2024年7月31日水曜日

桂月

住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きや奥入瀬 三里半   

かつて、八甲田山、十和田湖方面へ向かう観光バスのガイドさんは、大町桂月のこの歌を必ず紹介したものです。大町桂月は、明治から大正期に活躍した高知出身の歌人、紀行作家、評論家です。正式な雅号は月の名所桂浜にちなんだ”桂浜月下漁郎”であり、桂月は短縮版です。桂浜には桂月の碑があり「見よや見よ みな月のみの かつら浜 海のおもより いづる月かげ」という歌が刻まれています。美文家として知られた桂月は、酒と旅をこよなく愛し、その紀行文は広く読まれたものだそうです。また処世訓「人の運」はベストセラーとなり、当時の男子学生は桂月の本を抱えて歩けば、女性からモテモテだったとも聞きます。

桂月は、1869年、土佐藩士の家に生まれ、東京帝国大学を卒業後、一旦は中学教師となりますが、すぐに博文館に招聘され入社しています。博文館は、明治期最大の出版社であり、時流に乗った国粋主義的雑誌などを多く出版していました。なかでも日本初の総合雑誌「太陽」は大当たりとなり、大きな影響力を持っていたようです。桂月は、「太陽」などに多くの随筆、評論を書き、人気を博します。桂月の文章は、当時、小説以外では最もよく読まれた文章とまで言われています。特に紀行文は人気だったようです。東日本を中心に、各地には桂月の歌碑が多く残っています。美文もさることながら、桂月の紀行文が、その地の知名度を全国レベルに引きあげたということなのでしょう。

なかでも、北海道の大雪山系、そして青森の十和田湖と奥入瀬渓流はことに有名です。1923年、中央公論に掲載された桂月の「層雲峡より大雪山へ」という紀行文は、大雪山を世に知らしめたと言われます。冒頭「富士山に登って山岳の高さを語れ。大雪山に登って山岳の大さを語れ」と語り、大絶賛しています。山系には桂月岳と命名された山も存在します。また、層雲峡や羽衣の滝は桂月の命名とされます。羽衣の滝は、、天人峡の一角、標高1,000mにあり、落差270mは北海道では第1位、日本では第2位の規模を誇ります。明治後期に発見されていたようですが、1918年、この地を訪れた桂月は「疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるか」と絶賛し、羽衣の滝と命名しています。

桂月が、初めて十和田湖と奥入瀬渓流を訪れたのは、1908年のことです。「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」と詠むほどに十和田・奥入瀬に魅せられた桂月は、以降10回に渡り、この地を訪れています。それどころか、こよなく愛した蔦温泉には、晩年、家族とともに移り住み、そこで生涯を閉じています。蔦温泉は、奥入瀬近くの山中にある一軒家の宿です。宿には、桂月の揮毫、愛用品も多く残され、敷地内には多くの歌碑も残されています。また、大正末期、日本でも国立公園設置の動きが始まると、桂月は「十和田湖を中心に国立公園を設置する請願」まで起草しています。十和田湖は、1936年、富士箱根、吉野熊野、大山とともに国立公園に指定されています。なお、現在は、奥入瀬渓流も含め、十和田八幡平国立公園になっています。

よく知られた文筆家として、ベストセラーを含む多くの著作も残し、かつ各地に足跡も残す桂月ですが、今日の知名度は、今一つといったところです。例えば、小説といった創作を残したかどうかによる影響も大きいのかもしれません。また、小説ならいざ知らず、美文調で綴られた紀行文や評論は、今の時代、古風に過ぎるのかもしれません。あるいは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対して国粋主義的な批判を行ったことが、今日的評価を下げているのかもしれません。いずれにしても、見事な美文が忘れられていくことは寂しい気がします。桂月の文章を読むと、明治期の工芸作家たちの超絶技巧を思い出します。素晴らしい作品も多く、海外でも高く評価されていますが、名を残した作家は、ごく希です。(写真出典:city.towada.lg.jp)

2024年7月29日月曜日

バウムクーヘン

Club Harie
ドイツ菓子のバウムクーヘンは、私が子供時分から珍しいものではありませんでした。といっても、どこでも買えるお菓子ということではなく、結婚式の引出物の定番だったのです。年輪を重ねるという意味で、めでたいお菓子とされていたようです。引き出物としての人気は、1960年代に始まったようです。正直なところ、引出物のバウムクーヘンは、パサパサとした食感で、さほど美味しいものとは思いませんでした。その後も、好んでバウムクーヘンを食べることはありませんでしたが、18歳の頃、札幌のユーハイムのカフェで、生クリームを添えたバウムクーヘンを食べて、その本当の美味しさを知りました。モロゾフと並んで神戸の洋菓子界を牽引してきたユーハイムは、 日本にバウムクーヘンを紹介した店です。

プロイセン生まれの菓子職人カール・ユーハイムは、ドイツの租借地であった中国の青島で喫茶店を営んでいました。第一次世界大戦のおり、青島は日本帝国陸軍に制圧され、カールも捕虜として日本に連行されます。1919年、カールは、広島の似島にあった収容所でバウムクーヘンを焼き、ドイツ作品展示会で販売しています。これが日本におけるバウムクーヘンの事始めです。第一次大戦後もカールは日本に残り、神戸に店を開きます。店は大繁盛しますが、カール自身は第二次大戦の終戦前日に亡くなっています。戦後、紆余曲折はあったものの、店は繁盛を続けます。そして、1960年代に入り、バウムクーヘンが引出物として人気になると、ユーハイムは日本を代表する洋菓子店へと成長していきます。

バウムクーヘンの起源については諸説あるようですが、ドイツ東部発祥のお菓子ということのようです。面白いことに、ドイツにおいて、バウムクーヘンは、必ずしも一般的なお菓子ではないようです。来日して初めて食べたというドイツ人も少なくないようです。本場よりもかなり普及している日本のバウムクーヘン界に大きな変化をもたらしたのは、クラブハリエだったのではないでしょうか。2010年前後のことですが、関西一円の人たちが、滋賀の「たねや」へバウムクーヘンを求めて人が集まり、開店前から大行列ができている、と聞きました。和菓子の名店たねやとバウムクーヘンが結びつかず、困惑しました。店は、たねやの洋菓子部門から生まれたクラブハリエでした。

