監督:マイケル・マン 2023年アメリカ
☆☆☆ー
アダム・ドライバーは、見事な役者根性を見せています。ペネロペ・クルスは、さすがの演技を見せています。レース・シーンは、リアルな映像とサウンドで再現されています。にも関わらず、映画としては中途半端な印象を受けてしまいます。最高の食材を使っているのに、料理としての完成度は低い、といった印象です。最大の問題は、散漫なシナリオにあるように思います。様々な要素が、整理し切れないまま中途半端に羅列される状態になっています。なかでも妻と愛人との三角関係のウェイトが高く、ペネロペ・クルスの演技がなければ、安っぽいメロドラマになっていたところです。例えば、エンツォ・フェラーリの人格にフォーカスしていれば、すべて収まりが良くなったのではないかと思います。シナリオの散漫さがゆえか、個々のシェークエンスにおける表現も表面的になるか、あるいは散発的になっています。クライマックスを構成すべきミッレミリアも、リアルな映像にも関わらず凡庸な表現となり、その威力を発揮できていません。ミッレミリアは、1927~1957年まで、イタリアで開催されていた伝説のカー・レースです。北部・中部の公道を1,000マイル走るという過酷なレースでした。ミッレミリアとは、イタリア語で1,000マイルという意味です。レースには、欧州のスポーツカー・メーカーが勢揃いし、しのぎを削りました。それがスポーツカーの進化、ひいてはモータリゼーションの進展をうながしたとも言えます。1957年、フェラーリ車が起こした事故によって、ミッレミリアは終わります。
ドライバーや沿道の観客11人が亡くなったこの事故は歴史を変えた事故でもありました。事故は映画でも描かれていますが、やはり表面的な扱いになっています。車やタイヤの欠陥が原因ではないかという点が、法廷で4年間に渡り争われました。結果的にはフェラーリが勝訴したものの、観客やレーサーの安全への配慮に欠ける牧歌的なカー・レ-スの時代は終わりを告げます。その背景には、技術的進化によるレース・カーの高速化がありました。それこそ、エンツォ・フェラーリが、ドライバーの命や家族を犠牲にしてまで、生涯、こだわり続けた唯一のものだったと思われます。エンツォ・フェラーリは、20世紀の技術革新の光と影、あるいは20世紀そのものを体現した人だったのではないでしょうか。
それは単に20世紀中葉の一瞬を指すのではなく、背景には欧州の近代史そのものがあると考えるべきだと思います。エンツォ・フェラーリにはイタリア近代史が凝縮されているのだとすれば、アダム・ドライバーはミス・キャストだと言わざるを得ません。アダム・ドライバーが見事な役者であることは間違いありませんし、今回も熱演していると言えますが、やはりアメリカ人であり、イタリアの歴史の重さを感じさせません。映画全体も、キャストも、ルネサンス絵画をコンクリートの壁にペンキで模写したかのような印象を受けます。全編英語で演じられ、固有名詞だけイタリア語っぽい発音にしているあたりにも安っぽさを感じます。ペネロペ・クルスだけは異なる存在感を見せていますが、イタリアのおばさんには見えません。
映画のなかで、エンツォは、部下や仲間たちから”Commendatore”と呼ばれています。実際、そう呼ばれていたようです。字幕は”社長”となっていましたが、正確には、ドライバー時代の叙勲に基づく称号であり、いわば名誉騎士団長といったところでしょうか。ハーランド・サンダースが、その貢献に対してケンタッキー州から送られたカーネル(大佐)という名誉称号で呼ばれるのと同じです。説明が難しいので”社長”という字幕はやむを得ないところです。エンツォは、その影響力の大きさゆえ、様々な愛称で呼ばれています。英国人は、”Il Drake”と呼んでいたそうです。有名な私掠船の船長フランシス・ドレイクにちなんだもので、貪欲に結果を追求するエンツォの姿勢に対する批判と賞賛が入り交じっているといいます。これがエンツォ・フェラーリを最も的確に表す愛称のように思えます。(写真出典:eiga.com)