2023年1月30日月曜日

江華島事件

仁川港が面する京畿湾の北部には、韓国で5番目に大きな江華島があります。明治8年(1875)、この島で「江華島事件」が発生します。日本の軍艦「雲揚」から飲料水確保のために下ろされたボートが、突如、江華島の砲台から砲撃を受けます。これに応戦した雲揚は、江華島砲台、および隣接する永宗島砲台を制圧し、砲36門を鹵獲します。 これは、雲揚艦長の報告に基づく明治政府の公式見解とされていましたが、実は、その後、改訂された報告書があることが判明します。それによれば、ボートを出した目的は、朝鮮国官吏への接触であり、かつ湾内から河口へと入り込んだことが、朝鮮側の砲撃のトリガーになっていたことが判明します。つまり、雲揚による挑発行為が原因だったわけです。

江華島事件を機に、明治政府は、攘夷を掲げ鎖国していた朝鮮国に圧力をかけ、修好条規を締結させます。事件の背景には、明治政府の征韓論を巡る議論がありました。広義の征韓論は、幕末から存在していました。古代、日本が朝鮮半島に利権を持っていたことを根拠とする国学系の征韓論、あるいは西洋に対抗するアジア連合形成といった攘夷観点からの議論もあったようです。維新直後、明治政府は、新政権発足を伝えるための国書を朝鮮国に送りますが、朝鮮国は、様式が整っていないとして受け取りを拒否します。これが狭義の征韓論の発端となります。朝鮮側の国書拒否の背景には、幕末から続く征韓論に対する不快感があり、また、攘夷を掲げる朝鮮からすれば、開国した日本は批判すべき対象でもあったのでしょう。

朝鮮側の国書拒否を受け、明治政府内には、即刻出兵を唱える板垣等、派兵に否定的な木戸等という対立が生まれます。そのなかで西郷は、まずは特使を派遣すべきと主張し、自らが特使として名乗りをあげます。一旦は合意した特使派遣でしたが、欧米視察から帰国した岩倉、大久保らが、内政重視の観点から、これを否定します。これが「明治六年の政変」へとつながり、西郷はじめ多くの政府要人が野に下ります。その後も、朝鮮開国に向けた折衝は続きますが、朝鮮側は頑なにこれを拒否。明治政府は、軍船を使った威嚇は行うものの、砲火を開くつもりはありませんでした。そんななか、江華島事件が勃発します。雲揚による挑発行為と続く交戦は、薩摩出身の征韓論者でもある艦長・井上良馨の独断専行と言えます。

そもそも血気に逸る軍隊組織では、独断専行が横行する傾向があり、また刻々と変わる戦況によっては、それが必要だとも言えます。ただ、帝国陸海軍の場合、独断専行がお家芸と言えるほど多く、それが歴史の歯車を動かケースも多くありました。典型的には満州事変ということになりますが、江華島事件は、独断専行の嚆矢だったと言えるのではないでしょうか。そして、その傾向を生み出したのは、幕末における下士たちの活躍だったように思えます。明治維新は、藩主や家老の指示や意向を無視した下士、あるいは脱藩した志士たちの活躍によって成されたという面があります。その気風が、帝国陸海軍に強く残ったのではないかと思われます。極論すれば、帝国陸海軍は、組織の体を成さない暴力装置だったとも言えそうです。

憲法を巡る議論では、九条が謳う「戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認」を維持すべきという声が多くあります。しかし、他国の善意にすがる国防では、はなはだ心許ないとも言えます。戦前の軍国主義を反省するのであれば、その暴走を許した法体系や組織・制度の分析を徹底的に行い、実効性の高いシビリアン・コントロール態勢をいかに構築するかということを議論すべきだと思います。風呂で転んで怪我をした人間が二度と風呂に入らないということがあるか。確か、映画「グラン・プリ」における三船敏郎の名セリフだったと記憶します。二度と風呂に入らないということではなく、いかに風呂で転ばないかを考えるべきだと思います。戦争には大反対です。戦争など行うべきではありません。しかし、家族を守り、自国の自由と安全を守るために、行動すべき場合もあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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