実際に、食べてみると、そのふんわり、しっとりとした新しい食感に驚かせられました。クラブハリエの社長兼グランシェフの山本隆夫は、たねやの次男坊として生まれ、パティシエ修業を経て、店の洋菓子部門に入ります。新しいバウムクーヘンを目指した山本は、1997年、洋菓子店クラブハリエを草津に出店します。しかし、バウムクーヘンは見向きもされませんでした。1999年、山本は、梅田の阪神百貨店にバウムクーヘン専門店を開くという大勝負にでます。これが大当たりしたわけです。ドイツの地方菓子が日本のスウィーツに変身した瞬間でもありました。ちなみに、クラブハリエでは”バームクーヘン”と称しています。山本の心意気を感じさせます。山本は、日本を代表するパティシエとして国際大会で優勝するなど活躍しています。

クラブハリエが変えた日本のバウムクーヘンは、東京のねんりん家や大阪のマダム・シンコなどの参入もあり、新たな時代を迎えたと言っていいのでしょう。ちなみに、2005年頃、大阪のモンシェールが堂島ロールで大当たりし、ロールケーキ・ブームを起こします。私も、名古屋で並んで買いました。しかし、ロールケーキは参入障壁が低く、堂島ロールの影は薄くなっていきました。ヒット商品は大事ですが、それだけに頼った経営、いわゆる一本足打法は危険なビジネスです。ブランディングにおいては、信頼度や認知度とともに、新鮮度も重要な要素となります。それは何も新商品ばかりを意味しません。クラブハリエは、限定商品の投入で鮮度を保つだけでなく、たねやとの相乗効果、ラコリーナに代表される店舗戦略など、見事なマーケティングを展開しています。(写真出典:clubharie.jp)

2024年7月27日土曜日

身勝手な犯罪

仕事で必要とされた場合を除き、裁判の判決文など読んだことはありません。ただ、TVニュース等で、判決要旨を聞くことはあります。そこで、しばしば「身勝手な犯罪」という言葉を耳にします。しかし、過失を別として、身勝手ではない犯罪など存在しないのでないかと思うわけです。犯罪が故意によるもの、つまり意図的であることが明確だと言っているのかもしれません。”身勝手”とは、自分の都合や利益だけを考えて行動することであり、個人を社会や集団に優先させる行為です。ただ、それは、ただちに犯罪を構成するものではありません。身勝手な行為が、他者や集団に意図的に実害を与えて、初めて犯罪として成立するわけです。

個人ではなく、社会や集団のために行ったとする犯罪であっても、他者を害する以上は、身勝手と言わざるを得ません。犯罪が身勝手な行為であることが明白にも関わらず、なぜ、裁判官は「身勝手な犯罪」という言葉を使うのでしょうか。裁判官にとって、「身勝手な犯罪」という言葉は、明らかに重い言葉であり、被告を厳しく非難しています。裁判官は、故意か否かをも含めた事実に基づき、法に則って犯罪を裁き、罰を確定します。しかし、あえて身勝手かどうかに言及するのは、情状酌量の余地があるかないかに関わる問題だからなのでしょう。ただ、それでも、なぜ「身勝手」と言う言葉が選択されているのか、不思議に思います。他にも相応な言葉があるように思います。

例えば、判断の入る言葉にはなりますが、冷酷、残忍、あるいは人を人とも思わない、他者の迷惑を顧みない等といった言葉でもいいように思います。やはり、集団依存的な日本社会にとって、身勝手であることは、社会の存続装置を脅かしかねない巨悪だということなのでしょう。個人主義と集団主義という議論は、なかなかに難しい議論です。個人レベルで考えれば、集団での狩りや農耕が始まって以来、人間は、個人と組織という対立する概念に悩んできました。国や地域単位で見れば、社会がその葛藤にどのように向き合うかは区々です。欧米は、個人・組織共立的であり、日本は組織依存的と言えます。永く続いた農村の自治的傾向の産物とも考えます。欧米に比べ、日本はアウトサイダーが生きにくい国だと思われます。社会的な死刑宣告にも等しい村八分という農村文化が根強く残り、それが犯罪の抑止力にもなっている面もあります。

日本の犯罪発生率が低いのは、国民が道徳的だからでも、教育が行き届いているからでも、刑法が厳しいからでも、警察が優秀だからでもありません。ただただ組織依存色の強い社会だからなのだと思います。都道府県別の人口当たり犯罪発生率を見ると、大阪が不動の1位であり、大都市およびその近郊が上位を占めています。一方、下位を見ると、大都市圏を持たず、広範な農村地帯を抱える県が多い傾向が顕著です。人口の多少が関係している面もあるのでしょうが、村社会の伝統が温存されていることが大きな要因なのだと思います。かつて、都市部にも、町内会や隣組といった村落共同体の都市版に近いものが存在していました。ただ、マンションの増加が、そうしたコミュニティを破壊していったものと思われます。

外国人の居住が増えれば、犯罪も増加するという懸念があります。恐らくそのとおりでしょう。また、組織依存的な社会は、相互監視社会でもあります。近年、匿名性の高いSNSが普及したことで、犯罪が増加、あるいは変質していくことも考えられます。既に、その兆候は、詐欺罪の傾向に現れているとも言えます。コロナ禍で低下していた刑法犯罪の発生率が、足下では増加しているようです。単にコロナ前に戻るだけでは済まないように思います。また、犯罪検挙率は下がり続けているようですが、それが犯罪を巡る状況の変化を象徴しているようにも思えます。恐らく、近年の貧富の差の拡大と固定化も、徐々に犯罪の発生率に影響を及ぼしていくことになるのでしょう。(写真出典:tenki.jp)

