2026年3月31日火曜日

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」

監督:フィル・ロード、クリス・ミラー 原作:アンディ・ウィアー 2026年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

原作は、デビュー作「火星の人」(2011、映画化作品「オデッセイ」2015)がベストセラーになったアンディ・ウィアーの同名小説です。2021年に発表された本作も世界的ベストセラーになりました。娘に推薦されて私も読みましたが、ドハマりしました。原作のテイストを映画に仕立てることはハードルが高いように思っていました。案の定、原作の魅力を映画の尺で再現することは無理でしたが、レベル以上の娯楽作品には仕上がっていると思います。ただ、原作を読んだ人には物足りなく、読んでいない人には多少分かりにくい面もあったのではないかとは思います。ま、原作ものは、とかくそんなものでしょうが。

映画が娯楽作品としてレベル以上になっている要因は、プロットをエイリアンとのコラボと友情に絞り込んだこと、そして全体を軽めでテンポの良い展開に仕上げたことだと思います。大雑把に言えばE.T.系の映画ということになるのでしょう。とは言え、子供向けでも、ファミリー向けでもありません。モティーフはそこそこ以上に科学的であり、プロットにもスーサイド・ミッションという結構重い側面があります。映画は、そこをスルーしているわけではありませんが、決して深掘りすることなく、さらりとした軽さで描いています。もちろん、そのポップな仕上げが、原作の魅力を殺している面があるわけですが、映画化するうえでは正しい判断だったのかも知れません。

多くの人が原作にハマった理由の一つは、そのミステリー的なテイストにあるのだろうと思います。宇宙船で目覚めた主人公は、長期の強制睡眠によって記憶が一時失われています。船には主人公一人で、かつ地球から絶望的に遠い宇宙を旅しています。主人公は、科学の知識をもとに、疑問や問題を次々と解決していきます。その小気味よさは、痛快と言ってもいいと思います。一つひとつは、しっかりとした科学的根拠にもとづいているのですが、素人にも理解できる表現になっています。記憶も断片的によみがえることで、プロジェクトの全体像が徐々に見えてきます。このあたりのミステリー仕立ては見事なものだと思います。ただ、これを映画の枠内で再現することは、到底無理な話であり、切り捨てるしかなかったのでしょう。

そこで、監督は、テンポの良い、ポップな展開で、これを補おうとしたのではないでしょうか。決して補い切れているわけではありませんが、なかなかにうまい手法だと思います。監督のフィル・ロードとクリス・ミラーのコンビは、スパイダーマン・シリーズの製作や脚本を担当し、ヒットを飛ばしてきた人たちです。このコンビを使うと決めたプロダクションの判断は、ビジネス的には正しかったのでしょう。ライアン・ゴスリングというキャスティングは、映画のねらいからすれば最適だったと言えます。プロジェクトのクールな責任者には、ドイツの名優ザンドラ・ヒュラーがキャストされています。原作を読んだ時には、映画化するならケイト・ブランシェットしかいないと思っていましたが、ヒュラーもなかなか良い選択だったように思います。

音楽を担当したのは売れっ子ダニエル・ペンバートンですが、ここでもいい仕事をしています。ビートルズはじめ、ポップな楽曲の使い方もうまく、監督の制作意図を十分以上にサポートしていると思いました。ところで、プロジェクト名とされている”ヘイル・メアリー(Hail Mary)”ですが、ラテン語で言えば”アヴェ・マリア”となります。聖母マリアを称える言葉ですが、アメリカでは”イチかバチか”、あるいは神頼み的ニュアンスでも使われます。ことにアメリカン・フットボールの世界では、試合終了間際にヤケクソ的に投げられるロング・パスを指します。地球を救うためのスーサイド・ミッションには、実に相応しい名前だと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年3月29日日曜日

移民大国

入院した娘を看病するために、しばらくパリに滞在しました。入院先のピティエ・サルペトリエール病院は、ルイ14世が創設したという大規模な公立総合病院であり、ソルボンヌ大学の医学部も併設されています。病院はパリ13区のセーヌ川近くにあり、我々家族も近くにアパートを借りました。13区の西は、5区のいわゆるカルチェラタンに隣接し、学生街の風情があります。東側には、国立図書館などで知られる再開発地域もあります。また、南側は、移民、特に中国系・ベトナム系移民の多い街としても知られており、欧州最大の中華街もあります。13区で印象的だったことの一つが、アフリカ系移民の多さです。病院のアシスタント系スタッフも、見舞客も半数以上がアフリカ系のような印象を受けました。

