末日聖徒イエス・キリスト教会、いわゆるモルモン教は、1830年、ジョセフ・スミス・ジュニアによってNY州で創設されています。神の啓示を受けたというジョセフ・スミス・ジュニアは、原始キリスト教の復活を目指します。非三位一体、キリストの再臨、千年王国といった、いわば原理主義を掲げますが、当然、カソリックやプロテスタントからは異端との烙印が押されます。一夫多妻制への批判もあって激しい迫害を受け、また、教祖が共同体(シオン)建設を目指したこともあり、モルモン教徒たちは、西へ西へと向かいます。時は、まさに西部開拓時代。モルモン教徒の西進は、アメリカのフロンティアに重なります。オハイオ、イリノイと拠点を移したジョセフ・スミス・ジュニアは、1844年、イリノイ州カーセージの刑務所で暴徒たちに殺害されます。
後継者を巡って争いが起きたようですが、大多数の支持を得て二代目大管長に選ばれたのが、ブリガム・ヤングでした。イリノイでの住民との対立が激化したため、ヤングは、信者をネブラスカ、そして現在のユタ州へと導きます。当時のユタは、複数のインディアン種族の領地であり、メキシコも領有を主張していました。つまり、合衆国の外だったわけです。ヤングは、ここをシオンの地と定め、自前の民兵組織を使って、インディアンや入植者、時には騎兵隊と戦います。米墨戦争の結果、ユタがアメリカ領になると、ヤングは請願運動の末、ユタ準州の設立にこぎつけ、自ら初代の知事に就任します。ヤングの、自らが信じるものを獲得するためには手段を選ばないという激しさがモルモン教の現在を作ったと言えるのでしょう。
ヤングのアグレッシブさが大事件を引き起こします。1857年に発生したマウンテン・メドウズの虐殺です。カリフォルニア入植を目指す幌馬車隊120名が、モルモン教徒の民兵組織ノーブー軍団に虐殺されます。背景には、教徒たちのマス・ヒステリアがあったようです。当時、連邦政府は、準州における政教一体型の自治を巡ってヤングと対立しており、連邦軍派遣が決定されます。教徒たちは虐殺を恐れ、極度の緊張状態にありました。幌馬車隊がモルモン教に対して敵対的だという噂が流れると、民兵たちは過敏に反応します。民兵は、インディアンによる襲撃を偽装し、かつ襲撃にはパイユート族も参加させています。事件後、1人が死刑、他に8名が有罪判決を受けますが、ブリガム・ヤングの関与は立証できませんでした。この点には今も議論があるようです。結果的に、ヤングは知事を降り、非モルモン教徒が後任となります。
すべての宗教は、その始まりにおいては新興宗教であり、迫害を受けるものだと思います。他を否定する一神教の場合は、なおさらです。迫害は神の与えた試練と理解されるのでしょう。リーダーは、信徒を団結させ、迫害との厳しい戦いを勝ち抜き、教団を拡大していくことになります。明らかにブリガム・ヤングもその一人だと言えます。モルモン教は、アメリカ国内外に1,700万人の信徒を持つ世界宗教になっています。ヤングの苛烈さがなければ実現しなかった偉業とも言えます。Netflixのミニ・シリーズ「アメリカ、夜明けの刻」を見ました。モルモン教に関わる史実を巧みに織り込み、アメリカのフロンティアを描いた作品です。モルモン教の教義に関しては不案内ですが、教団の成り立ちがアメリカの歴史と酷似していることが印象に残りました。(写真:「アメリカ、夜明けの刻」出典:filmarks.com)