2025年10月16日木曜日

七難八苦

島根県安来市の月山富田城は、戦国大名・尼子氏の本拠地であり、難攻不落の山城とされます。1542年に大内氏の45,000人の大軍に包囲されますが15,000人で守り抜き、1565年には毛利軍35,000人に攻められますが10,000の兵でよく耐えます。ただ、最終的には、兵糧攻めにあい、降伏しています。高地戦の場合、攻撃側は守る側の3倍の兵力を要すると言われます。月山富田城は、3倍以上の敵をも寄せ付けなかった最強の城の一つと言えます。今般、麓から山頂の本丸跡まで登ってきました。さすがに厳しい山であり、登るのに約1時間かかりました。中腹には、山中鹿之助の大きな銅像が建っていました。山中鹿之助は、尼子氏の軍師であり、数々の武勇伝とともに、死ぬまで尼子氏再興のために奮闘したことで知られます。 

山中鹿之助と言えば、尼子氏再興を誓って三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったというエピソードが有名です。明治政府は、鹿之助の忠義の厚さを称え、このエピソードを教科書に載せます。戦前に教育を受けた人たちにとって、鹿之助の名と七難八苦のエピソードは骨の髄まで染みていたわけです。そういう親のもとで育った我々の世代も知ってはいますが、若い人たちにはまったく馴染みがないと思います。七難八苦は、観音経に由来する言葉であり、七難は火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難、八苦は生・老・病・死に加え愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦となります。ちなみに四苦八苦の八苦も同じであり、四苦は生老病死を指します。八苦は、人が生きていくうえで避けがたい苦難ということなのでしょう。

山中鹿之助は、1569年から死ぬまでの10年間に、3度に渡って尼子再興の兵を起こしています。武芸に秀で、軍才に優れた鹿之助は、毛利勢を次々に撃破していきますが、やはり中国一帯を支配する強大な毛利には敵いませんでした。毛利に2度敗れた鹿之助は、急速に勢力を拡大する織田信長の傘下に入ることで、3度目となる毛利との戦いに挑みます。鹿之助は、ここでも赫々たる戦果を挙げ、毛利勢から奪った上月城を3,000の手勢とともに守ることになります。上月城は、播磨・美作・備前の三国の国境に位置する要所であり、毛利軍は、3万の兵をもって奪還に動きます。中国攻め総大将の羽柴秀吉は、上月城に援軍を送ろうとしますが、三木城攻略を優先する信長の命によって断念。上月城は孤立し、毛利勢に降伏せざるを得ませんでした。

生け捕りにされた鹿之助でしたが、護送中に謀殺されています。享年39歳でした。尼子再興軍の生き残りは、尼子一族の亀井茲矩に引き継がれます。秀吉によって出雲半国を約束された亀井茲矩は奮戦を続けますが、本能寺の変で約束は反故にされます。秀吉の朝鮮出兵にも参戦、関ケ原の戦いでは東軍に参加、出雲に隣接する鹿野藩を拝領しています。その後、津和野藩に転封となり明治を迎えています。出雲国、月山富田城に戻ることはできませんでしたが、尼子勢は、鹿之助の活躍をもって再興されたと言ってもいいのでしょう。まさに七難八苦と言える鹿之助の生涯でしたが、宿望に生きた人とも言えるのでしょう。七難八苦とは、単に困難の連続を指すのではなく、大きな望みを実現するためなら苦労は厭わないという覚悟を表す言葉だと言えます。

月山富田城は、日本百名城とともに、日本五大山城にも数えられています。他の日本五大山城は、春日山城、七尾城、観音寺城、小谷城とされています。これらは、戦国時代における戦うための山城です。一方、日本三大山城と呼ばれる岩村城、高取城、備中松山城は、藩庁としての政治的・行政的役割も担っていた近世の山城です。日本の城と言えば、壮麗な天守閣を持つ城がイメージされがちです。しかし、天守閣の歴史は、信長の安土桃山城に始まるわずか50年に過ぎません。それまでの城は、まさに戦うための城であり、山城が中心でした。しかし、中世の山城を訪れる観光客は希です。アクセスが悪いこと、険しい山頂にあること、石垣が残るばかりで見所に欠けることなどが要因なのでしょう。月山富田城も、訪れていた人は数名に過ぎませんでした。その代わりに、蛇は何匹か見かけましたが。(写真出典:kankou-shimane.com)