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仙台一高応援団長 |
このお粗末な話を聞いて思い出したのが「男女七歳にして席を同じうせず」という言葉です。儒教の古典「礼記」の一節とされます。戦前まで続いた明治の学制では、尋常小学校3年以降は、男女別学とされていました。満年齢で言えば8歳、数えで7歳。どうせなら初めから男女別学で良かったのではないか、と思います。「男女七歳にして席を同じうせず」という言葉に忠実に従ったのではないか、としか思えません。「礼記」に言う”席”とは、座席のことではなく、寝具のことです。その年齢から、寝具を別にすることは理解できるところですが、決して学制に関わる話ではありません。学者の意見を聞くこともなく、薩長の侍あがりの浅学な役人が独断で決めたのではないか、と勘ぐってしまいます。
男女別学という発想には、なにがしかの合理性もあるのでしょうが、やはり男尊女卑の思想が背景にあると言えます。敗戦後、GHQが主導する民主化の流れのなかで教育基本法が施行され、男女共学が原則と定められます。ただし、守旧派による抵抗も大きく、結果、男女共学はあくまでも原則であり、その実施判断は各学校に委ねられることになりました。いわば教育の場にあって、男尊女卑という差別思想が温存される結果となったわけです。傾向としては、北関東から東北にかけて男女別学が多く残ったようです。理由は判然としませんが、政府との距離感ゆえかも知れません。また、藩校時代からの伝統を受け継ぐ旧制中学等やいわゆるナンバー・スクールの多くが別学を続けました。地元政界に影響力を持つ同窓会が、共学化に強く抵抗したようです。
教育基本法施行時には、少なからず男女別学校が残りましたが、それも徐々に共学化していくことになります。私の出身校である県立青森高校の場合、第三中学校を母体とする青森高校と第三高等女学校を母体とする青森女子高校が、1950年に統合されています。つまり、しばらくの間、国の基本方針尊重派と守旧派との議論が続いたということです。興味深いことに、その際の主な論点は、民主化か伝統か、ということだったようです。憲法に謳われた男女平等を主な論点とすることなく議論が交わされたわけです。このこと自体がジェンダー差別だったわけで、さらに言えば国民投票に依らずに制定された憲法に対する国民の向き合い方だったとも言えます。
ただ、1980年代以降は、男女平等が、共学化の主な論拠となっていったようです。宮城県や福島県には、根強い「一律共学化反対運動」が存在したようですが、2003年には福島県が、2010年には宮城県も完全共学化を実施しています。埼玉・栃木・群馬の各県には、今も公立学校の別学制が残ります。別学の伝統が残っているのは、古くから女子教育に力を入れてきた地域だからだ、という意見もあるそうです。妙な話のように思います。公立学校の共学問題は、機能や弊害、あるいは伝統といった問題ではなく、あくまでも憲法上の基本的人権に関わる問題だと思います。(写真出典:kahoku.news)