2024年7月25日木曜日

フエ

Fuet de Vic
フエ(Fuet)は、スペインの白カビタイプのドライ・ソーセージです。カタルーニャの東ピレネー地方が発祥とされます。豚肉に胡椒とニンニクを混ぜ、豚の腸をケーシングに使い、白カビで3週間以上乾燥熟成したソーセージです。実にシンプルなドライ・ソーセージですが、白カビによって肉の旨味を凝縮し、香ばしさを醸し出した絶品です。スペイン語でFuetとは鞭のことです。その細長い形状から名付けられています。ここ数年、近くのスーパーでも買えるようになったので、よく食べています。フエにパンと野菜でもあれば、朝食として成立しますし、口が寂しい時にも重宝しています。そもそも貯蔵肉好きにとって、ドライ・ソーセージは欠くべからざる存在だと思っています。

ソーセージの歴史はとても古く、最も古い文献としては、紀元前8世紀にホメロスが著わした「オデュッセイア」とされます。ソーセージという言葉は、古代ローマの塩漬けにするという意味のサルススが語源とされます。ドライ・ソーセージの歴史もはっきりしないものの、少なくとも古代ローマには存在していたようです。イタリアを代表するドライ・ソーセージと言えばサラミですが、やはり食塩を意味するサレが語源と言われます。ちなみに、サラミには、ミラノ・タイプとナポリ・タイプがあります。その大きな違いは、ミラノが豚と牛を使い、ナポリが主に豚ということになります。見た目で言えば、ミラノは粒々の脂肪を散りばめてあり、ナポリの方はフエなどと同じくドライ・ソーセージに一般的な外見になっています。

初めてスペインに行ったのは、45年前のことですが、その時、フエを食べた記憶がありません。マドリーやトレド、アンダルシアを回り、カタルーニャに行っていないので、口にしなかったのかもしれません。ひょとすると食べたのかもしれませんが、ハモン・セラーノの強烈な印象に負けたのだろうとも思います。当時の日本では、ハモン・セラーノを食べる機会など限られていたので大感動しました。ハモン・セラーノは、塩漬けにした白豚のもも肉を低温で長期間乾燥熟成したものです。ハムとソーセージの大きな違いは、そのままの肉を使うか、ミンチ肉を使うかという点です。日本では生ハムという呼び方が一般的ですが、加熱していないので生と呼ぶのでしょう。スペインでハムと言えば、生ハムのことです。

それにしても、発酵が人類にもたらす恩恵には、いつも驚かされます。人類最大級の発見の一つだとも思います。人類が発酵を活用し始めたのは、新石器時代の中央アジアだったとされます。空気中には、乳酸菌などの他に有害な腐敗菌等も多く漂っています。中央アジアは、低温で乾燥した土地柄、有害な菌が少なかったのではないかと言われます。人類は、発酵を主に食品の長期保全とアルコールの生成に活用してきました。長期保存が目的とは言え、発酵は、食品を美味しくかつ吸収しやい状態へと変化させるという恩恵ももたらします。白カビ発酵をさせた食品としては、ドライ・ソーセージ類の他に、清酒、味噌、醤油、本枯れ鰹節、あるいは貴腐ワインなどがあります。白カビチーズと呼ばれるカマンベールやブリーに使われるのは、実は青カビの一種だそうです。

最も有名なフエと言えば、フエ・デ・ヴィックです。ヴィックの街は、バルセロナの北の山中にあります。伝統的なヴィックのフエが使う調味料は、海塩と胡椒だけです。中世まで、胡椒はイスラム商人がインドから欧州に運んでいました。極めて貴重なもので、胡椒の値段は、同じ重さの黄金に匹敵したとも言われます。15世紀末、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って、インド航路を切り開いたことで、胡椒の値段は大いに下落します。現在に至るフエの製法は、ヴァスコ・ダ・ガマ以降に始まったということになります。誤解されがちな話ですが、、ダ・ガマが喜望峰を回ってまで胡椒を求めたのは、肉を保存する、あるいは肉を美味しく食べるためではありません。ひたすら金儲けのためです。(写真出典:spanishoponline.com)

2024年7月23日火曜日

日想観

四天王寺の日想観
近鉄大阪線は、大阪上本町と伊勢中川を結ぶ路線ですが、伊勢中川で山田線に入り、宇治山田まで行きます。大阪方面からのお伊勢参りのメイン・ルートであり、途中には長谷寺口、室生口大野など名刹の入り口となる駅もあります。また、清少納言が、有馬温泉、玉造温泉とともに三大名湯とした榊原温泉も沿線にあります。近鉄大阪線には何度か乗りましたが、いつも”俊徳道”という駅名が気になっていました。明らかに俊徳丸と関係する駅なのだろうとは思いましたが、案の定、俊徳丸が四天王寺へ通ったとされる道から命名された駅でした。俊徳道は、四天王寺南門から生駒山地の十三峠を超えて平城京に至る十三街道とも呼ばれていたようです。

俊徳丸の伝説は、古くから土地に伝えられてきた伝説とされますが、室町時代には広く知られていたようです。俊徳丸伝説を題材とした芸能も多く残ります。有名なところをあげれば、原曲は世阿弥の作とされる能楽「弱法師(よろぼし)」、菅専助・若竹笛躬の合作とされる浄瑠璃・歌舞伎の「摂州合邦ケ辻」、さらには説教節の「しんとく丸」や「愛護若」があります。さらには折口信夫の短編「身毒丸」、寺山修司の戯曲「身毒丸」も俊徳丸伝説がベースになっています。ストーリーとしては、シンデレラはじめ世界中の物語に見られる典型的な継母ものです。継母にいじめられるのが男子という点は特徴的かも知れません。また、俊徳丸の場合、日本の物語に特有の仏教的要素が加わっています。おおよそのストーリーは以下のようなものです。

