大祖国戦争はソヴィエト側の呼称であり、祖国が戦場となったこと、全国民が団結して祖国を守るという意味で名付けられたとされます。ナチス側ではバルバロッサ作戦と呼ばれます。独ソ戦は、第二次大戦を構成する戦争の一つではありますが、イデオロギーの戦いとも呼ばれ、特異な位置づけをされます。唯一の共産主義国家であったソヴィエトは、当時、まだ世界革命を捨てていませんでした。対して、ナチスは反共、反スラブを掲げて侵攻します。フランスを制圧したものの、英国を落とせなかったナチスは、ソヴィエトとの二正面作戦を回避すべきだったと言えますが、スラブ系を劣等民族と見下すヒトラーは、一切かまわず兵を進めます。独ソ戦の緒戦は、装備と勢いに勝るナチスの快進撃から始まります。
戦線の北部では快進撃したナチスですが、南部は広大な地域がゆえに進軍は遅れ気味でした。ナチスは、北部から兵力を南部に振り向けざるを得ませんでした。結果、ナチスのモスクワ到達は1ヶ月遅れることになります。そもそも開戦も計画より遅れており、都合2ヶ月遅れでモスクワ近郊に迫ります。ところが、その年は冬の訪れが例年よりも早く、寒冷対策が不十分だったナチスの進軍は止まってしまいます。それを待っていたかのようにソヴィエトの反撃が開始され、ナチスは後退を余儀なくされます。ナポレオンのモスクワ遠征と似た状況です。ナポレオン撤退の理由は、寒さに加え、ロシア側がモスクワに火をかけ食糧調達が困難になったためです。今回も、ソヴィエトは焦土作戦によってナチスの食糧調達を阻止しました。
その後、一進一退の攻防が続き、消耗戦の様相を呈してきます。主戦場は南部に移り、独ソ戦の分水嶺となったスターリングラード攻防戦が戦われます。ナチスは街を占拠したものの、赤軍に包囲され、降伏します。劣勢に転じたナチスは撤退をはじめ、最終的には赤軍がドイツに侵攻し、終戦を迎えます。大祖国戦争における軍人・民間の犠牲者数は、ソヴィエト側が2,000~3,000万人、ナチス側は600~1,000万人とされ、人類史上最大の犠牲者を出しています。イデオロギーの戦いと称されますが、要は、人命など意にも介さない全体主義国家同士の戦いであったこと、ヒトラーがロシアのユダヤ人とスラブ人の殲滅を意図した戦いであったことが、人類最大級の悲劇を生んだのでしょう。
その象徴的な戦いの一つがレニングラード包囲戦ということになります。ナチスは、1941年9月から3年弱に渡り、レニングラードを包囲しますが、最終的には赤軍が解放に成功します。その間、100万人を超す民間人が餓死したとされます。市民の3人に1人が餓死したことになります。その悲惨極まりない飢餓状態のなかでも、レニングラードの兵器工場は稼働し続けていました。ところが、レニングラードで製造された兵器は、レニングラードで使われることなく、ロシア各地の戦線に投入されていたと聞きます。人道無視の包囲を行ったヒトラーもさることながら、ナチスの兵力を釘付けにするためにレニングラード市民を犠牲にしたスターリンも、極悪非道と言わざるを得ません。大祖国戦争という命名は理解できるものの、全体主義特有の欺瞞をも感じさせます。(写真出典:history-maps.com)