北松浦半島の西部に位置する平戸は、古代から大陸の玄関口として機能してきました。1550年には、ポルトガル船が来港して南蛮貿易が、またフランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教が、ここ平戸から始まっています。その後、オランダ船やイギリス船も来港し、商館が建築されていきます。島原の乱を機に、幕府は、長崎の出島からポルトガルを放逐し、替って平戸のオランダ商館を移します。1640年のことです。オランダ貿易を独占する平戸藩を、幕府が警戒したとも言われます。平戸が南蛮貿易に沸いたのは約1世紀の間ということになります。その間、平戸では、商人たちが貿易で大儲けし、鄭成功が生まれ、キリシタンが弾圧され、じゃがたらお春がバタヴィアに追放され、カスドースといった南蛮菓子が生まれました。
そして、南蛮貿易によって富と最新の武器を得た平戸松浦氏は、松浦党の盟主となり、北松浦半島一帯に勢力を拡大します。日本三大水軍の一つに数えられる松浦党は、松浦四十八党とも呼ばれます。入江毎の勢力が集合離散を繰り返して一大勢力になったことから党と呼ばれるのでしょう。平家、源氏、秀吉、家康と盟主を変えますが、とりわけ秀吉との関係は深かったようです。関ケ原では東軍につきますが、家康からは信用されておらず、反意なきことを証明するために、藩主自ら城を燃やすことまでしています。5代将軍綱吉の時代に城の再建が許可されるまでの約90年間、松浦氏は、城なし大名だったわけです。外様大名の悲哀を感じさせる話です。平戸松浦氏の最大の名誉は、幕末、藩主の娘が公家の中山家に嫁ぎ、その孫が明治天皇になったことなのでしょう。
江戸初期、平戸藩は南蛮貿易の権益を失ったわけですが、その経済的損失を埋めたのは鯨漁だったようです。平戸島北部や生月島には多くの鯨組が組成され、なかでも、生月島の益冨組は、3,000人を抱える日本最大の鯨組だったようです。平戸で捕鯨が盛んになった背景には、水軍としての操船術や銛を打つ技術、そして南蛮貿易で蓄えた資本力があったと言われます。しかし、19世紀になると、装備に勝る欧米の捕鯨船が次々と現れ、平戸の鯨漁は廃れていきます。代わって隆盛したのが石炭の採掘でした、北松浦半島一帯に分布する北松炭田は、戦後の最盛期にあって、長崎県最大の出炭量を誇っていました。しかし、石油へのシフトが進んだエネルギー革命とともに衰退し、1973年には、全ての坑道が閉鎖されています。
平戸といえば、あご、ヒラメが有名です。ふるさと納税でも、海産物を中心とした返礼品が人気となり、2014年には寄付額日本一にもなっています。まき網で一時代を築いた平戸の水産業ですが、気候変動や隣国との関係から低迷しているようです。1977年に平戸大橋が開通すると、観光ブームが起きます。1991年には生月大橋も完成し、観光業もそれなりに進展してきたようですが、現状はイマイチとのこと。観光上、最大のネックとなっているのは、福岡と直結する高速道路がないことだと聞きました。現在は、南の武雄へ下ってから九州自動車道に乗り福岡へ向かいます。この12月には、そのルートが平戸まで延伸されます。さらに唐津を通って福岡へ直接向かうルートも計画されているようですが、完成までは時間がかかりそうです。当面、平戸は、歴史における役割を終えた町として静に佇むことになりそうです。(写真出典:jl-db.nfaj.go.jp)