河内国高安の山畑に在する信吉長者は子供がいなかったため、清水観音に願をかけて子を得ます。俊徳丸と名付けられた子は容姿も頭も良く、四天王寺で稚児舞楽を演じることになります。これを見た隣村の蔭山長者の娘は俊徳丸に一目惚れ、二人は恋に落ち将来を誓う仲となります。 しかし、俊徳丸は、実子を信吉長者の跡継ぎにしたいと願う継母の呪いによって、失明させられ、家から出されてしまいます。俊徳丸は四天王寺界隈で物乞いに落ちぶれます。この話を知った蔭山長者の娘は、俊徳丸を探しだし、二人で観音様に病気治癒を祈願します。すると、俊徳丸の目は見えるようになり、夫婦となった二人は蔭山長者の家を継ぎ、幸せな人生を送ります。一方、信吉長者の家は、長者が死ぬと家運が傾き、継母は蔭山長者の施しを受ける身に落ちぶれます。 

能楽「弱法師」になると趣きがかなり変わってきます。高安通俊は、人の讒言で息子を家から出します。過ちに気付いた通俊は、我が子の無事を祈って天王寺で施行を営みます。その満願の日、若い盲目の乞食(弱法師)が現れます。通俊は、弱法師に日想観(じっそうかん)を勧めます。日想観とは、西の空に沈む夕陽を拝み、極楽浄土を観想するという修行の一つです。弱法師は、かつて父と見た難波の夕焼けを思い出しますが、かえって盲目になったことに打ちのめされます。我が子だと確信した通俊は弱法師を家に連れ帰ります。継母も、蔭山長者の娘も出てきません。落ちぶれた継母の姿もありません。庶民ウケする要素は除かれ、仏法のもとに向き合う親子の情感が描かれます。盲目の弱法師にとって、日想観は実にアイロニカルな修行です。ただ、過去と現在が交差する時空を出現させているとも言えます。その日想観が父子に救いをもたらします。それこそが極楽浄土なのかもしれません。

静かに深く情感が語られていく「弱法師」は優れた能楽の一つだと思います。我が子を探して流浪する女物狂いが、我が子の死を知るという能楽「隅田川」が思い起こされます。派手な演出がないだけに、演者の技量次第という難しい能なのだろうと思います。それにしても、俊徳丸伝説から仏法に基づく幽玄の世界を導き出す世阿弥の天才ぶりには驚かされます。舞台となる四天王寺は、593年、聖徳太子によって創建された日本初の官寺とされます。難波の上町台地の上に立つ四天王寺ですが、かつて西門の前は海だったようです。夕陽の名所として知られ、極楽浄土の東門にあたるとも言われてきたようです。四天王寺では、今も、年に2回、春分の日、秋分の日の夕刻に日想観が行われているとのことです。読経が流れるなか、多くの人々が極楽浄土に思いを馳せているようです。(写真出典:kobe-trip.jimdofree.com)

2024年7月21日日曜日

ガルべストン

世界中には、歴史的役割をすべて終えたかのような街があるものです。かつて栄華を極め、その後、勢いを失った街には、甘美な優雅さやノスタルジックなけだるさを残すところもありますが、どことなく漂うわびしさは隠しきれないものです。特に、一世を風靡したリゾート地のなれの果てでは、街中を哀しみが覆っているようにさえ見えます。テキサス州ガルベストンにも、そんな印象を受けました。もちろん、ガルベストンは、今も、観光客が訪れ、海運、金融、教育の街としても知られます。ただ、19世紀には、全米最大級の港湾都市であり、全米一所得の高い街であり、テキサス州で最も人口の多い街であり、 メキシコ湾の女王とまで呼ばれた街です。

ガルベストンの19世紀の栄光は、今も、6つの歴史地区と国家歴史登録財である60を超すヴィクトリア朝建築にみることが出来ます。しかし、19世紀の栄華は、文字通り、一瞬にして失われました。1900年9月、今でもアメリカ最悪の自然災害と言われるガルベストン・ハリケーンが街を襲い、全てを破壊しました。最低気圧は936mb、雨量は230mm、最大風速は145mph。日本式に換算すれば、ほぼ65m/sということになります。気象庁の目安で言えば、家屋が倒壊、鉄骨構造物の変形がおこる風速となります。加えて砂州の上に築かれた街を高潮が襲います。死者数は8,000人とされますが、12,000人という説もあります。ガルベストンの全ての家屋が被害を受け、人口の1/4にあたる10,000人が家を失っています。

以降、ガルベストンは、投資をするにはあまりにも危険な場所になります。港湾は、隣接するヒューストンが自前の港を整備したことなどから、競争力を失います。市は、5mを超す防波堤を10kmに渡って築きます。防波堤の効果は、後のハリケーンで証明されましたが、一方で、街の大きな観光資源だったビーチが失われることになりました。どん底に落ちたガルベストンでしたが、禁酒法によって息を吹き返します。復興の光が見えないガルベストンは、禁断の選択を行い、酒、麻薬、賭博、売春で賑わう街へと変わります。ネヴァダにラス・ヴェガスが誕生するまで、全米から多くの観光客を集めたといいます。 メキシコ湾の女王は、シン・シティ(罪の街)になってしまったわけです。

第二次大戦後、法規制が強化されるなか、罪の街も寂れていきます。そこからガルベストンの低迷が続くことになります。私がガルベストンを訪れたのは、1991年のことだったと記憶します。国家歴史登録財に指定されている港近くのストランド歴史地区にも行きました。19世紀には、商人、船乗り、港湾労働者でごった返していたはずですが、私が行った日は、週末にもかかわらず人影がありませんでした。うら寂しいレストランで、ガンボーを食べただけで退散しました。ただ、ガンボーの味だけは絶品であり、歴史を感じさせられました。90年代に全米で起きた再開発ブームに乗って、ストランド歴史地区も整備され、今は賑わいを取り戻しているようです。特にマルディグラやクリスマスには、随分と賑わっているようです。

私は、ヒューストン出張の際、週末を利用してガルベストンへ行ったのですが、車で1時間程度だったと思います。行ってみようと思ったのは、1969年のグレン・キャンベルの大ヒット曲「ガルベストン」が頭に残っていたからです。グレン・キャンベルの歴史的傑作「恋のフェニックス」の作詞・作曲で知られるジミー・ウェッブの作品です。ジミー・ウェッブが、ガルベストンを訪れた際にビーチで着想を得た曲とされます。ガルベストンから出征した兵士が恋人と故郷を思う歌です。当時は、兵士が戦っているのはヴェトナム戦争だと思われていたようです。しかし、ジミー・ウェッブが想定していたのは、19世紀末の米西戦争でした。ビーチでジミー・ウェッブの頭に浮かんだのは、やはり巨大ハリケーンに襲われる直前の華やかなりし頃のガルベストンだったわけです。(写真出典:en.wikipedia.org)

