2025年9月30日火曜日

安物買いの銭失い

廃棄衣料の山
”安物買いの銭失い”という警句は、父親から随分と聞かされました。安くても品質が悪いものは長持ちせず、結果、不経済になるという意味です。 呉服屋に育った父親らしい言葉だと思います。ひょっとすると呉服屋の定番セールス・トークだったのかも知れません。確かに、衣類などでは、この言葉がピッタリ当てはまります。ただ、高価な品が必ず高品質とも限りません。買い物は、値段ではなく品質で判断した方が、結果的には経済的になるということなのでしょう。文献上は、室町時代から存在し、江戸期に定着した言葉のようです。世界的には似たような警句が多くあり、英語の”Buy cheap, buy twice”などは、ほぼ同じ意味だと思います。

この警句を、売る側から見ると、価格戦略の問題ということになります。マーケティングの基本となるのは、顧客ニーズの存在とソリューションの提供です。ソリューションの提供を構成するのはマーケティングの4Pと呼ばれる、 Product(製品)、 Price(価格)、 Place(流通)、 Promotion(販売促進)です。それぞれが独立しているのではなく、相互に深く関連しているので、マーケティング・ミックスとも呼ばれます。なかでも価格戦略は、最も難しいテーマと言えます。単純に言えば、原価に利益を乗せれば価格となります。しかし、実際には、市場の競合状況の分析、それを踏まえた市場戦略なしに値決めすることはできません。典型的な市場戦略としては、市場シェアを拡大する、特定顧客を囲い込むといったものがあります。

市場拡大期に市場シェア拡大をねらう戦略は王道と言えます。シェア拡大が利益増に直結するからです。その際、重視されるのは、生産量を増やして製造コストを下げる大量生産体制の確保、販売店を増やすといった流通経路の拡大、そして各種キャンペーンといった販売促進策です。しかし、市場が飽和状態になると、これらの戦略は逆回転を始め、コスト倒れになっていきます。成功体験を持つ経営者たちは、シェア拡大路線にこだわり続けます。そこで登場しがちなのが、低価格戦略です。当初は、そこそこ市場シェアを獲得することになります。しかし、安売りは安売りに負けるという鉄則が立ちはだかります。泥沼の値引き競争は、行き過ぎたコスト・カットや製品の劣化へとつながります。体力と顧客を失った企業は市場から退場することになります。

もちろん、そこで新たなビジネス・モデルやマーケティング戦略を展開する、あるいは画期的なコスト・ダウン手法を開発した企業は、ゲーム・チェンジャーとして生き残っていきます。また、ゲリラ的に低価格をもって市場に殴り込みをかける企業もあります。さほど大きくない市場では成功することもありますが、やはり低価格戦略は利益を生みにくいので企業は短命に終わることになります。将来に渡って存続し、事業を継続していくことが前提とされる企業にとって、安売りは避けるべき戦略だと言えます。長々と書きましたが、”安物買いの銭失い”は、売る側にとっても”安物売りの銭失い”なのだと言えます。いずれにしても、マーケティングの基本であるニーズの存在とソリューションの提供を忘れないことだと思います。

呉服の話になりますが、父親から、上質な生地の着物は、仕立て直して、代々受け継ぐことができると聞きました。今は散逸していますが、私もいくつか受け継ぎました。それを可能にしているのは、着物の直線裁ちという手法があるからです。直線裁ちは、生地を直線的に無駄なく裁断します。型紙を使った西洋の立体裁断という手法では、多少の手直しは別として、仕立て直して再利用することは難しいと言えます。昨今、若い人に古着が大人気で、若い人の多い街には古着屋が並んでいます。実は、江戸期にも古着屋が繁盛していました。ただ、庶民は、古着を買ってそのまま着るのではなく、仕立て直して着ることが前提だったようです。仕立て直しは、SDGsにかなう着物の底力だと思います。(写真出典:.knitmag.jp)

2025年9月28日日曜日

ケバブ

かつて、日本でケバブと言えば、インド料理店で出されるシシ・カバブのことでした。40年くらい前に、イスタンブールへ行った際、ケバブ専門店で食事しました。その店は、40数種類のシシ・ケバブを出すというので驚きました。全て串焼きではありますが、肉の種類、肉の切り方、ソース等の組合せで、その数になるわけです。さらに、数種類のドネル・ケバブもありました。シュハスコと同じスタイルで、焼き上がったケバブが運ばれてきます。10種類くらいは食べたように思います。日本で、ケバブの知名度が上がったのは、2000年前後と言われます。トルコやイラン系の人が増えたことで、ドネル・ケバブの屋台が登場し、今はフランチャイズ店へと広がりを見せています。

世界三大料理と言えば、フランス料理、中華料理、トルコ料理です。いつの頃かは分かりませんが、欧州の美食家やコックたちの間で言われ始めたようです。フランス料理、中華料理は、馴染みもあるので分かりますが、なぜトルコ料理なのかと疑問に思う人も多いはずです。トルコ料理の起源はオスマン・トルコの宮廷料理にあるとされます。オスマンは、中東、東欧、北アフリカを支配する広大な帝国でした。多様な文化、多様な食材が集まり、多様な料理が生まれたとされます。また、その料理は、広いオスマン・トルコの領内はもとより、近隣のロシア、インドといった国々の料理にも大きな影響を与えました。つまり、単に美味しいというだけでなく、その歴史や影響力の大きさもあって、世界三大料理の一つとされているのでしょう。

シシ・ケバブのシシは串を意味し、ケバブは焼いた料理全般を意味するようです。シシ・ケバブは、串焼きと訳されるわけです。一方、ドネル・ケバブのドネルとは回転を意味し、スライスした肉を垂直な串に刺し重ね、回転させながら焼きます。肉は、スライス前に味付けされています。焼けた表面を削ぎ落として食べます。羊の丸焼きをした場合、食べる人には部位による不公平が生じます。そこで18世紀に、スライスした肉を串刺しにして、横に回しながらあぶるスタイルが考案されたようです。19世紀には、古都ブルサで、メフメトウル・イスケンデル・エフェンディが、現在の縦焼きスタイルを始めています。縦焼きのドネル・ケバブは、イスケンデル・ケバブとも呼ばれますが、考案者の名前が付けられているわけです。

縦焼きは、場所を取らない、焼けた表面から食べられるというメリットがあり、人気を集めたのでしょう。削ぎ落とした肉は、皿に盛られ、トマト・ソースと溶かしバターをかけ、ヨーグルトを添えて供されます。世界中に広まったドネル・ケバブは、皿盛りではなく、ファスト・フードとしてのケバブ・サンドが主流です。ケバブ・サンドは、ピタ・パンに肉と野菜を詰め、トマト・ソースとヨーグルトを混ぜたソースをかけて食べます。面白いことに、ケバブ・サンドは、トルコではなく、ベルリン発祥の食べ物です。トルコからドイツに移民したカディル・ヌルマンが、1972年、屋台で売り始めたようです。ドイツでは、全土に16,000軒のドネル・ケバブ屋があると聞きます。もはや国民食といったところです。300万人のトルコ移民を抱える国らしい話です。

トルコと日本は、1890年のエルトゥールル号事件以来、長く友好的な関係にあります。それでもトルコ料理には馴染みが薄かったわけです。他国の文化に馴染みがあるかどうかは、ひたすら人の往来の多寡によるものなのでしょう。40年前のトルコ旅行は、結構、お得に行くことができました。というのも、日本人観光客の少なさを憂慮したトルコ政府が打ち出したキャンペーンを利用できたからです。当時、トルコを訪れる日本人は、年間でも2千数百人に過ぎませんでした。中国、韓国、欧米とは比較にならないほど少なかったわけです。近年、トルコやイランはじめ中東系の人が増えたこともあり、ドネル・ケバブ屋は更に普及していくように思います。ケバブ・サンドの手軽さから、お祭りの屋台の定番になっていく可能性もあります。(写真出典:hotpepper.jp)

