![]() |
小栗風葉 |
江戸から明治の頃まで、郷里を離れて旅の生活を送る人は極めて希であり、管理された日本社会ではアウトサイダーとされました。例えば、江戸期の民衆は、戸籍台帳とも言える宗門人別改帳で厳密に管理されていました。様々な理由で、逃散、あるいは逃亡するなど在所を離れると、台帳から消されます。管理社会にあっては、とても生きにくい状況に置かれることになります。アウトサイダーの存在そのものは散発的に文献に登場しますが、詳細な個々の記録は、その性格からして残っていません。ただ、アウトカーストである非人、あるいは博徒・的屋等は組織化され、佐渡金山で坑道の排水を行う水替人足、軽犯罪者の更生施設とも言える人足寄場など、幕府が行ったアウトサイダーの更生事業もあります。
しかし、大半の世間師は、一切記録に残ることなく旅の生活を送っていたわけです。多くは、飢饉などで流民化した農民だったようです。人足仕事やわずかな商売で日銭を稼ぎ、民家や木賃宿に泊まって粗末な食事が取れれば良い方で、廃寺の軒下や橋の下で雨露をしのぐことも多かったようです。明治の文豪・小栗風葉に「世間師」(1908年)という短編があります。尾崎紅葉門下だった小栗風葉は、「青春」三部作で人気を博しますが、弟子たちによる代作が増え、評判を落とします。名を成す前に、一時期、放浪の生活を送った経験から生まれたのが「世間師」だったようです。海辺の小さな町の木賃宿を舞台に、そこに寝泊まりする世間師たちの姿と生活が描かれています。
木賃宿とは、宿場街のはずれで、薪代程度の安い料金で宿泊させる安宿のことです。不衛生な寝具で雑魚寝し、食事は薪代を払って自炊する、という劣悪な環境の宿が多かったようです。木賃とは薪代のことです。実は、現在も簡易宿泊所という名称で、東京の山谷、大阪のあいりん地区と呼ばれる釜ヶ崎など、いわゆるドヤ街に残っています。ドヤとは、宿を反対に読んだ言葉です。宿とも言えないという意味なのでしょう。人類が農耕を始め、社会というものが成立した頃から今に至るまで、組織に馴染めない人たちが、一定数、存在してきたということなのでしょう。しかし、彼らが社会のお荷物だったわけでもありません。日本の高度成長期の建設ラッシュを底辺で支えたのが、ドヤ街に集まる日雇労働者たちだったと言われます。
旅の生活を続けた世間師は、かつて閉鎖的、孤立的だった日本の集落に、他の地方や世間に関する貴重な情報をもたらす機能を担っていたという説があります。その情報が、生産技術の改善や社会情勢への対応につながっていたといいます。宮本常一の言う世間師は、村落を出て長い旅の生活をし、再び村落に戻って外部情報を伝えることで、村落の進化に役に立った人々です。逃散・逃亡組とは異なりますが、そういう世間師もいたわけです。いずれにしても、情報伝達手段が限られていた時代、結果的には有用な人々でもあったわけです。アウトサイダーは侮蔑的呼び方をされても致し方ない面もありますが、情報をもたらすという意味において、”師”という字が付けられたのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)