2024年7月19日金曜日

世間師

小栗風葉
NHKの「100分de名著」は面白い番組だと思います。問題は、1冊を4回に分けて、1週間毎に放送することです。興味のある本が取り上げられても、ついつい見逃すことが多くなります。放送直後であれば、無料のNHKプラスで見ることもできますが、それすら忘れます。もちろん、有料のNHKアーカイブスでまとめて見ることも可能ではありますが。過日、民俗学者・宮本常一の名著「忘れられた日本人」が取り上げられていました。放送の中で、少し気になる表現がありました。聞き間違いかも知れませんが、「世間師」という言葉が、宮本の造語かのように話されていたのです。世間師とは、巧みに、あるいはずる賢く世間を渡る人を指すと同時に、在所である村や町を離れて旅から旅の生活を送る人たちのことでもあります。

江戸から明治の頃まで、郷里を離れて旅の生活を送る人は極めて希であり、管理された日本社会ではアウトサイダーとされました。例えば、江戸期の民衆は、戸籍台帳とも言える宗門人別改帳で厳密に管理されていました。様々な理由で、逃散、あるいは逃亡するなど在所を離れると、台帳から消されます。管理社会にあっては、とても生きにくい状況に置かれることになります。アウトサイダーの存在そのものは散発的に文献に登場しますが、詳細な個々の記録は、その性格からして残っていません。ただ、アウトカーストである非人、あるいは博徒・的屋等は組織化され、佐渡金山で坑道の排水を行う水替人足、軽犯罪者の更生施設とも言える人足寄場など、幕府が行ったアウトサイダーの更生事業もあります。

しかし、大半の世間師は、一切記録に残ることなく旅の生活を送っていたわけです。多くは、飢饉などで流民化した農民だったようです。人足仕事やわずかな商売で日銭を稼ぎ、民家や木賃宿に泊まって粗末な食事が取れれば良い方で、廃寺の軒下や橋の下で雨露をしのぐことも多かったようです。明治の文豪・小栗風葉に「世間師」(1908年)という短編があります。尾崎紅葉門下だった小栗風葉は、「青春」三部作で人気を博しますが、弟子たちによる代作が増え、評判を落とします。名を成す前に、一時期、放浪の生活を送った経験から生まれたのが「世間師」だったようです。海辺の小さな町の木賃宿を舞台に、そこに寝泊まりする世間師たちの姿と生活が描かれています。

木賃宿とは、宿場街のはずれで、薪代程度の安い料金で宿泊させる安宿のことです。不衛生な寝具で雑魚寝し、食事は薪代を払って自炊する、という劣悪な環境の宿が多かったようです。木賃とは薪代のことです。実は、現在も簡易宿泊所という名称で、東京の山谷、大阪のあいりん地区と呼ばれる釜ヶ崎など、いわゆるドヤ街に残っています。ドヤとは、宿を反対に読んだ言葉です。宿とも言えないという意味なのでしょう。人類が農耕を始め、社会というものが成立した頃から今に至るまで、組織に馴染めない人たちが、一定数、存在してきたということなのでしょう。しかし、彼らが社会のお荷物だったわけでもありません。日本の高度成長期の建設ラッシュを底辺で支えたのが、ドヤ街に集まる日雇労働者たちだったと言われます。

旅の生活を続けた世間師は、かつて閉鎖的、孤立的だった日本の集落に、他の地方や世間に関する貴重な情報をもたらす機能を担っていたという説があります。その情報が、生産技術の改善や社会情勢への対応につながっていたといいます。宮本常一の言う世間師は、村落を出て長い旅の生活をし、再び村落に戻って外部情報を伝えることで、村落の進化に役に立った人々です。逃散・逃亡組とは異なりますが、そういう世間師もいたわけです。いずれにしても、情報伝達手段が限られていた時代、結果的には有用な人々でもあったわけです。アウトサイダーは侮蔑的呼び方をされても致し方ない面もありますが、情報をもたらすという意味において、”師”という字が付けられたのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年7月17日水曜日

「フェラーリ」

監督:マイケル・マン      2023年アメリカ 

☆☆☆ー

アダム・ドライバーは、見事な役者根性を見せています。ペネロペ・クルスは、さすがの演技を見せています。レース・シーンは、リアルな映像とサウンドで再現されています。にも関わらず、映画としては中途半端な印象を受けてしまいます。最高の食材を使っているのに、料理としての完成度は低い、といった印象です。最大の問題は、散漫なシナリオにあるように思います。様々な要素が、整理し切れないまま中途半端に羅列される状態になっています。なかでも妻と愛人との三角関係のウェイトが高く、ペネロペ・クルスの演技がなければ、安っぽいメロドラマになっていたところです。例えば、エンツォ・フェラーリの人格にフォーカスしていれば、すべて収まりが良くなったのではないかと思います。

シナリオの散漫さがゆえか、個々のシェークエンスにおける表現も表面的になるか、あるいは散発的になっています。クライマックスを構成すべきミッレミリアも、リアルな映像にも関わらず凡庸な表現となり、その威力を発揮できていません。ミッレミリアは、1927~1957年まで、イタリアで開催されていた伝説のカー・レースです。北部・中部の公道を1,000マイル走るという過酷なレースでした。ミッレミリアとは、イタリア語で1,000マイルという意味です。レースには、欧州のスポーツカー・メーカーが勢揃いし、しのぎを削りました。それがスポーツカーの進化、ひいてはモータリゼーションの進展をうながしたとも言えます。1957年、フェラーリ車が起こした事故によって、ミッレミリアは終わります。