2025年9月26日金曜日

南都焼討

平重衡
東大寺の盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏には、高校の修学旅行以来、何度もお参りしてきましたが、毎回、その偉容には圧倒されます。高さは14.7mであり、中国やタイの大仏、あるいは牛久大仏には及びもつきません。ただ、それらを凌ぐほど大きく見えます。その最大の理由は、他の大仏と違って、大仏殿という屋内に安置されているからなのでしょう。かつて、東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築とされていました。現在は、さらに大きな木造建築物も存在するようですが、軸組も木造という建物としては、依然、世界最大とのことです。大仏は、巨大な大仏殿の天井と相まって、実際の高さ以上の偉容を見せているのでしょう。しかも、それが8世紀の建立ということを考えれば、まさに驚異的と言うしかないと思います。

奈良の大仏は、その長い歴史の中で、幾度か焼失し、再建されています。建立以来、最初となった焼失は、1181年1月のことでした。南都の仏教勢力と対立した平家が兵を進め、東大寺、興福寺などを焼き討ちにします。いわゆる南都焼討です。平治の乱で台頭した平清盛は、大和国を領地に加えます。鎮護国家体制を担ってきた東大寺や藤原氏の菩提寺である興福寺は、平家の支配に抵抗します。以仁王の挙兵が起こると、仏教界は反平家の動きを鮮明にします。その先頭に立つ園城寺(三井寺)に対して、清盛は五男・重衡を総大将に攻撃を仕掛け、炎上させます。続けて、不穏な動きを見せていた南都仏教界に対しても、進撃を開始します。興福寺は、僧兵を集め、堀を築くなど防御を固めていきます。1月14日、戦闘が開始されますが、膠着状態に陥ります。

翌1月15日の夜、重衡が灯りを求めると、部下が民家に火を放ちます。折からの強風に煽られた火の手は、瞬く間に南都を焼き尽くします。主だった寺院や仏像が焼失し、僧侶、避難していた住民など3,500人が焼け死んだとされます。南都焼討は、インドや中国でもこれほどの法難はないであろうと言われる大惨事でした。平家物語のなかの重衡は、あれほど火の手が広がるとは思っていなかった、と悔述します。三井寺攻めと同様に、火を放つことは当初から計画されていたものの、想定以上に延焼したのは偶然だったということなのでしょう。南都焼討から2ヶ月後、清盛は、謎の病気を得て、ほどなく亡くなります。当然のことながら、祟り、因果応報と騒がれることになります。南都焼討、清盛の死とともに、奢る平家は、坂道を下るように没落していきます。

平家は、その栄華の極みを治承三年の政変(1179年)で迎えます。清盛は、後白河法皇の院政を停止し、孫の安徳天皇を即位させ、所領する知行国も最大となります。栄華の頂点は没落の起点でもあります。翌1180年には、以仁王が反平家の烽をあげて挙兵します。源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱の始まりです。頼朝の挙兵、義仲の挙兵、一ノ谷の合戦、屋島の戦い、そして1185年の壇ノ浦の戦いへと続き、平家は完全に滅びます。本質的には、権勢をむさぼり尽くした清盛の自滅ということになるのでしょう。個人的には、1179年に、清盛の子である重盛と盛子が亡くなったことが没落の要因ではないかと思っています。院と平家のパイプ役だった二人を失い、清盛は歯止めが利かなくなります。南都焼討は、清盛の暴走を象徴する事件だったわけです。

南都焼討の実行犯と言える平重衡は、その後、一ノ谷で生け捕りにされ、平家一門で唯一人の捕虜となります。鎌倉に送られ、最後は南都に引き渡されて処刑されています。ところで、平家物語の重衡に関する描き方には、やや違和感を覚えます。重衡は、前代未聞の大罪人にも関わらず、好意的、かつ詳しく描かれています。そもそも、重衡は、平氏一門にありながら、気さくで人間味があり、かつ懐の深い人だったようです。頼朝ですら、その器量には感じ入ったともされます。そう言えば重盛も好意的に描かれています。重盛や重衡に対する世間の好意的な評価が反映されているのかもしれません。もっとも、清盛の極悪人ぶりと比べて好印象という程度だった可能性もあります。平家物語でも、清盛の強欲を強調するために、重盛や重衡が好意的に描かれた可能性もあります。それにしても、重衡に関する記述は長すぎるようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年9月24日水曜日

カサブランカ

憧れのカサブランカへ行ったのは、45年も前のことです。スペイン語で”白い家”という意味のカサブランカは、モロッコ最大の都市であり、港湾と商業の街です。なぜカサブランカに憧れていたのかというと、ひたすら映画「カサブランカ」(1942)の影響ということになります。大スターであるハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが主演し、アカデミー賞を獲得した歴史的名作です。とりわけ好きな映画というわけではありませんが、とにかく超有名な映画であり、子供の頃から何度かTVで見た記憶があります。第二次世界大戦中に製作され、反枢軸国という政治的スタンスのうえにセンチな大人のラブ・ストーリーが展開されます。テーマ曲「As Time Goes By」も大ヒットし、数々の名セリフもよく知られています。

最も有名なセリフは「君の瞳に乾杯」だと言えます。American Film Instituteの名セリフ・ベスト100でも、第5位にランクされています。英語では”Here's looking at you, kid”ですが、”君の瞳に乾杯”は歴史的名訳だと思います。印象的なラスト・シーンに使われる「ルイ、これが俺たちの美しい友情の始まりだな」、バーグマンが馴染みのピアニストに言う「あれを弾いて、サム、”As Time Goes By”を」も有名です。ただ、個人的な一番のお気に入りは別にあります。「昨日の夜はどこにいたの?」と女性に聞かれたボガートが「そんな昔のことは覚えていない」と答え、さらに「今夜は会える?」と聞かれ「そんな先のことはわからない」と返します。クールな二枚目ハンフリー・ボガートゆえに成り立つ名セリフだと思います。

カサブランカは古い港町ですが、16世紀にはポルトガルが占領し、18世紀以降はアラウィー朝モロッコが支配下に置きます。20世紀初頭には、住民暴動を制圧したフランスの保護領となります。映画が時代設定とした1941年には、フランスのヴィシー政権下にありましたが、自由フランスはじめ連合国側も暗躍するという複雑で危険な街でした。脚本は、このような背景をしっかりとプロットに編み込んでおり、見事な出来だと思います。また、監督のマイケル・カーティスはハンガリー出身のユダヤ人であり、他の製作スタッフの多くも欧州を逃れてきた人々でした。彼らの思いこそ、単なるメロ・ドラマと侮れない理由の一つでもあります。また、撮影は、すべてハリウッドで行われており、カサブランカの街はまったく登場しません。

つまり、私は、カサブランカの街に憧れたのではなく、映画に憧れていただけなわけです。実際のカサブランカは、いたって現代的で無機質な街でした。フレンチ・コロニアルなテイストも期待しましたが、それすらありません。もちろんメディナ(旧市街)にも行きましたが、例えばタンジールのメディナのようなエスニックな魅力には欠けました。カサブランカには2泊したのですが、市内の観光などそこそこに、丸一日を使って250km南にあるマラケシュ観光に出かけました。世界有数の観光地マラケシュは、かつての都であり、数々の映画のロケ地でもあり、クロスビー、スティルス&ナッシュの”マラケシュ・エキスプレス”(1969) のヒット以降は世界中のヒッピーが目指す街にもなりました。結局、モロッコ観光のハイライトはマラケシュになりました。