フランスは、実に独特な人口推移をたどった国です。出生率の低下という近年の先進国が直面する現象は、既に18世紀のフランスで起こっています。その背景として挙げられるのは、北部フランスにおける絶対王政や教会権力への反撥から起きた脱キリスト教化の動きであり、フランス革命によってそれが決定的なものになります。つまり、農耕社会の根幹を成してきた家父長制が、自由・平等・博愛を掲げる革命によって崩れたわけです。革命によって、相続法における長子相続は均等相続へと変えられ、土地の分散を避けるために少子化の流れが生じます。さらにナポレオン戦争における膨大な死傷者数が、人口減少に拍車をかけることになります。英国やドイツなど他の欧州諸国が人口を増加させるなか、フランスにも人口問題への懸念は存在していたようです。

それが広く認識されることになったのが、1870年に勃発した普仏戦争でした。普仏戦争は、ドイツ統一のために共通の敵を作りたかったプロシアの挑発にフランスが応じた戦争でした。強力な常備軍を持つ大国フランスが勝つものと思われていましたが、結果的にはプロシアが圧勝します。プロシアの周到な事前準備、国民皆兵制、参謀本部の発明などが勝因とされますが、フランス人は、フランスを超えるまでになったドイツの人口に負けたと信じます。しかし、にわかに出生率は改善できず、2度に渡る世界大戦に突入します。フランスは戦勝国となったものの、大きな犠牲を払います。戦後の復興期を迎えると、フランス、英国、ドイツは、旧植民地等に労働力を求めざるを得なくなります。出稼ぎ労働力として呼んだものの、これが大規模移民の始まりとなります。

以降、フランス、英国、ドイツの人口は移民流入によって拡大していきます。当然、排斥運動も起き、1970年前後には、景気後退、失業率増加を受けて、各国は移民を制限し始めます。しかし、流入を止めることはできませんでした。冷戦後は、東欧の混乱、民族紛争を背景に難民が流入します。そして2015年には、アフリカ、中東などの紛争によって、膨大な難民が押し寄せる欧州難民危機が起こります。結果、欧州各国は人道的観点から難民を受け入れますが、国内では反対運動が起き、右派勢力の台頭、英国のEU離脱につながっています。経済面に限って言えば、人口増加は経済規模の拡大、納税者の増加は社会保障の安定につながります。フランスでも、移民は労働力の根底を成していると言えます。しかし、経済成長には限界があります。

為替変動は、各国の貨幣価値が均衡するまで続きます。移民・難民問題の真の解決策は、その受入れや拒否ではなく、発生原因の解消にあります。2024年の各国の人口に占める移民の割合は、カナダが22.2%、ドイツ19.8%、英国17.1%、米国15.2%となっています。フランスでは、法的に調査が禁じられていますが、13.8%と推計されています。なお、フランスはシングル・マザーに関する法的整備が進んだことで、先進国で唯一、出生率が増加に転じています。家父長制どころか、結婚制度の見直しまで進んだわけです。フランス革命は、まだ続いていると思える話でもあります。自由・平等・博愛を精神基盤とする国が移民問題にどう向き合うのか注目されますが、国民議会の議員数において、移民排斥を掲げる右派勢力が与党と肩を並べるまでになっています。日本も、対岸の火事とばかりは言ってられないと思います。(フランスの英雄ジダンはアルジェリア移民2世 写真出典:jiji.com)