ドライバーや沿道の観客11人が亡くなったこの事故は歴史を変えた事故でもありました。事故は映画でも描かれていますが、やはり表面的な扱いになっています。車やタイヤの欠陥が原因ではないかという点が、法廷で4年間に渡り争われました。結果的にはフェラーリが勝訴したものの、観客やレーサーの安全への配慮に欠ける牧歌的なカー・レ-スの時代は終わりを告げます。その背景には、技術的進化によるレース・カーの高速化がありました。それこそ、エンツォ・フェラーリが、ドライバーの命や家族を犠牲にしてまで、生涯、こだわり続けた唯一のものだったと思われます。エンツォ・フェラーリは、20世紀の技術革新の光と影、あるいは20世紀そのものを体現した人だったのではないでしょうか。

それは単に20世紀中葉の一瞬を指すのではなく、背景には欧州の近代史そのものがあると考えるべきだと思います。エンツォ・フェラーリにはイタリア近代史が凝縮されているのだとすれば、アダム・ドライバーはミス・キャストだと言わざるを得ません。アダム・ドライバーが見事な役者であることは間違いありませんし、今回も熱演していると言えますが、やはりアメリカ人であり、イタリアの歴史の重さを感じさせません。映画全体も、キャストも、ルネサンス絵画をコンクリートの壁にペンキで模写したかのような印象を受けます。全編英語で演じられ、固有名詞だけイタリア語っぽい発音にしているあたりにも安っぽさを感じます。ペネロペ・クルスだけは異なる存在感を見せていますが、イタリアのおばさんには見えません。

映画のなかで、エンツォは、部下や仲間たちから”Commendatore”と呼ばれています。実際、そう呼ばれていたようです。字幕は”社長”となっていましたが、正確には、ドライバー時代の叙勲に基づく称号であり、いわば名誉騎士団長といったところでしょうか。ハーランド・サンダースが、その貢献に対してケンタッキー州から送られたカーネル(大佐)という名誉称号で呼ばれるのと同じです。説明が難しいので”社長”という字幕はやむを得ないところです。エンツォは、その影響力の大きさゆえ、様々な愛称で呼ばれています。英国人は、”Il Drake”と呼んでいたそうです。有名な私掠船の船長フランシス・ドレイクにちなんだもので、貪欲に結果を追求するエンツォの姿勢に対する批判と賞賛が入り交じっているといいます。これがエンツォ・フェラーリを最も的確に表す愛称のように思えます。(写真出典:eiga.com)

2024年7月15日月曜日

地鶏の炭火焼き

丸万のもも焼き
初めて宮崎市へ行ったのは、25年ほど前のことです。定番コースですが、シーガイヤに泊まって、ゴルフをして、青島観光をしました。しかし、最も楽しみにしていたのは食事でした。宮崎牛、各種海鮮、冷や汁、釜揚げうどん、チキン南蛮、うなぎ、焼酎等々、宮崎には美味しいものが数々あります。なかでも地鶏の炭火焼き、いわゆる”もも焼き”には驚きました。まずは真っ黒いヴィジュアルに度肝を抜かれ、食べると、強烈な炭素系の香ばしさに加え、噛めば噛むほど鶏の旨味が湧き出してきます。一体、これはどうやって調理しているのかと不思議に思いました。炭火だけでここまで黒くなることはないはずだと思いました。一緒に行った友人は、ガソリンでもかけて焼いているのではないか、と言っていました。

実は、高温の木炭に鶏の脂が落ちて炎があがり、舞い上げられた炭化物が鶏に付着して、黒くなっていたのです。炭火焼きのエクストリーム・ヴァージョンです。強い火力が鶏の旨味を閉じ込め、味を良くしていたわけです。宮崎には3~4泊したように思うのですが、毎晩、二次会でもも焼きを食べました。一番、美味しかったのは、もも焼きの元祖と言われる「丸万焼鳥本店」だったと記憶します。かなりの高温で焼き上げ、中はレアに近い状態でした。香ばしさもさることながら、宮崎の地鶏、みやざき地頭鶏(じとっこ)の旨味が最も強く感じられました。地頭鶏は、霧島山麓で古くから飼育されていたようです。美味な肉だったので、藩の地頭に献上していたことから地頭鶏と呼ばれるようになったとされます。

日本三大地鶏とされるのは、秋田の比内地鶏、愛知の名古屋コーチン、鹿児島の薩摩地鶏です。よく刺身で食べられる薩摩地鶏は、甘味の強い肉質が特徴です。初めて食べた時には、甘味の強い鹿児島醤油のせいかと思いました。実は、肉自体の甘味が強いのです。サツマイモを餌にしているのかと思ったほどです。鹿児島の人に、やはり霧島の地頭鶏が原型ですか、と聞いたら、あんなものとはまったく異なる、と怒られました。薩摩地鶏は、江戸期に開発された闘鶏用の軍鶏・薩摩鶏を原型とします。闘鶏好みは、会津藩と並び江戸時代最強と言われた薩摩藩らしい話です。地頭鶏のふるさとである宮崎県南西部も薩摩藩でした。薩摩藩で鶏の飼育が盛んだった理由は、年貢の対象外とされていたためだと聞きます。

骨付きの鶏ももに包丁を入れて焼く宮崎のもも焼きは、丸万焼鳥本店の創業者の発案だったようです。最近のもも焼きは、一口大にカットして焼くことが多いのですが、丸万焼鳥本店では骨付きのまま焼いています。ひね鶏、いわゆる採卵鶏を使うのも、創業者のアイデアだったようです。ひね鶏の肉は固いのですが、旨味が強いのが特徴です。炭火に鶏脂を落として黒く焼きあげるスタイルも丸万焼鳥本店の発明なのかと思いましたが、どうもはっきりしません。古くからあった焼き方という説もあります。ひね鶏は、脂身が少ないので、風味を増すために、鶏脂を塗って焼いたのではないでしょうか。鶏脂が炭に落ちて炎をあげ、結果的に黒くなったのではないかと考えます。ちなみに、焼鳥も、炭と鶏脂をうまく使って焼き上げます。