世界三大がっかりと言えば、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫。日本の三大がっかりは、札幌の時計台、高知のはりまや橋、長崎のオランダ坂と言われます。要は、高名にも関わらず、意外と規模が小さかったということなのでしょう。こちらが勝手にイメージを膨らませすぎてがっかりだったという意味では、カサブランカも加えたいところです。アニメやドラマの聖地巡礼は大流行ですが、映画「カサブランカ」の場合は、モロッコのカサブランカではなく、ハリウッドのスタジオに行くべきなのでしょう。モロッコに行くなら、訪れるべきはフェズ、マラケシュ、タンジールだと思います。個人的には、ラバトも好きでした。今までも、ラバトのシェヘラザード・ホテルで食べたクスクスが美味しかったことを覚えています。(写真出典:bookoff.co.jp)

2025年9月22日月曜日

夜景

函館の夜景
日本三大夜景の2024年版は、1位北九州、2位横浜、3位長崎、となっていました。日本三大夜景と言えば、函館、神戸、長崎だとばかり思っていたので驚きました。そもそも日本三大夜景も、いつ、誰が言い始めたのか定かではありません。1950年代末、旅行ブームが始まった頃に、旅行業者が勝手に言い始めたという説があります。江戸時代にも、日本三大〇〇、〇〇番付などがあったわけですが、恐らくかわら版屋が仕掛けて、ヒットしたネタなのだと思います。基準や公平な審査などがあるわけでもなく、話題になればいいといった程度の話なのでしょう。ところが、新三大夜景は、2015年から、社団法人夜景観光コンベンション・ビューローなる団体が認定する夜景観光士6千数百名が投票で選出しているようです。

選定の基準も、夜景観光士なる資格も、認定している団体も、なんだかよく分かりませんが、少なくとも、詳しい人たちによる投票ですから、意味のある結果なのでしょう。かつて、夜景と言えば、夜に高いところから見下ろす街の景色を指していたと思います。ところが、新三大夜景では、北九州や横浜が選ばれていることからして、見方が異なるようです。要は、街や建物、あるいは工場も含めてライトアップに熱心であることが評価されているように思えます。夜景観光コンベンション・ビューローが選定した世界新三大夜景には、モナコ、長崎、上海が選ばれています。上海では、高所ではなく、外灘から眺める対岸の浦東ビル群の夜景が観光名所です。中国共産党が、中国の経済的躍進の象徴として設計したかのようなライトアップになっています。

50~60年前と比べれば、ライトアップされた建物や街区は、圧倒的に増えました。LEDの登場によって、コストが安くなったことが主な要因なのでしょう。ライトアップだけでなく、クリスマス時期になると、各地で派手なイルミネーションも競われますが、やや過熱気味だと思います。イルミネーションの起源は、マルティン・ルターにさかのぼり、木の枝に多くの蝋燭を灯して星空を再現しようとしたとされます。日本でも、明治時代からイベントなどで行われてきました。一方、日本で、初めてライトアップされた建造物は、1963年、神戸ポートタワーだったようです。ライトアップが広がることになったのは、照明デザイナーの石井幹子氏の貢献が大きかったのだと思います。1989年に彼女が手がけた東京タワーのライトアップがきっかけになったようです。

私のお気に入りの夜景は、函館山から見る函館の夜景、将軍塚から見る京都の夜景、そしてエンパイヤ-・ステイト・ビルから見るNYの夜景です。思うに、夜景の美しさは、ただ光にあふれキラキラしていれば良いというものではなく、光と闇のコントラストが大事なのだと思います。函館は暗い海とのコントラスト、京都は三方を囲む暗い山とのコントラストが美しいと思います。NYは暗い高層ビル群の谷間に続くヘッドライトとテールランプの川が見事だと思います。マンハッタンは、一方通行だらけなので、道によって白い光と赤い光の川ができるわけです。いずれも見事な光と闇のコントラストを作っていると思います。また、これらに共通するのは、夜景の近さです。夜景は、遠すぎても、近すぎても、塩梅が悪く、ちょうど良い距離感が大事だと思います。

どうやら、近年、夜景という言葉の定義が混乱しているのではないか、とも思えます。夜の景色という意味では、山の上から見る夜の街も、ライトアップされた構造物や街区も、いずれも夜景ということになるのでしょう。ただ、昔から夜景と呼ばれてきたのは、人の営みが作る光と自然の闇とのコントラストであり、いわば天然の夜景と言えます。一方、新三大夜景などは、夜景というよりも夜の景観とでも呼ぶべきではないでしょうか。LED以降の夜の景観は、養殖の夜景と言ってもいいのでしょう。ちなみに、LED以降、日本の都市部の夜は、やたら明るくなりました。明るければいいというものでもないように思います。東日本大震災後に節電が求められた頃、東京の街は闇に沈んでいました。今となっては、少し懐かしくもあります。(写真出典:jre-travel.com)

2025年9月20日土曜日

廃仏毀釈

伊藤若冲の国宝「動植彩絵」全30幅は、宮内庁が所蔵しています。もともとは、若冲が永代供養を願って相国寺に寄進したものです。相国寺は、明治初期の廃仏毀釈のおり、敷地を失う危機に直面し、動植彩絵を明治天皇に献納します。そこで得た下賜金をもとに敷地を守ることができたとされます。また、東京国立博物館の正門を入って左手の奥まったところに法隆寺宝物館があります。所蔵される宝物は、廃仏毀釈の際、法隆寺から明治天皇に献納されたものです。やはり、明治天皇から得た下賜金で、法隆寺は存続することができたとされます。いずれも、現在は国の管理に移されていますが、廃仏毀釈の際に献納された宝物は、まだまだ天皇のお側に多くあると聞きます。

廃仏毀釈とは、仏教を排除し、釈迦の教えを捨てる、という意味です。仏教界にとっては一大法難でした。明治の初め、神官や大衆の間で起こった運動であり、決して明治政府の政策ではありません。ただ、明治政府が発出した「神仏分離令」等をきっかけに起った排斥運動であることは明らかです。王政復古、祭政一致を掲げる明治政府は、神道の国教化を企図し、まずは神仏判然令や神仏分離令によって、奈良時代から続く神仏習合を禁止し、神社から仏教的な要素を排除しようとします。あくまでも分離がねらいであったわけですが、神道国教化の流れを追い風とした神官たちが、大衆を巻き込み、廃仏毀釈へと走ります。また、薩摩など一部の藩も、寺院の財産を藩に取り込むことを目的として積極的に運動に加担しました。

薩摩藩領内では、1,066の寺院が完全にゼロになったといいます。また、土佐藩では、7割以上の寺が廃寺となっています。永代橋、永代通り、門前仲町など、その名を残す永代寺も、広大な敷地を誇る名刹でしたが廃寺になります。現在の小規模な永代寺は後に復興されたものです。統計は残っていませんが、一説によれば、全国の寺院の半数が廃寺となったと言われます。廃寺ばかりではなく、所蔵する貴重な仏像、宝物も失われ、多くの文化財は海外へも流れます。地域格差も大きかったようですが、行き過ぎとも言える状況に、明治政府は沈静化に動きます。また、各地では仏教と寺を守るための護法運動も起こります。廃仏毀釈運動は、明治元年から4年程度続きました。廃仏毀釈運動は、文化財保護という観点からすれば、薩長政府による大失態と言えます。

廃仏毀釈運動のきっかけは明治政府の神仏分離令等だったとしても、その背景には、江戸幕府の体制に組み込まれ、保護されてきた寺院への反撥もありました。ゆえに大衆運動化したというわけです。江戸幕府が創設した寺請制度は、領民を寺の檀家にすることで、領民管理とキリスト教禁教を徹底しようとするものでした。寺は、いわば幕府の出先機関となり、種々の保護を受けることになります。地域や寺によって格差もあったとは思いますが、おおむね、寺は寺請制度にあくらをかいていたと言えるのでしょう。政府は、廃仏希釈を意図していなかったとしても、徳川は悪だと大衆に喧伝し、かつ神道の国教化をねらうという思惑から、曖昧な姿勢、見て見ぬフリを続けていたのではないかと思います。だとすれば、これは犯罪的だとも言えます。

