしたが、禁酒法によって息を吹き返します。復興の光が見えないガルベストンは、禁断の選択を行い、酒、麻薬、賭博、売春で賑わう街へと変わります。ネヴァダにラス・ヴェガスが誕生するまで、全米から多くの観光客を集めたといいます。 メキシコ湾の女王は、シン・シティ(罪の街)になってしまったわけです。

第二次大戦後、法規制が強化されるなか、罪の街も寂れていきます。そこからガルベストンの低迷が続くことになります。私がガルベストンを訪れたのは、1991年のことだったと記憶します。国家歴史登録財に指定されている港近くのストランド歴史地区にも行きました。19世紀には、商人、船乗り、港湾労働者でごった返していたはずですが、私が行った日は、週末にもかかわらず人影がありませんでした。うら寂しいレストランで、ガンボーを食べただけで退散しました。ただ、ガンボーの味だけは絶品であり、歴史を感じさせられました。90年代に全米で起きた再開発ブームに乗って、ストランド歴史地区も整備され、今は賑わいを取り戻しているようです。特にマルディグラやクリスマスには、随分と賑わっているようです。

私は、ヒューストン出張の際、週末を利用してガルベストンへ行ったのですが、車で1時間程度だったと思います。行ってみようと思ったのは、1969年のグレン・キャンベルの大ヒット曲「ガルベストン」が頭に残っていたからです。グレン・キャンベルの歴史的傑作「恋のフェニックス」の作詞・作曲で知られるジミー・ウェッブの作品です。ジミー・ウェッブが、ガルベストンを訪れた際にビーチで着想を得た曲とされます。ガルベストンから出征した兵士が恋人と故郷を思う歌です。当時は、兵士が戦っているのはヴェトナム戦争だと思われていたようです。しかし、ジミー・ウェッブが想定していたのは、19世紀末の米西戦争でした。ビーチでジミー・ウェッブの頭に浮かんだのは、やはり巨大ハリケーンに襲われる直前の華やかなりし頃のガルベストンだったわけです。(写真出典:en.wikipedia.org)

命に別状なし