焼鳥は、焦げても、黒くなることはありません。そこが、串指し3年、焼き一生と言われる職人技なのでしょう。もも焼きも、焼鳥も、食材そのものを炭化させないことは当然です。ただ、その焼き方においては、炎の当て方と焼時間が大いに異なります。焼鳥は遠赤外線でじっくり中まで火を通し、もも焼きは、短時間、強火で表面を焼き上げることで、肉の旨味を閉じ込め、炭の香ばしさを一気にまとわせます。両極端のアプローチと言っていいのでしょう。食材に、直接火をあてる調理と言えば、フランベがあります。これは、ブランデー等の香りを食材に移す手法です。もも焼きに近いものとしては、カツオのたたきを作る際の藁焼きがあります。少なくとも丸万焼鳥本店のもも焼きに関しては、地鶏のたたきと言ってもいいのかもしれません。(写真出典:miyazaki-city.tourism.or.jp)





丸万焼鳥本店は裁き方の元祖 異様な焼き方 焼鳥と同じ しかし焼鳥は黒くしない


2024年7月13日土曜日

車輪

世界三大発明とは、火薬・羅針盤・活版印刷とされます。これに紙を加えて四大発明と言うこともあるようです。すべて中国で発明されたものばかりですが、15~16世紀に欧州に伝えられ、社会を大きく変えたために三大発明と呼ばれるようになったようです。ただ、人類の歴史を変えた発明と言えば、古くは石器、火の利用に始まり、農耕・牧畜、文字、土器、青銅器、鉄器等々、数限りなく存在します。発明は、常に文明のエンジンでした。文明の始まりは、5,500年前に潅漑農業を始め、3,500年前には都市文明を築いたシュメール文明だとされます。シュメールは、文字と数字を生み出したことでも知られます。同様にシュメール文明が発明した文明の利器に車輪があります。3,500年前のこととされます。

車輪の発明は、人類に計り知れないほどの恩恵をもたらしたものと考えます。効率的な物の運搬や人の移動を可能にし、歯車は機械に効率良く動力を伝えることで、文明を根底で支えています。文字と同様、人類の文明化にとっては、最も重要な発明の一つだと思います。車輪が発明される前、重い物や多くの物を運ぶためにソリが発明されていました。地べたの上でソリを引っ張るのは、なかなかの重労働です。そこで滑りをよくするための方策が考えられますが、その一つがコロでした。ソリの下に丸太ん棒を並べ、滑りを良くするわけです。ソリにコロを付けるという発想の転換が車輪を生むことになります。車輪は大発明ですが、そもそもコロに気付いたことが大きかったと言えます。

車輪は、はじめ一枚の木板で作られますが、強度に問題があったため、板を組み合わせる方法がとられます。さらに強度を増すために横木が付けられます。この横木がスポークへと進化し、ハブ・スポーク・リムで構成される軽量で強度の高い現在の車輪が出来上がります。また、強度を求め、材質は木材から鉄へと変わります。そして、19世紀、ゴムタイヤが登場します。初めはソリッド・ゴムだったようですが、やがて現在の主流であるチューブ入りのゴムタイヤが登場するわけです。自転車用は英国のダンロップ、自動車用は仏国のミシュランによって開発されました。耐久性に問題はあるものの、抜群の衝撃吸収性、安定走行性の高さに加え、グリップ力の強さも大きな特徴です。

摩擦を考えれば、車輪の究極的な目標は、車輪を無くすことであり、飛翔体ということになります。しかし、ロケットを別とすれば、飛行機やヘリコプター、あるいはドローン等は、空気の存在を前提としている以上、空気抵抗という摩擦との戦いは避けられません。リニアモーター・カーも浮いて走行するため、接地面における摩擦を克服しましたが、空気抵抗の問題は残ります。摩擦との戦いを克服する究極のアイデアの一つが真空チューブ列車です。真空状態にしたチューブ内で、宙に浮いた列車を走らせます。ほぼ摩擦抵抗を受けない列車は驚異的なスピードを実現できます。既に19世紀から計画、実験が、各国で継続されていますが、技術的な面、経済効果的な面での課題も多く、いまだ実用化には至っていません。

車輪の歴史は、摩擦との戦いの歴史です。思えば、車輪に限らず、文明は摩擦の克服と活用の歴史だったと言うこともできそうです。摩擦の原因や克服法に関する研究は、アリストテレスの時代から行われていたようです。現在、摩擦は、物質の表面上の微細な凸凹がかみ合うことで発生することが分かっています。また、静止摩擦よりも動摩擦が、動摩擦のなかでも滑り摩擦よりも転がり摩擦の方が、抵抗が少ないことも分かっています。科学以前に実用化されていた車輪は、偉大な発明だったわけです。車輪と同様に人類にとって偉大な発明である火の起こし方も、摩擦を活用することで成り立っています。木の板と木の棒を使う方法も、火打ち石を使う方法も、摩擦熱を利用しています。人類と摩擦の関係は奥深く、興味深いものがあります。(写真出典:ja.wikipedia,org)

2024年7月11日木曜日

イタリア広場

 ”イタリア広場”と言えば、欧州のどこか大きな都市に実在する広場のように思えますが、実はどこにも存在しません。ジョルジョ・デ・キリコが創造したイメージであり、1910年代に描き始めた形而上絵画のモチーフの一つです。デ・キリコは、生涯に渡り、多くのイタリア広場を描いています。1888年、ギリシャでイタリア人の両親にもとに生まれたデ・キリコが、イタリアに住んだのは父の死後のことでした。ミラノ、フィレンツェ、後にフェッラーラに住んでいます。デ・キリコは、1910年、フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で、見慣れた景色が初めて見るかのような感覚に襲われた、と語っています。それがイタリア広場の原点となる啓示だったのでしょう。翌年、パリに移住したデ・キリコは、イタリア広場を描き始めます。