2026年3月27日金曜日

庚申信仰

帝釈天参道
映画の文法のようなものを、おぼろげながら理解できたきっかけは、フランソワ・トリフォーの「男と女」、そして山田洋次の「男はつらいよ」シリーズだったと思います。「男と女」はビデオの無い時代に30回程度見ました。「男はつらいよ」は、全50作のうち、20作くらいは見ていると思います。”読書百回、その意、おのずと現る”というわけで、同じ、ないしは同じような映画を何度も見ていると、その製作手法が見えてくるものです。「男はつらいよ」は、はじめ渥美清のおかしさに笑い、次にその上手さにうなり、最後は山田洋次の巧みさに魅せられた、といったところです。舞台となった葛飾柴又は、いまだに観光客が訪れる名所ですが、何一つ変わっていません。帝釈天も何も変わっていません。

柴又帝釈天の正式名称は経栄山題経寺であり、1629年に創建された日蓮宗の寺です。中山法華経寺19世の開山とされています。本尊は、本堂に安置される大曼荼羅であり、帝釈天ではありません。柴又帝釈天の通称で知られるようになったのは、江戸中期のことだとされます。寺の修復を行ったところ、住職が、行方不明になっていた日蓮直筆の板本尊(いたほんぞん)を発見します。板本尊は木板にお題目や仏の名を刻んだものですが、発見された板本尊には、お題目と法華経薬王品の一節が記され、片面には帝釈天が描かれていました。発見直後に発生した天明の飢饉の際、住職が板本尊を背負って江戸市中と下総国を回ると、飢えや病気で苦しむ人々に不思議な御利益があったとされます。以来、柴又帝釈天は参拝客で賑わい、門前町も形成されました。

板本尊は、今も帝釈堂に安置されています。また、板本尊が発見されたのが庚申の日だったことから、柴又帝釈天の縁日は庚申の日とされ、板本尊も開帳されます。庚申信仰の原型は、平安期に中国から伝わった道教由来の行事でした。庚申の夜、眠っている人間から三尸(さんし)の虫が抜け出し、天帝に悪行を告げて寿命を縮めるとされ、それを防ぐために庚申の日前夜は眠らずに過ごすという行事です。平安の貴族たちは「庚申御遊」と称して、宴を開いて夜を過ごしたようです。武家政権の時代になると、それが侍の間にも、守庚申、後に庚申侍として広まっていきます。15世紀後半になると、会食主体だった行事に仏教要素が入り、勤行しながら夜を過ごすことになります。さらに在来信仰と結びつき、幅広い御利益のある民間信仰になっていきます。

庚申信仰の最盛期は江戸期であり、庚申の日前夜から眠らずに祈りを捧げる「庚申待ち」、「宵庚申」が盛んに行われるようになります。年に6回ある庚申の日の前夜ともなれば、柴又は提灯の火であふれたようです。どこか百日参りやお百度参りに通じるところがあるように思います。つまり、自らの身体に負荷をかけることによって、神仏に思いの強さを伝え、願いを成就してもらうという発想です。道教由来のイベントとは大きくかけ離れ、豊作、招福、厄除け、家族和合、良縁、病除け、諸芸上達までと幅広い御利益があるとされていたようです。藁にもすがる思いの民衆の願いが生んだ民間信仰なのでしょう。日本三大庚申とされるのは、京都の八坂庚申堂(金剛寺)」、大阪の「四天王寺庚申堂」、東京の「入谷庚申堂(喜宝院)」です。

現在、入谷庚申堂は、喜宝院から小野照崎神社に移されています。小野照崎神社は、渥美清が願掛けをして「男はつらいよ」の主演を射止めた神社としても知られています。「男はつらいよ」で寅さんが首から下げているお守りは、帝釈天のものではなく、小野照崎神社のものだったという話もあります。余談ですが、寅さんのマドンナは分不相応なお嬢様タイプで、寅さんが独り相撲を取って失恋するのがお決まりでした。マドンナとして異質だったのは、浅丘ルリ子演じるドサ回りのキャバレー歌手リリーです。リリー三部作と言われる“寅次郎忘れな草”、”寅次郎相合い傘”、”寅次郎ハイビスカスの花”は、相思相愛の寅さんとリリーが結ばれそうで結ばれないという切ないストーリーでした。忘れられた人々を描いた傑作だったと思います。どこか庚申信仰にすがった大衆の姿に通じるところがあるようにも思えます。(写真出典:katsushika-kanko.com)

