監督:ロバート・エガース 2024年アメリカ
☆☆☆
ロバート・エガース監督の長編4作目となる本作は、1922年に発表されたF・W・ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイク作品です。エガースは、デビュー作となった”ウィッチ”はじめ、”ライトハウス”、”ノースマン”と全ての作品で高い評価を受けてきました。エガースは、少年時代から吸血鬼に興味を持ち、本作のアイデアも長く温めてきたようです。随所にエガースらしい完成度の高さを見せてくれますが、思い入れが強すぎたのか、ディテールにこだわりすぎ、詰め込みすぎて、結果、冗漫な仕上がりになっています。プロットの整理の仕方、絵画的とも言える映像など見るべきところが多いだけに残念ではあります。ちなみに、映像にはフェルメールを意識したようなショットもありました。吸血鬼と言えば、1897年に出版されたブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が最もよく知られています。しかし、吸血鬼は、ストーカーが創造した怪物ではなく、かなり古くから欧州各地に分布する民間伝承であり、かつストーカーは18世紀頃から多く出版された読み物も参考にしているようです。欧州に限らず、類似した伝承は世界中にあるようですが、日本にだけはありません。その理由は、土葬と火葬の違いだとされます。日本の火葬の歴史は古く、特に仏教伝来以降は上部社会に定着していたようです。ただ、農民や庶民は、明治になって禁止されるまで安上がりな土葬を行っていました。いずれにしても、埋葬の違いからか、欧州等では肉体と魂は一体であり、日本では別物という思想が育ち、吸血鬼と幽霊の違いになったのでしょう。
ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」は、当時の英国の流行を反映して、国を跨いだ冒険小説の風情を持っています。ドイツ表現主義映画をリードしたF・W・ムルナウは、それをゴシック・ホラーの傑作「吸血鬼ノスフェラトゥ」へと昇華させます。しかし、ムルナウは、ドラキュラの著作権に関する許諾が得られず、タイトル、プロット、役名、舞台に変更を加えて製作します。ノスフェラトゥという言葉は、ルーマニア語の不快な者という言葉を元にした造語です。翻案したにもかかわらず、著作権侵害で訴えられたノスフェラトゥはお蔵入りとなります。1960年代に至り、著作権が切れると復元上映され、大きな反響を呼びます。ノスフェラトゥをドイツ映画の最高傑作とするヴェルナー・ヘルツォークが、1978年、リメイクして高い評価を得ています。
ヘルツォーク版は、自然主義的演出のなかに詩情がにじむ傑作だったと思います。以降、吸血鬼映画には、死ねないドラキュラの憂鬱と孤独を描くメランコリックな系統が生まれたように思います。本作は、吸血鬼を新たな視点から描いたといった作品ではありません。むしろ、吸血鬼の原点に回帰した作品だと思います。ムルナウのドイツ表現主義なエッジを取り除き、ゴシック・ホラー・テイストを現代的に表現した作品なのでしょう。ある意味、伯爵の怪物ぶりは潔いとも言えます。若くしてヒットメーカーになった監督は、プロダクション側から一定のフリーハンドを獲得し、好きな映画を好きに撮るという流れがあります。その際、肩に力が入りすぎて、観客が置き去りにされることも珍しくありません。本作にも、多少、その傾向を感じます。
吸血鬼ものは、B級映画の大定番の一つです。吸血鬼と言えば、クリストファー・リーのドラキュラとピーター・カッシングのヴァン・ヘルシング博士を思い出します。最もよく知られたコンビだと思います。クリストファー・リーがドラキュラ以外の役をやっても、口を開くと、牙が出てくるような気がしたものです。ちなみに、この二人は、スター・ウォーズにも出演しています。また、一方で、吸血鬼は、ヘルツォークはじめ、ポランスキー、コッポラ、ジャームッシュ等々、著名な監督をも魅了してきたテーマです。吸血鬼の人気が絶えないことは、興味深い現象だと思います。ホラーとメランコリック、いずれの流れにおいても、人類にとって普遍的な謎である死を吸血鬼が象徴しているからなのでしょう。(写真出典:eiga.com)