法難を受けた仏教界は存亡の危機に立たされたわけですが、一方では、それが幸いした面もあります。仏教界は、廃仏毀釈を機に、姿勢を正し、結束を固めた結果、復興を遂げることができました。また、明治政府の神道国教化政策は、神道の教義の曖昧さなどによって挫折します。そもそも神道は信仰であって、宗教ではありません。明治政府は、それを認めた上で、神道を国家的祭祀を担う国家神道と位置づけ、国政に取り込みます。後に軍国主義化が進むなかで、神道は大きな役割を果たしていくことになります。敗戦後、GHQは神道指令を発出し、国家神道の廃止、政治と宗教の分離、信教の自由の確保を目指します。国をはじめ公的機関からの神道への財政支援が禁止され、神社の国家管理は廃止されることになりました。(写真:若冲「動植彩絵」出典:ja.wikipedia.org)

2025年9月18日木曜日

パレード

マンハッタンでは、ほぼ毎週、何らかのパレードが行われています。独立記念日など国民的な祝祭日はもちろんですが、多いのはエスニック系のパレードです。なかでも有名なのが、3月17日に行われるアイリッシュのセント・パトリックス・デーのパレードです。NYは、アイリッシュの街でもあるので大盛り上がりです。私が、最もNYらしいと思うパレードは、11月のサンクス・ギビング・デーに行われるメイシーズ・デー・パレードです。百貨店のメイシーズがスポンサーとなり、セントラル・パーク・ウェストを山車や巨大なバルーンが練り歩くパレードです。1924年から続くNY伝統のパレードは、全米に向けてTV中継も行われます。このパレードが、ホリデー・シーズンの始まりを告げ、クリスマス・セールの幕開けともなります。

パレードとは、祭事、祝い事、イベント時等に、見物人に見せるために屋外を行列で進むことと定義されています。その語源は、ラテン語の準備するという意味の”parare”だそうです。つまり、自然発生的なものではなく、人に見せるためにしっかり準備された行列や行進ということなのでしょう。その始まりについては、4000年前のバビロニアで、新年を祝うために、神々の像を掲げて人々の間を練り歩いたという記録があるようです。人々が神殿にお参りすれば済むことのように思いますが、恐らく神殿は、誰もが気軽に入れる場所ではなかったのでしょう。今でも、洋の東西を問わず、神仏像は、街を練り歩き、御利益を届けています。日本の神輿も同じ系統です。偶像崇拝を厳しく禁じるイスラム教ですら、祭事の行列はあります。

宗教的パレードの次に登場したのは軍事的パレードだったと思われます。古代ローマ名物とも言える凱旋パレードは、建国間もない王政の時代から行われていたようです。紀元前8世紀頃のことです。古代ギリシャから伝わった凱旋式がパレードへと進化したものと思われます。実に豪華でスペクタルにあふれたパレードであり、ローマ市民を熱狂させたようです。領土拡大の一途をたどっていたローマを象徴するイベントと言えます。世界帝国となっても、将軍たちは、ローマ市民の賞賛を浴びることにこだわったわけです。もちろん、市民に選挙権があり、政治を左右する力を持っていたからです。江戸期までの日本に、凱旋パレードがあったとは聞いたことがありません。いずれにしても、ローマの凱旋パレードが、後の世のパレードの原型になったのでしょう。

パレードの目的は、一体感醸成や組織強化なので、市民参加型のパレードが多くなります。市民が参加しないパレードの典型は、国家元首や司令官に軍の忠誠や統制の高さを示す観兵式、いわゆる軍事パレードです。軍事力の誇示ではありますが、軍の士気高揚と組織強化、さらには国民に誇りを持たせて結束を図るねらいもあります。軍事パレードは、全体主義国家ほど派手になります。国民の犠牲のうえに軍事強化を図っているので、国民の納得を得る必要があるのでしょう。さらに言えば、全体主義国家が最も恐れるのは革命です。ロシア、中国、北朝鮮等の軍事パレードは国内への威圧でもあるのでしょう。また、革命の本場で労働運動や市民運動の盛んなフランス、統一国家かどうかも怪しいインド等の軍事パレードも、国内への威圧のように思えます。

パレードに音楽は付き物です。ローマの凱旋パレードにも楽隊が同行していたようです。原題の軍事パレードでも軍楽隊の演奏は欠かせません。世界初の軍楽隊とされるのは、17世紀に誕生したオスマン・トルコの“メフテル”です。メフテルの演奏する曲に触発されて、モーツァルトのトルコ行進曲をはじめとする様々な行進曲が生まれました。ただ、軍楽隊の誕生以前から、行軍の際に同行する鼓笛隊は存在しました。大昔から戦場で合図や信号として使われていた太鼓がルーツだとされます。それを行軍の際に使い始めたのは、15世紀末のことであり、当時、最強と言われたスイス傭兵が最初だったようです。いずれにしても、鼓笛隊や軍楽隊は、後にマーチング・バンドとなり、世界中のパレードで活躍しているわけです。(写真出典:jiji.com)

2025年9月16日火曜日

人類の進歩

EXPO2025
閉幕が迫るEXPO2025大阪、いわゆる大阪万博は、様々な問題を抱えつつも、順調に来場者数を増やしてきたようです。行けば行ったで楽しいのでしょうが、私は、暑い最中、人混みの中に入ろうとは思いません。大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」とされています。まるで見本市のキャッチ・コピーであり、予定される展示物を包括的に表現しているだけのように思えます。1970年の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であり、科学技術の発展と自然環境の調和を模索するという壮大で挑戦的なものでした。そこで最も注目を集めた展示の一つは、アポロ12号が持ち帰った「月の石」でした。人類が月に行くという、まさに人類の進歩の象徴だったわけです。

高校の文化祭で、化学部に潜り込み、展示の準備を手伝いました。ちょっとした悪ふざけをしてみたかったからです。それは、近所で拾った石を麗々しく「月の石」として展示することでした。万博と月の石の熱狂に対する皮肉のつもりでした。単なるシャレにも関わらず、結構、人が集まりました。一番驚いた反応は、他校の女子生徒から「これは本物ですか?」と聞かれたことです。人類はまったく進歩していないなァ、とつくづく思ったものです。人類の進歩は、直立二足歩行を行って以来、止まったままだとされます。人間は、DNAレベルでの進化を止めた唯一の生物とも言われます。動物の進化の頂点に立つという意味で、自らを霊長類とも呼びますが、1対1では、いまだに大きな熊や目に見えないほど小さなウィルスにも負けるわけです。

直立二足歩行によって、自由になった両手が道具を使うことに、自在に使えるようになった喉が言語の発達につながります。道具の使用、そして言語を駆使した集団の形成によって、人類は他の生物を圧倒していくことになりました。そして道具は、進化に進化を遂げ、ついには月にまで行けるようになったわけです。人類の進歩と言われているものは、道具の進化に過ぎません。道具を進化させたことが人間の進歩だと理解しているわけです。むしろ、道具を得たことで、人間はDNAレベルでの進化を止めています。また、道具の進化は、自然の秩序を破壊することにつながり、ついには地球の破壊というレベルにまで到達します。人類は自分で自分の首を絞めるという事態に陥ったわけです。1970年大阪万博は、この問題をテーマとしたわけですが、更なる道具の進化で問題を解決しようとした点に間違いがあったとも言えます。