2026年3月25日水曜日

マケドニア

マチェドニア
広尾の”LA BISBOCCIA”は、東京で一番好きなイタリア料理店です。ワゴンで運ばれてくる食材の中から、肉、魚、パスタ等を選び、料理法を決めます。店の中央にある炭火のグリルが自慢で、2017年から輸入解禁となったキアニーナ牛のビステッカ・アラ・フィオレンティーナも出してくれます。デザートもワゴンの中から選び、どんな組合せも対応してくれます。私のお気に入りは、ケーキ類にマチェドニアを散らしてもらうことです。マチェドニアは、様々なフルーツを小さくカットし、レモンやリキュールで風味付けしたデザートです。フルーツ・ポンチと言ってもいいのでしょう。ケーキ類の甘さとの相性がとても良いと思っています。マチェドニアは、イタリア語でマケドニアを意味します。 

マケドニアのあるバルカン半島は、ドナウ川、アドリア海、イオニア海、エーゲ海、そして黒海に囲まれています。ヨーロッパとアジアの交差点に位置することから、古代から文明・文化が発展するとともに、民族間の争いが絶えない地域でもあります。バルカン半島は、日本人にとって非常に分かりにくい地域だと言えます。ギリシャとブルガリアで約半分を占めていますが、歴史的に多くの民族や多くの国が複雑に入り乱れ、現在でもおおよそ12の国が存在しています。まさに色とりどりなマチェドニアそのものです。そのなかにあって、マケドニア地方、あるいは国家としての北マケドニアは、ごく一部に過ぎません。マチェドニアは、バルカンと呼ぶべきなのかも知れませんが、その名称は、かつてバルカン半島を征した古代マケドニア王国に由来しています。

マケドニア王国は、紀元前9世紀頃、バルカン半島中部にギリシャ人が建国しています。言葉や神は同じでも、都市国家を形成した古代ギリシャとは大いに異なる社会・文化を持っており、マケドニアは異民族として扱われていたようです。紀元前4世紀になると、テーバイで人質として過ごした経験を持つピリッポス2世が王になります。彼は、政治や軍政を改革し、中央集権化をはかります。そして、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、スパルタを除く全ギリシャをコリントス同盟として統一します。中央集権化されたマケドニアと都市国家の寄せ集めでは勝負になりません。ギリシャの都市国家は、西洋文明の源と言われるほど、多くの文化を生んでいます。文明を起こすほどに賢い人々は、なぜ都市国家の限界に気付かなかったのでしょうか。

古代ギリシャの高度な文明と都市国家間の争いは、あくまでも小さなコップのなかで完結しており、高度な文明はエリート意識や差別主義を助長し、彼らの視野を狭めていたのでしょう。その背景にあるのは奴隷に依存した生産体制だったと言えます。奴隷制が、文明を高度化させるとともに、成長の限界も作っていたわけです。農耕が生み出した社会が中央集権化されることは必然とも言えます。古代ギリシャが生み出した直接民主制は、理想的ではありますが、歴史に逆行していたということになります。マケドニアのピリッポス2世は、ギリシャ文明の果実を巧みに用いて中央集権化を実現した人なのでしょう。ギリシャの都市国家がマケドニアに敗れ、最終的には古代ローマに滅ぼされたことは歴史的必然だったとも言えそうです。

コリントス同盟は、アケメネス朝ペルシャへの遠征を決議し、マケドニアに軍を集結させます。その最中、ピリッポス2世は暗殺されます。その意志を継いだのが息子であるアレキサンダー3世、つまりアレキサンダー大王ということになります。革新的な父やアリストテレスという教師のもとで育ったアレキサンダーが世界征服を成し得たのは、その傑出した才能がゆえだけではなく、農耕が生み出した歴史的必然がスパークしたからだったとも言えます。アレキサンダーが、蜂に刺されて死んだのが32歳の時でした。以降、後継者争いが激化して、マケドニアは分断されます。ローマの属州となり、以降もビザンツ帝国やオスマン・トルコの支配の下にあったことから、マケドニアは実に多様な民族が暮らす場所となります。まさにマチェドニアのようになったわけです。(写真出典:sbfoods.co.jp)

