どれだけ科学が進んでも、証明できないものの一つが死後の世界なのでしょう。臨死体験は、科学的な研究が進んでいるようですが、これは死後の世界ではなく、あくまでも死の間際の意識の問題に過ぎません。死後の世界は、分かりようがないので、古代から人間を悩ましてきました。死ぬと天に昇る、あるいは別世界に行くといったところから始まり、ついにはピラミッド、始皇帝陵、あるいは前方後円墳のような巨大建造物まで登場します。インドでは、輪廻転生という思想が生まれ、中東に一神教が起こると、天国と地獄という概念が持ち出されることになります。科学が進むと、何の証左もない宗教上の死後の世界に対して、死後は何もないという唯物的な見方が生まれます。
大雑把に言えば、死後の世界に関しては、一切存在しないという唯物論、そして肉体を離れて存在するという唯心論に大別されると思います。唯心論は、さらに輪廻転生型と別世界型に分類できるように思います。ヒンドゥー教から派生した仏教は輪廻転生型ですが、その循環から抜け出す、つまり死を超えた存在を目指すことが究極的な目標とされます。天国と地獄の存在を説く一神教は、別世界型と言えます。仏教にも、極楽と地獄、あるいは閻魔大王という説法がありますが、これは後の世で生まれた俗説に過ぎません。道元禅師の「而今」という言葉に表わされる仏教の時空間は、簡単に言えば、今、ここ、しか存在しないということであり、死を超えているとも理解できます。
いずれにしても、よってもって現世をいかに生きるか、という点にフォーカスしていくところが、宗教の宗教たる所以だと思います。宗教的な葬式は、人間の死生観を端的に表わす儀式だと思います。私の父親は「葬式は、誠に生きている者のために行う」と言っていました。唯物ベースですが、唯心的でもある名言だと思います。どのような来世像を説く宗教であっても、葬儀に参列した者は、故人を偲ぶとともに、あらためて人の世のはかなさに思いをいたし、ならば今後いかに生きるべきかという思いを新たにするのでしょう。しかし、宗教的に死後の世界に過度に依存することは、生きることを放棄することにもつながりかねません。このあたりを考えると、思い出すのが「メメントモリ」という言葉です。
ラテン語の「memento mori」は、死を忘れるな、という意味です。古代ローマの凱旋パレードの際、将軍たちは、背後に使用人を置き、この言葉をささやかせたと言います。先のことは分からない、今を楽しめ」という意味だったと言われます。後に、キリスト教は、これをまったく反対の意味で使うことになります。要は、現世の空しさを強調する言葉となり、死後の世界への依存を高めました。古代ローマの将軍もキリスト教も極端に過ぎますが、死を忘れるなという言葉は、いかに生きるべきか、という思いを新たにさせる良い言葉だと思います。死後の世界が実証できない以上、メメントモリこそが、死に関わる最上の向き合い方だと思えます。(写真出典:netflix.fandom.com)