一方、集団化、組織化に関しては、農耕の開始とともに急速に高度化したものの、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明以降、大きな進化は成し得ていないと思います。それどころか、農耕が育んだ所有という概念がゆえに、個人対個人、個人対組織、組織対組織という対立構造を常に抱えることになります。この悩ましい問題の解決に向けて、人類は、法律、制度、思想、宗教といった様々な試みを行ってきましたが、いまだ、決定的な解決策や有効な対策を獲得できていません。人類は、DNAレベルだけでなく、思考レベルにおいても、進化を止めていると言えます。ガザ回廊での虐殺やウクライナでの戦闘は、道具だけが進化し、人間は一切進化していないということに関する明白な証拠でもあると思います。

それどころか、道具の進化は、人間を退行させるという段階に入りつつあると思います。アメリカのIT産業では、求人数が大幅に減ったようです。AIによる業務の代替が進んでいるわけです。AIは、多くの職業を奪うだろうと言われます。AI化が進むと、人間は、より高度で、より創造的な仕事に専念できると言われますが、そのような仕事がどれほど存在するのでしょうか。同時に、AIの普及は、人間の考えるという能力を奪う可能性すらあります。道具の進化は、地球を破壊するだけでなく、人間をも破壊しかねないレベルに入ったと言えるのでしょう。イギリスの歴史学者ジョン・アクトン卿は「人間が歴史から学ばないことは歴史が証明してる」と語っています。道具の進化は、本当に人間を幸せにしてきたのか、という歴史考察が必要だと思えます。(写真出典:expo2025.or.jp)

2025年9月14日日曜日

柚子胡椒

東陽町で働いていた頃、門前仲町の小料理屋「ふく田」が気に入り、毎月、通っていました。大人気店なので、行った際には、翌月の空いている日を聞いて、予約します。一緒に行く仲間は、予約してから探していました。 こっちの都合ではなく、店の空きに合わせて通っていたわけです。ふく田で飲む際、シメには、必ず”柚子胡椒のおにぎり”を食べていました。自家製の青々とした柚子胡椒をおにぎり全体にまぶしたものです。作りたてと思われる柚子胡椒は、さほど辛いわけではなく、実に爽やかなおにぎりでした。他の店でお目にかかったことはありません。ちょうどいい塩梅の自家製柚子胡椒を準備するのが手間だからなのでしょう。

柚子胡椒の胡椒は、九州北部の方言で唐辛子を指します。青唐辛子と熟す前の青い柚子の皮をみじん切りにして、塩を加えて熟成させたものが柚子胡椒です。塩を多く加えると、保存がきき、青い色も保てますが、柚子の風味が飛びます。塩が少なければ、青色の鮮やかさは失われます。この加減が難しいわけです。ふく田の柚子胡椒は、塩気が少なく、かつ青いという熟成が進む前の新鮮な状態なのだと思います。保存がきかないので商品化は難しいのだと思いますが、ふく田では、頼むと譲ってくれます。宮崎の小料理屋で、もも焼きに添えられた柚子胡椒が美味しいと騒ぐと、帰りしなに、一瓶、お土産にくれました。ふく田と同様、作りたての新鮮な柚子胡椒でした。サルサ・ソース等も同じですが、辛味調味料は、フレッシュなものが美味しいと思います。

九州では、どこにでも柚子胡椒がありますが、その発祥は定かではないようです。農水省の「うちの郷土料理」では福岡県の名物とされています。県の東部、大分県の中津との境にある英彦山(ひこさん)周辺が発祥という説が有力なようです。英彦山は、大峰山、羽黒山と並んで日本三大修験山の一つとされます。古くから多くの山伏が集まり修行する山でした。その山伏たちが、青唐辛子と青柚子を使って、保存のきく調味料を考案したというわけです。戦国時代、英彦山は、数千人の僧兵を抱える一大勢力だった時期もありました。しかし、16世紀末、大友宗麟の跡継ぎである義統との戦いに敗れ、勢力を失ったようです。ちなみに、ポルトガルが持ち込んだ唐辛子を最初に食べたのが、キリシタン大名だった大友宗麟だったとする説もあります。

柚子胡椒は、ほぼほぼ全ての料理に合うという奇跡の万能調味料です。煮物、焼き物、蒸し物、汁物といった和風はもとより、洋風、中華にも合います。風味が強いので、味変にはもってこいの調味料でもあります。私は、豆腐の味噌汁によく使いますが、ほんの少し入れるだけで、味は大いに変わります。2008年、柳川の高橋商店が「ゆずすこ」を発売します。瓶のラベルに記載された”YUZUSCO”の方がなじみ深いと思います。柚子胡椒に酢を加えて液体状にしたものです。柚子胡椒の風味はそのままに、液体になったことで使いやすく、酢を加えたことで合う料理の幅が一層広がりました。タバスコのダジャレだと思っていましたが、”ゆず”と”す”と”こしょう”を組み合わせた命名だったようです。ゆずすこは、柚子胡椒の利用拡大に大いに貢献したと思います。

九州北部で、なぜ唐辛子を胡椒と呼ぶのかは、興味深いところです。もともと日本には、カラシと胡椒という二つの辛味調味料がありました。カラシは、自生するカラシナを使って、古来から調味料として利用されていたようです。インド原産の胡椒は、奈良時代、唐からもたらされ、中国の言葉がそのまま定着します。一方、南米原産の唐辛子は、16世紀、ポルトガルが日本に伝えました。既に定着していた二つの辛味調味料にちなんで、唐辛子とも、南蛮胡椒とも呼ばれたようです。なお、唐辛子の唐とは、中国ではなく、外国という意味です。その後、南蛮胡椒という呼び名は簡略化されていきます。全国的にはナンバン、九州北部ではコショウと呼ばれるようになり、今に残ったというわけです。ちなみに、九州北部で、一般的な胡椒は、唐辛子と区別するために洋胡椒と呼ばれると聞きます。ややこしい話です。(写真出典:delishkitchen.tv)

2025年9月12日金曜日

「ランド・オブ・バッド」

監督: ウィリアム・ユーバンク       2024年アメリカ

☆☆+

キレの良い映像、リアルな音響、テンポの良い展開が、ところどころに見られましたが、総体としては凡庸な作品だと思います。ラッセル・クロウも、こんな映画に出ているようでは心配になります。良かったのは、今現在のアメリカ軍の戦闘の有り様がよく分かった点です。自衛隊では統合末端攻撃統制官と呼ばれるJTAC(Joint terminal attack controller)が主人公という映画は初めてなのではないかと思います。JTACは空軍の所属ですが、陸軍や海兵隊の前線部隊と行動をともにし、ドローン等の遠隔操作を行うネヴァダ州のネリス空軍基地と緊密に連携しながら、近接航空支援を運用します。JTACは、航空支援の実行を最終判断する権限を与えられています。

映画の前半は、今どきの映画らしくTVゲームのような展開を見せます。このあたりはテンポも良く、いかにJTACが機能するかもよく伝わります。後半は、ローテクなサバイバル・ゲームが展開します。監督の腕の良さを感じさせる卒のない展開ではありますが、とりわけ印象的というほどでもありません。このようなシーンでは、サバイバルが展開する空間の魅力も大きな要素となります。本作の設定は、ややこじんまりとした印象を受け、映画の凡庸さの要因にもなっていると思います。いずれにしても、この古典的とも言えるサバイバル・シーンによって、ハイテク化した戦闘への疑問を提示したかったのでしょう。”やはり、戦争は、根性と仲間への思いだぜ”と言ってるようではありますが、その対比が不十分で伝わりにくくなっています。

映画は、フィリピン山中とネリス空軍基地のシーンを切替えながら進みます。ここでも、緊張感あふれる戦闘現場とだらけ気味で官僚的な空軍基地を対比させることで、ハイテク戦争への疑問を呈しているのでしょう。しかしながら、これがねらい通りに演出できていないばかりか、映画のテンポや緊張感を壊す結果を招いています。最大の問題点は、空軍基地でのシーンにメリハリがないことです。だらけ気味の基地とは言え、映画のテンションを失わずに描く必要があります。脚本にも、演出にも、テーマへのフォーカスが足りていません。監督としては、ラッセル・クロウの演技で、その点をカバーするつもりだったのではないかと思います。ただ、演技とシーンの構成がマッチせず、そのねらいは見事に失敗しています。