2026年3月2日月曜日

日本国王良懐

”日本国王良懐”とは、14世紀後半、明が”冊封国”である日本の国王とした懐良親王のことです。懐良(かねよし)が、なぜ良懐になったのか、誠に不思議です。しきたり等に基づく意図的なものなのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。冊封とは、中国の王朝が、周辺国家に称号や印章を与えることで、形式的な主従関係を築くという中国伝統の外交手法です。被冊封国は、毎年、朝貢を行う事でその関係を維持しました。日本の場合、古くは漢が奴国を、魏が邪馬台国を、宋が五王時代の倭を冊封しています。しかし、6世紀以降、冊封関係は消滅し、日本は中国と、名目上、対等の関係を保つことになります。

明は、1368年、朱元璋が元朝を北に追いやって建国されています。当時、中国沿岸部は、主に九州、対馬、壱岐から出撃してくる倭寇の襲来に悩まされていました。倭寇が勢いを増した背景には、南北朝の混乱、室町幕府の衰退があるとされています。1369年、太宰府を占拠していた懐良親王のもとに、国書を携えた明の使者が来訪します。国書は、日本国王が倭寇を取り締まらなければ、明は軍を派遣して倭寇を成敗し、国王を捕えるという内容でした。この脅しに、懐良親王は激怒し、使節団17名のうち5名を殺害し、2名を3か月勾留します。翌年、明は、さらに高圧的な国書を持った使節を送り込みます。明側の記録に依れば、懐良親王は態度を一変し、倭寇が捕虜にしていた70余名と貢ぎ物を明に捧げることで、日本国王として冊封を受けます。

懐良親王が冊封を受け入れた理由は、明を恐れたからではなく、日明貿易がもたらす富が魅力的だったからなのでしょう。飛ぶ鳥を落とす勢いで九州を制圧していった南朝の懐良親王でしたが、ほどなく北朝側の攻勢を受けて太宰府を追われています。しかし、事情を把握していない明は、依然として懐良親王を日本国王と認識し、他との貿易を認めませんでした。薩摩の島津氏はじめ日明貿易を行おうとする者は、やむなく懐良親王の名をかたるしかありませんでした。室町幕府の将軍・足利義満ですら、明からすれば、日本国王良懐と争う敵方の臣下と見なされ、日明貿易の開始までには苦労を強いられたようです。なんとも律儀な話ですが、明としては、冊封体制を維持するためには、当然の対応だったわけです。なお、後に足利義満は日本国王として冊封されています。

一時とは言え、明から日本国王とされた懐良親王は、後醍醐天皇の皇子でした。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を破り天皇親政を回復します。建武の新政です。しかし、足利尊氏に敗れて、逃れた先の吉野で南朝政権を建てます。後醍醐天皇は、皇子たちを全国に派遣し、地方からの巻き返しを図ります。まだ幼かった懐良親王も、征西大将軍に任じられ、九州に向かいます。徐々に豪族たちを味方に付けた懐良親王は、北朝勢との戦いを展開し、ついに九州の最重要拠点とも言える太宰府を制圧するに至ります。しかし、それも長くは続かず、足利義満が送り込んだ九州探題・今川了俊によって追い詰められていきます。最終的には、現在の八女あたりで、病のために没したとされます。都から遠く離れた九州で、幼時から戦いの人生を送った凄まじい皇子でした。

懐良親王が始めたとも言える日明貿易ですが、その後、150年以上に渡って継続されることになります。その莫大な利益は、当初は室町幕府が独占し、幕府の勢力が弱まると、細川氏と堺商人、大内氏と博多商人などが手にすることになります。日本からは銅などの鉱物資源、明からは、江戸初期まで流通した硬貨”永楽通宝”、生糸、織物、陶磁器、書物などが輸入され、経済、文化に大きな影響を与えました。日本の伝統文化の中核を成すことになる東山文化、北山文化も、日明貿易なくして成立しなかったと言えます。幕府が管理する勘合貿易だった日明貿易は、16世紀中頃、大内氏の滅亡、倭寇の活発化を受けた明の海禁政策強化等によって下火になります。また、民間の貿易量が幕府の勘合貿易を上回るようになったことから、新たな貿易管理が求められ、朱印船貿易へとつながっていきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

王朝国家