2026年4月26日日曜日

検非違使

葵祭の検非違使尉
農耕の開始ほど人類に大きな影響を与えた変革はないのではないかと思います。余剰生産物は人口増加、分業、組織化を生み、文明の発生へとつながります。また、農耕地と労働力の必要性が所有の概念を生み、絶え間ない争いをもたらしました。所有をめぐる争いは、戦争だけでなく、強盗、殺人、詐欺といった各種犯罪をも生み出したと考えます。農耕は、余剰食糧とともに、社会を乱す悪をも生んだと言えます。古代にあっては、村落や部族のリーダーが、事実上、警察、裁判、刑の執行を担っていたのでしょう。部族連合だったヤマト王権下でも、基本的には各部族に罪人処置は委ねられていたようです。時代が進むにつれ、武力を持った豪族が王権下の警察機能を担っていったものと思われます。 

7世紀末、律令体制が構築されると、二官八省の一つとして刑部省が設けられ、司法全般を担います。ただ、軽い罪に関しては、各官司、つまり各役所において対応していたようです。また、官僚の監視、都の風俗取締のために弾正台も設置されています。8世紀末、必要性が薄れたとして軍団が廃止されると、治安は悪化していきます。武装した強盗団や狼藉者が増え、荘園間の争いも武力闘争化していきます。つまり暴力が幅を利かせる時代になっていったわけです。そこで、9世紀初頭、嵯峨天皇は、天皇直轄の令外官(りょうげのかん)、つまり律令に定めのない職務として、都の警備を担う検非違使を設置します。検非違使とは、不法・違法といった非違を検察する使者を意味しますが、後には、警察・司法・刑罰全般を担当していくことになります。

810年、嵯峨天皇と平城上皇の対立から薬子の変が起こります。天皇と上皇の”二所朝廷”という深刻な対立を煽ったのが藤原式家の藤原薬子と兄の仲成だとされます。嵯峨天皇は、いち早く兵を動かし、平城上皇のいる奈良を囲みます。結果、上皇は出家、薬子は服毒自殺しています。ちなみに、事件を平城上皇の変とは呼ばず、薬子の変とするのは天皇家への配慮だと聞きます。平城上皇の寵愛を受けた藤原薬子が、尚侍(ないしのかみ)という天皇と臣下の文書の取次を仕切る官職に就いていたことが混乱を深めた一因でした。嵯峨天皇は、天皇直轄の令外官である蔵人を設け、男性秘書に文書の取次を任せます。検非違使と蔵人の設置は、機能不全に陥っていた律令制の終りを象徴しているとも言えます。この時点では天皇親政が前提だったことにも留意すべきなのでしょう。

検非違使は、律令官と兼務する形で任命されました。下級官吏には、宮中の門番である衛門府の人材が活用されます。つまり、幹部を除き、検非違使は、設立当初から武者で構成されていたわけです。その後、検非違使庁は、刑部省、弾正台といった類似組織を吸収して組織を拡大し、地方にも展開して人員を増やしていきます。検非違使の躍進には、天皇直轄であることだけでなく、その武力も大いに影響しているでしょう。こうして下級官吏に過ぎなかった武者が世に出るルートができあがっていったわけです。王朝時代に至り、いわゆる摂関政治の時代を迎えると、検非違使は絶頂期を迎えます。天皇に直接任命された別当(長官)の宣旨が律令に優先され、庁内の慣例である庁例に基づく運営がなされていきます。来るべき武家政権への歩みが、ここに始まったわけです。

院政期になると、院の警護を担う北面武士が存在感を高め、検非違使にも任命されていきます。なかには源氏も平氏も含まれていました。次第に、院は、検非違使庁を通さずに北面武士に直接指示していきます。結果、検非違使は権限が限定され、司法のみを担当していくことになります。武者は、検非違使という枠組みを必要としないほど存在感を高め、やがて武士となり、武家となっていったわけです。ちなみに、有職故実書「北山抄」を残した藤原公任は、検非違使別当も経験しています。紙が高価だったため、北山抄は検非違使別当時代の用済みの公文書の裏に書かれています。国宝「三条家本北山抄裏文書」は、いわば検非違使の事件簿であり、往時の社会実態をよく伝えます。あらゆる犯罪が報告されていますが、ほとんどの犯罪に武者がからんでいます。検非違使は、武力を武力で征する仕組みです。そのような対応は、往々にして状況をエスカレートさせ、負のスパイラルを生みがちなものです。(写真出典:ja.kyoto.travel)

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