JTACのメリットは、ピンポイントにまで絞り込まれた攻撃目標の座標と攻撃のタイミングだと思います。現場のJTACによるリアルタイムな報告で、基地は正確で効果的な航空支援が可能になります。その前提になっているのは、衛星を通じた通信、そして監視衛星からのクリアな画像ということになります。軍事用ドローンのオペレーターが、現場から遠く離れているにも関わらず、PTSDを発症するという話を聞きますが、このクリアなライブ映像がゆえとも言えるのでしょう。今般、中国が、対日戦争勝利80周年の軍事パレードで、戦車やロボット犬といった各種ドローンを披露していました。軍事面でのハイテク化がさらに進むと、戦闘現場に兵士は不要になるとも言われます。しかし、攻撃を判断するのは人間であり、攻撃されるのは人間とその営みです。

ハイテク化が、攻撃判断のハードルを下げ、人的被害が拡大することが懸念されています。攻撃判断もAI化されていくのかもしれません。人的被害は、さらに拡大するようにも思われます。いずれにしても、本作は、JTACを主人公に据えるという発想までは良かったのですが、凡庸な結果に終わってしまっています。その最大の理由は、軍事のハイテク化に対する思想的深掘りに欠けていたからなのでしょう。ただのアクション映画をねらうのであれば、中途半端なハイテク批判など織り込まずに、徹底的にテンポの速い戦闘シーンをたたみかけるべきだったとも思います。監督のウィリアム・ユーバンクは、パナヴィジョンの技術者出身という風変わりな経歴を持っています。キレのある映像もうなずけます。一方で、ドラマの構成力はイマイチと言わざるを得ないように思います。(写真出典:eiga.com)

2025年9月10日水曜日

甲斐姫

忍城
豊臣秀吉が天下を統一したのは、関東一円を支配した後北条家を小田原攻めで滅ぼした1590年のことです。応仁の乱以来120年以上続いた戦国時代が、ようよう終ったわけです。後北条氏の小田原城は、全長9kmに及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲んだ総構えで有名でした。秀吉は、22万という大軍勢をもって小田原城を囲み、石垣山一夜城を築くなどして後北条氏を圧迫しますが、その攻略には3ヶ月を要しています。小田原攻めを行う一方で、秀吉は、関東に点在する北条側の22の城攻めも行ってます。その一つが忍(おし)城でした。室町中期、現在の行田市に、成田氏が築いた城です。利根川と荒川に挟まれた広大な沼地を巧みに使った難攻不落の城でした。 

小田原攻めを前に、成田氏長は、後北条氏支援のために、手勢を率いて小田原城に入ります。忍城には、伯父である成田泰季を城代として立てます。秀吉は、石田三成に2万3千の軍勢を与え、わずか500人の兵と農民2,500人が立てこもる忍城を攻めさせます。この大軍は、秀吉が内務官僚型の三成に武勲を挙げさせるためだったという説もあります。城代の成田泰季は戦の前に病を得て亡くなり、その嫡男・長親が跡を継ぎます。絶体絶命の危機ながら、忍城の士気は極めて高かったとされます。沼に守られた忍城を攻めあぐねた三成は、水攻めを決断します。農民を使って堤を急造し、利根川と荒川の水を引き入れます。ただ、堤内が水で満たされても、本丸が水没することはありませんでした。このことから、忍城は”浮城”とも”亀城”とも呼ばれます。

その直後、大雨が降り、三成の堤は決壊します。領民の意図的な手抜き工事とも、成田側の工作の成果とも言われます。援軍を得た三成は、総攻撃を仕掛けます。そこに立ちはだかったのが甲斐姫でした。当時、二十歳に満たない甲斐姫は、城主・成田氏長の長女で、関東随一の美女との評判が高く、勝ち気で武芸にも優れていたと言われます。数で圧倒する三成軍に対し、鎧兜を身につけた甲斐姫はわずか200騎を率いて奮闘し、忍城は辛くも攻撃を退けます。しかし、ほどなく、小田原城が落ち、北条側で唯一残った忍城も、城主の命によって開城させられます。城を去る甲斐姫を、領民たちは拍手喝采で見送ったとされます。その後、甲斐姫は、蒲生氏郷預かりとなった父・氏長に従って会津へ行きます。氏郷の信任を得た氏長は、出城の守備を任されます。

氏郷の戦の支援に出た氏長・甲斐姫の留守中、部下の浜田兄弟が謀反を起し、氏長の家族や郎党を皆殺しにします。知らせを聞いた甲斐姫は、十数騎だけを従えて城に乗り込みます。対する浜田兄弟は200騎と大差があったものの、兄弟の首を取った甲斐姫は、城を奪還します。この見目麗しい女傑の噂を聞いた秀吉は、甲斐姫を側室として迎え入れます。側室としての甲斐姫の動向は、和歌も含めて文献に残されているようですが、秀吉没後の記録はないようです。ただ、淀君の信を得て、秀頼の養育係や隠密的な役割を果たしたとも、また秀頼の娘の養育係となり、大坂の陣後、娘を連れて鎌倉の縁切り寺・東慶寺に入ったとも言われます。いずれも、甲斐姫の秀でた武芸にちなんだ説のように思えます。ちなみに、秀頼の娘は天秀尼となり、東慶寺の住職を務めています。

2012年、忍城の戦いを描いた映画「のぼうの城」がヒットしました。映画は、城代になった成田長親を主人公とするフィクションでした。甲斐姫も登場しますが、あくまでも脇役であり、その活躍までは描かれていませんでした。忍城の甲斐姫は男性以上に勇猛に戦ったわけで、フェミニストが喜びそうな話ではあります。武家における男女差別は、戦国期に始まり、江戸期に定着したと言われます。逆に言えば、この頃、まだ女性の家督相続もあり、まだ戦場には女性の姿もあったということです。ただ、戦で負けた甲斐姫のその後を左右したのは、大家に生まれた美人だったということなのでしょう。ゆえに生き残り、ゆえに後世に武勇が伝わったわけです。武者から側室という甲斐姫の人生は、この頃の女性差別の変遷そのものとも言えそうです。全国各地には、名もなき女性戦士の伝承や遺物が、まだまだ残っているのではないかと思います。(写真出典:articles.mapple.net)

2025年9月8日月曜日

スタンダップ・コメディ

Richard Pryor
アメリカに5年住んで、スタンダップ・コメディのライブは一度しか経験していません。それも、渡米直後、LAで寄附を募る日系人の集まりに参加した際、余興として見ただけです。当時のLAでは人気の高かった日系人の女性コメディアン でしたが、あまり笑えませんでした。理由の一つは、英語がよく分からないからですが、今一つは、アメリカ社会が分かっていなかったからです。人を笑わせる基本的要素の一つは風刺だと思います。アメリカの典型的なスタンダップ・コメディは、人種、宗教、政治、性など、公共の場ではタブー視される話題をネタにすることが多く、笑いの前提であるタブーを共有していなければ笑うことはできません。

世界で、コメディアン、コメディエンヌと呼ばれる人たちの多くは、スタンダップ・コメディの舞台に立つ人たちのことです。日本でスタンダップ・コメディに相当するのは漫談ということになります。日本の”お笑い”の世界は、日本固有の漫才が席巻しています。落語は、伝統芸能として独自の世界を築いていますが、漫談は廃れつつあるように思います。現在、綾小路きみまろが一人気を吐いていますが、寄席の色物として漫談師が登場することは希です。いわゆるピン芸人はいますが、大半は漫談とは異なる芸です。TVが作った幾度かの漫才ブーム、あるいはダウンタウンの登場で、漫才がお笑い界を圧倒し、漫談が押し出された格好です。また、漫談師が得意とする時事ネタや風刺ネタを取り込んだ漫才が出てきたことも、背景にあるのかもしれません。

