パリ・コミューンほど、ロマンティックに偶像化された歴史はないのではないでしょうか。1871年3月から5月までの約70日間だけパリに出現した自治政権は、世界史上初の労働者政権とされます。マルクス、バクーニン、エンゲルス、レーニン等が絶賛し、かつパリ・コミューンに学んだとして、階級闘争の強化、暴力革命、プロレタリア独裁を訴え、その後継者たるスターリン、毛沢東らに引き継がれていきました。彼らは、パリ・コミューンを階級闘争の象徴に仕立てあげたわけです。それは、あたかもキリスト教における十字架のようでもあります。その後の左翼ラディカリズムに非現実的な目標感を与え、かつそのロマンティシズムは進歩的とされる若者たちを魅了していきます。しかし、パリ・コミューンは、階級闘争などではありませんでした。
フランス革命時、バスティーユ牢獄を襲った市民たちも、世界初の市民革命を起こしたという認識はなかったはずです。ただ、明らかに民衆が国王を攻撃し、政権を奪取するという革命の始まりでした。パリ・コミューンは、普仏戦争末期、屈辱的終戦か徹底抗戦かを巡る臨時政府とパリの民衆との対立から生まれています。また、民衆は、帝政復活を恐れていたとされます。パリに入城したプロシア軍と武装した民衆との衝突を回避するために、臨時政府は民衆の武装解除に動きます。これが民衆の蜂起につながり、臨時政府はパリを脱出して権力の空白が生まれます。急遽行われた選挙で革命派が勝利し、パリ・コミューンが誕生します。自治政権は、プロシアに対する徹底抗戦、帝政復活阻止で一致しただけの烏合の衆であり、パリは混乱の極致へと落ちていきます。
パリ・コミューン最後の1週間は”血の週間”と呼ばれます。パリに入城した臨時政府軍は、市街戦を展開し、パリを制圧していきます。一部国民衛兵軍を含むとは言え組織化もされていない暴徒と正規軍の戦いの結果は明らかです。コミューン側は1万~1万5千人が戦死、4万人以上が逮捕され、その場で処刑された者も多数に上るとされます。虐殺に近い状況ですが、マルキストたちにとって、パリ・コミューンを十字架に仕立てるためには、この惨劇こそが重要だったのだと思います。フランス国民にとって、パリ・コミューンの鎮圧は、政治的安定をもたらすものとして歓迎されます。一方で、第三共和政を確立させる契機になったという評価もあります。いずれにせよ、パリ・コミューンはフランスの革命の伝統のなかにしっかり位置づけられているように思います。
その証左とも言えるのが、シャンソンを代表する名曲「さくらんぼの実る頃」だと思います。もともとは、パリ・コミューン以前に銅工職人クレマンが作った失恋の歌でした。しかし、血の週間の最中、サクランボのカゴを抱えながらコミューンの負傷者の救護にあたり、自らも命を落としたという看護婦ルイーズを称える歌へと書き換えられます。当時のパリ市民が、パリ・コミューンの犠牲者を悼んでよく歌ったとされています。近年で言えば、ジブリ作品「紅の豚」の挿入歌として加藤登紀子が歌い評判となったようです。実は、1982年にフランス大統領フランソワ・ミッテランが訪日した際、フランス大使館を訪れた昭和天皇が、フランス人歌手とともに、「さくらんぼの実る頃」を歌ったという逸話も残っています。ビュット・オ・カイユは、この曲がよく似合う街だと思いました。(写真出典:theearfultower.com)