そもそも、漫才は、ラジオ、テレビと共に人気を高めてきた歴史があります。吉本興業の舞台とテレビの相乗効果という戦略が、演芸ブーム、漫才ブームを生んできた面もあります。つまり、漫才とは、不特定多数の客、いわゆる老若男女を観客として進化してきたとも言えます。ダウンタウンは、コント漫才もさることながら、日常会話のテンポ、日常のなかの細かなネタで漫才を変えました。それは若い層の共感を呼び、絶大な人気を博します。結果、TVから大人向けの漫才や漫談は消えていきました。スタンダップ・コメディは、さらに客層が絞り込まれます。鋭い風刺、人間観察をネタとし、時には哲学的でもある大人向けの芸と言えます。コメディ・クラブといった閉鎖的な場だけで演じられ、その毒を研ぎ澄ましてきたとも言えるのでしょう。

お笑いと毒は表裏一体を成していると言えるのでしょう。お笑いの構図を単純化すれば、笑う人と笑われる人がいるということになります。笑われる人は、他の人と異なることをもって笑われます。悪意の有無は別として、それは格差や差別そのものであり、お笑いが持つ毒の根源だと言えます。漫才は、ボケとツッコミという構図を使って婉曲にそれを表現し、スタンダップ・コメディは徹底的に突き詰めていきます。ですから、スタンダップ・コメディの観客は、そこを理解でき、許容出来る人に限られます。当然、観客数も限定されます。ただ、昨今のネット環境下で、スタンダップ・コメディは、急速に観客を増やし、収入もアップしているものと思われます。配信による収入だけでなく、知名度が上がれば、大きなホールでの公演も可能になるわけです。

日本では、漫才師がTV番組の司会者になるケースが多く、なかには北野武のように世界的な映画人になった人もいます。才能豊かな人たちということなのでしょう。アメリカの場合、スタンダップ・コメディ出身の映画俳優も多く、エディ・マーフィー、ロビン・ウィリアムス、ジム・キャリー、スティーブ・マーティン、クリス・ロック等々が挙げられます。なかでも、リチャード・プライヤーは、特別な存在として知られます。映画としても、ジーン・ワイルダーとコンビを組んだ「大陸横断超特急」(1976)等の大ヒットを飛ばしていますが、スタンダップ・コメディの世界を革命的に変えた偉大なコメディアンとしても知られています。汚い言葉で人種差別を徹底的に揶揄したそのスタイルは、後のスタンダップ・コメディアンに多大な影響を与えたとされます。ある意味、求道者でもあったリチャード・プライヤーは、2005年、アルコールと薬物依存の末、亡くなっています。(写真出典:eiga.com)

2025年9月6日土曜日

見返り美人

1960年代後半、切手ブームが起こります。小中学生も、皆、切手収集に熱中し、切手帳と呼ばれるストック・ブックを持ち、互いに自慢しあったものです。当時、垂涎の的だった切手の一つが、1948年に発行された「見返り美人図」 でした。浮世絵を確立したとされる菱川師宣の傑作肉筆画を記念切手にしたものです。その美しさが大人気となり、高額で取引されていました。もちろん、子供たちが入手できるような代物ではありませんでしたが、誰もが知っている有名な切手でした。後年、国立博物館で、本物の「見返り美人」を見た時には感動しました。それは、良く知っている絵の現物をついに見たといった程度の話ではなく、その美しさに恐れ入ったとでも言うべき感動でした。

その魅力は、構図と色にあるのだと思います。美人画の始まりとされるのが寛文美人図です。掛軸用に、一人の美人の立ち姿を無背景で描いており、一人立美人図とも呼ばれます。17世紀中葉に上方で生まれ、明暦の大火後の復興に沸く江戸に伝わりました。見返り美人も、寛文美人画の形式に沿っていますが、その見返りというポーズが画期的です。歩いているところを、斜め後ろから声を掛けられ、振り向いたといった風情です。寛文美人画は、代表作と言われる「縁先美人図」などのようにやや斜め正面からの全身像が特徴です。見返り美人は後ろから描くことで、着物と帯、そして女性の体型が強調されています。単純な後ろ姿ではなく、歩いている途中に振り向くで、膝が曲がり、腰がやや落ち、女性の腰の美しさも強調されています。

構図と並んで目を引くのが、艶やかな緋色の着物です。菊と桜の花の丸模様は、当時、流行した柄だったようです。帯は、濃い緑の地に丸を重ねた紋様。鶯色と言われますが、上品な若竹色のように思います。帯の結び方は、片方の端だけを輪にして、もう片方を垂らす吉弥結びとして知られます。人気女形の初代上村吉弥が流行らせた最新モードだったようです。髪形も、当時流行の長く垂らした玉結びであり、髪に挿した櫛と簪は高価な鼈甲製と言われます。つまり、例えて言うなら、ヴォーグやハーパース・バザーのファッション写真に先立つこと200年、モード雑誌の先祖だったとも言えるのでしょう。いずれにしても、着物の緋色、帯の若竹色、そして垂らした黒髪のバランスが、見返りというポーズと相まって、この艶やかな絵を構成しています。

菱川師宣は、安房国、現在の千葉県鋸南町の縫箔師の家に生まれています。江戸に出て、自身も縫箔師として生計をたてながら、狩野派や土佐派の絵を学んだようです。縫箔師とは、着物や帯などに、刺繍と金銀の箔を組み合わせて装飾を施す職人です。そもそも、師宣は、生まれも育ちもアパレル界の人だったわけです。師宣が、浮世絵の祖と言われるのは、それまで絵入本の挿絵に過ぎなかった浮世絵版画を、独立した一枚の絵として成立させたからです。当初は、仮名草子、浄瑠璃本等の挿絵、あるいは枕絵などを無署名で描いていたようですが、そのおおらかな作風が評判を呼び、ついには、観賞用の一枚の絵として墨一色で大量印刷されるようになります。こうして庶民の楽しみとしての浮世絵が誕生したわけです。

知名度も人気も高い見返り美人ですが、国宝でも、重要文化財でもありません。浮世絵は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」ですら国宝ではありません。大量印刷という点がネックなのだろうと思いますが、浮世絵に国宝はありません。しかし、見返り美人は肉筆です。にも関わらず、重文にすら指定されていません。師宣の他の作品のいくつかは重文指定を受けています。見返り美人が重文指定を受けていない理由としては、所詮は風俗画である、決して美人ではない、美人画にしては胴長である、等々の説もあるようです。ただ、素人目には分かりませんが、恐らく保存状態に問題があるということなのでしょう。2~3年前、東京国立博物館は、見返り美人修復プロジェクトとして寄附を募っていました。恐らく、現在、修復が進められており、遠からずうちに重要文化財指定のうえ、お披露目となるのではないでしょうか。(写真出典:tnm.jp)

2025年9月4日木曜日

ノルウェー人と津波

ノルウェーで製作されたNetflixのシリーズ「ラ・パルマ」が人気だというので見たところ、ハマってしまい、一気見しました。バケーションでカナリア諸島のラ・パルマ島を訪れていたノルウェー人家族が、津波に遭遇するという設定です。作品としての完成度は低いのですが、それなりに考えられたプロットが楽しめました。ラ・パルマ島の火山が噴火し、崩壊した山体が海に滑り落ち、津波が発生するという想定ですが、まったくのフィクションというわけでもなく、そのリスクの存在は科学的に証明され、広く知られているようです。そうでなければ、観光に打撃を与えかねない映画のロケを、スペイン政府が許可するわけもないと思います。

スペイン領カナリア諸島は、モロッコの西の大西洋上に位置する火山島群です。北ヨーロッパの人たちがバケーシションで押し寄せる島としても有名です。ロンドンの駐在員をしていた友人は、毎年、クリスマス・バケーションをカナリア諸島で家族と過ごしていました。ヨーロッパ中に見るべき所が多くあるのに、なんでそんな辺境まで行くのかと聞くと、一言、太陽だ、と言っていました。ロンドン以上に、陽の光を必要とするノルウェーの人たちにもなじみ深い島なのでしょう。そのラ・パルマ島で、2021年、クンブレ・ビエハ火山が噴火し、多くの住居や農地が失われました。記憶に新しい大災害です。クンブレ・ビエハ火山は、将来の噴火によって山体崩壊を起こす可能性があり、発生する巨大津波は大西洋沿岸全域に大打撃を与えると想定されています。

ノルウェーは地震国ではありませんが、津波には感心の高い国です。フィヨルドで、周囲の山が海に崩れ落ちると、入江の奥は巨大な津波に襲われることになります。実際、希に発生するらしいのですが、それをテーマとした映画「ザ・ウェイブ」は、2015年、ノルウェー最大のヒット作となりました。また、近年、ノルウェーの人々が津波に敏感になっている理由が他にもあります。2023年、グリーンランドで、巨大な氷河の崩落が起き、津波の遡上高は200mに達したとされます。その津波は、対岸のノルウェーにも到達しました。氷河崩落の原因は、地震ではなく、地球温暖化の影響とされています。ノルウェーは、新たな津波の脅威にされているわけです。ノルウェー人が恐れる崩落による津波と、我々が知っている地震による津波とでは、大きな違いがあります。

プレート型地震の場合、海底の隆起とともに海面が上昇して津波が発生します。山体や氷塊の崩落による津波は、海面が受けた衝撃で発生します。巨大な水しぶきとも言えます。波高は、地震の場合よりも高くなる可能性があります。津波の波高として観測史上最大とされるのが、1958年、アラスカのリツヤ湾で起きた津波です。地震によって発生した山体崩落が起こした津波の高さは、524mに達したと推定されています。リツヤ湾が狭いフィヨルドであったことが波高の高さにつながったのでしょう。私たちが知っている津波は、第一波の前に水が引いたり、第二波、第三波の方が波高が高くなります。「ラ・パルマ」では第二波は無視されています。水しぶき型では、第一波が最も高くなるであろうことは、池に石を放った際の波紋からも想像できます。

ただし、フィヨルドで起きる津波は、両側の山に跳ね返って何度も繰り返され、場合によっては第一波よりも跳ね返り波の方が高くなることも考えられます。今回の想定は、洋上での水しぶきなので、第二波は無視できると考えたのでしょう。あるいは、プロット上の必要性から無視したのかもしれません。プロット上と言えば、デザスター映画でお馴染みのパターンの一つは、混乱を恐れて行政の対応が遅れることです。今回も同じなのですが、実際には、数値基準が設定され、各段階でのアクションが規定されているものと考えます。いかに娯楽作品とはいえ、ちょっとスペイン政府に失礼かなと思いました。「ラ・パルマ」のヒットは結構ですが、それで観光客が減るなら、スペイン政府にとっては津波級の大打撃です。あるいは、オーバーツーリズム対策として、それをねらっているのかもしれません。(写真出典:filmarks.com)

2025年9月2日火曜日

汎アジア主義

頭山満
大東亜共栄圏は、1940年、日本が打ち出したアジアの同盟構想です。欧米支配からアジアを解放し、共存共栄の新たな秩序を築くという理想を掲げました。しかし、真のねらいは、日本が南方資源を確保することであり、日本を盟主としたアジア経済圏を作ることでした。20世紀の2度に渡る世界大戦は、植民地拡大を図ろうとする後発帝国主義国が、先行する帝国主義国の圧迫を受け、戦争に至ったものだと考えます。日本の大東亜共栄圏構想は、ナチスドイツが打ち出した「生存圏」を参考にしていたようです。欺瞞に満ちた大東亜共栄圏構想ですが、その思想的背景には、尊皇攘夷、あるいは汎アジア主義があったと言われます。

水戸学に始まる尊皇攘夷という思想は、単に天皇を尊び,外国人を排斥するということに留まらず、天皇を世界の頂点とする日本版中華思想と言えます。後に「八紘一宇」という言葉も登場します。天皇のもとに世界を一つの家として平和に暮らすという意味です。尊皇攘夷的には、各国との通商条約は認められても、対等な関係である友好条約など頭が高いということになります。桜田門外の変の原因は、幕府が勅許を得ずに五ヶ国と修好通商条約を締結したことですが、友好条約そのものへの批判もありました。尊皇攘夷を巧みに利用した薩長は倒幕を果たしますが、新政府樹立とともに、一転、海外との友好政策を展開します。薩長政府は、西南の役で存続の危機に面します。その原因となった征韓論において、強硬派の背景にあった思想は、皮肉にも尊皇攘夷でした。

汎アジア主義は、19世紀後半、欧米列強によるアジアの植民地化が進むなか、アジア各国が連携して、これに対抗すべきという主張であり、明治維新後に盛んになりました。欧米から不平等条約を強いられた日本は、まだ植民地化のリスクを抱えていた時代でもあります。汎アジア主義には、様々な立場・意見があり、統一的な主張や組織があったわけではありません。アジア各国が対等に同盟すべきという意見、日本を盟主とする同盟を模索する国粋主義的な主張、あるいは、中国・朝鮮等の欧米につけ込まれやすい旧体制を、革命で倒して近代化を図ろうとする動きもありました。当初、汎アジア主義をリードしたのは、大久保利通に始まる興亜会でした。1880年に結成されています。興亜会は、清国・李氏朝鮮との対等な連携を目指すものでした。

一方、国粋主義的な汎アジア主義の代表と言えば、旧福岡藩士を中心に博多で結成された玄洋社となります。征韓論で敗れて下野した板垣退助に師事した頭山満が、1881年に結成した政治結社です。頭山満は、後に、政財界、軍部に大きな影響を持つことになり、右翼の巨頭とも呼ばれました。当初は、自由民権運動を展開しますが、議会設立後は、国権強化、汎アジア主義を掲げ、あたかも政治家・軍部の別働隊がごとく、国の内外でテロ行為やスパイ活動を展開します。大隈重信爆殺未遂事件の来島恒喜、日露戦争時、ロシアの後方攪乱に大きな成果を収めた明石元二郎も玄洋社社員です。また、孫文、金玉均、ビハーリー・ボースら、アジアの独立運動家の支援もしています。敗戦後には、GHQからテロ組織との認定を受け、解散させられています。

国粋主義的な政治結社は、今も存在します。ただ、戦前とは異なり、政財界と結び、派手に活動するということはありません。その違いは、なぜ生じたのでしょうか。もちろん、戦前は帝国主義・軍国主義を進める政治的状況があったということであり、戦後は民主化に伴い法的規制が強化されたということにはなります。加えて、明治憲法下における政治、行政、軍部の組織のあり方も背景として大きかったのではないかと思われます。戦前の国家体制は、組織としては権限が全て天皇に集中する親政体制を取りつつ、天皇親政が形骸化していたことが特徴だと考えます。いわば独裁者なき独裁体制と言えます。そこでは権力の分散が起こり、長期的、国際的観点を踏まえた計画的、統一的な国家運営などは存在せず、各派の力の論理がまかり通る体制になっていたものと思われます。まさに、政治結社が権力体制に入り込みやすい体制だったと言えるのでしょう。(写真出典:yomiuri.co.jp)

ヤシの木にプール