デ・キリコの形而上絵画は、突然、天から降ってきたわけではありません。デ・キリコは、1907年、ミュンヘンの美術アカデミーに入学しています。そこで、彼は、ショーペンハウエルやニーチェの哲学、あるいはアルノルト・ベックリンやマックス・クリンガーといったドイツ象徴主義絵画に深く影響されることになります。ベックリンの代表作である「死の島」は、幻想的、神話的な作品ですが、当時のドイツでは大人気だったようです。ヒトラーが好んだことでも知られます。クリンガーは、幻想的な作風で知られ、シュールリアリズムの先駆者とも言われます。いずれにしても、19世紀後半の欧州で圧倒的人気を誇った印象派へのアンチテーゼであり、そこにニーチェの哲学的要素が加わり、形而上絵画が生まれたというわけです。

印象派へのアンチテーゼとしては、ドイツ象徴主義がすべてだったわけではなく、フォービズム、キュビズム等、さらにはより広範なカウンター・カルチャーとしてのダダイズムも登場してきた時代でした。まさに前衛芸術の幕開けだったわけです。デ・キリコの形而上絵画も、そうした時代のうねりの中で生まれたと考えていいのでしょう。その時代を牽引した一人が詩人ギヨーム・アポリネールでした。絶大な影響力を持っていたというアポリネールが評価したことで、デ・キリコは世に出たと言われます。アポリネールは、前衛的な芸術家たちにデ・キリコの絵を紹介します。デ・キリコの形而上絵画に刺激された画家たちは、シュールリアリズムへと向かっていくことになります。

ただ、シュールリアリズムはじめ、前衛的な芸術運動の参加者としてデ・キリコの名前を見ることはありません。なぜなら、1919年、デ・キリコは、突如、ルネサンス絵画への復古を宣言し、前衛絵画を公然と批判しはじめたのです。デ・キリコの形而上絵画は、わずか10年弱の間に描かれたものです。1940年前後からは、バロックの影響を受けたネオバロック絵画に執着することになります。ただ、それらは評価されることなく、形而上絵画ばかりが注目されます。そのことに怒ったデ・キリコは、自己贋作と称して、過去の形而上絵画をバロック的手法を再現した絵も発表しています。彼の形而上絵画の影響力を考えれば言い過ぎになるかもしれませんが、デ・キリコは、20世紀初頭の前衛芸術に咲いた徒花(あだばな)のように思えます。

徒花は、咲いてもすぐに散る、あるいは実を結ぶことがない花を指します。徒花に魅力がないのではなく、人々を惹きつけるからこそ徒花と呼ばれるのでしょう。デ・キリコのイタリア広場は、赤い塔、古代ローマ風のアーケードといったモティーフが配され、デフォルメされた遠近法や光と影によって平面的に描かれます。時間が止まったかのような無機質な絵は、独特な静謐さを持っています。デ・キリコが好んで描いた顔のないマヌカンも同様な印象を与えます。形而上絵画は、20世紀の技術革新による繁栄がもたらす不毛を暗示しているようでもあります。大回顧展と銘打って開催されている東京都美術館の「デ・キリコ展」は、人気の形而上絵画に特化することなく、生涯の画業を展示している点が面白いと思いました。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年7月9日火曜日

藤戸

藤戸石
藤戸の戦いは、1185年、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の際、源氏方の佐々木盛綱と平清盛の孫である平行盛の間で戦われました。藤戸とは、JR倉敷駅の南に広がる一帯を指します。現在は陸地になっていますが、往時は小島が点在する海だったようです。航空写真を見ると、平行盛が陣を築いたという篝地蔵も、佐々木盛綱が陣を敷いたという藤戸も小高い緑地として確認できます。その間を隔てた海の幅は500mほどだったようです。前年、一ノ谷の合戦で敗れたものの、水軍を擁する平氏は瀬戸内海を西へと逃れます。一方、水軍を持たない源氏の追討は思うように進みません。源範頼の軍は安芸国まで進出しますが、平氏の水軍に後背を突かれ、兵站を失う事態にも陥っていました。

そんな状況下、藤戸で対陣した両軍ですが、佐々木盛綱は、水軍を持つ平行盛に翻弄されます。業を煮やした佐々木盛綱は、騎馬のまま、6騎を従えて海を渡ります。騎馬による渡海など想定外だった平氏軍500名は混乱に陥り、海へと潰走します。もちろん、佐々木盛綱は、海の上を進んだのではなく、地元の漁師に聞き出したという浅瀬を渡ったわけです。平家物語の巻十に登場する話です。読み本版の平家物語に限っては、佐々木盛綱が浅瀬を教えた漁師を殺害したという話が記載されています。奇襲の秘密を守るためでした。なんともむごい話ですが、佐々木盛綱が人一倍冷酷な武士だったわけではなく、当時の戦場にあっては、常道とも言える行動だったようです。世阿弥は、この話に基づき謡曲「藤戸」を書いています。

前シテは、殺された漁師の母親です。佐々木盛綱は、恩賞としてこの地を拝領し、領地入りします。そこに漁師の母親である老婆が現れ、息子を殺された恨みをぶつけます。盛綱は、その供養を約束します。すると殺された漁師の亡霊が後シテとして現れ、殺された状況を語ります。恨みを晴らそうとする亡霊でしたが、盛綱が手厚く回向したことで成仏し、去って行きます。時代に翻弄される庶民の目線で語られる能楽です。夢幻能を生み出した世阿弥の作品の一つの特徴が、弱者や敗者の立場から語られる物語です。世阿弥は、体制批判を行い、革命を目指していたわけではありません。その狙うところは、無常観をいかに美しく表現するか、ということだったのでしょう。無常観は仏法による救済にもつながります。

世阿弥のパトロンも観客も武士が主体でした。戦乱がうち続く世にあって、武家は、常に死を意識して生きなければならなかったものと思われます。さらに末法思想が色濃く残る時代でもありました。平安貴族の”もののあわれ”もさることながら、武家社会における無常観が、日本の文化の根底として形を成していった時代とも言えそうです。世阿弥は、平家物語を題材とする作品を多く残しています。”祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり”と始まる平家物語は、無常観を語る文学です。「藤戸」は、滅び行く平氏がシテではありませんし、世阿弥の代表作というわけでもありません。ただ、時代の犠牲となった弱者の目線で語られること、回向によって救われるあたりが、実に世阿弥らしい作品だと思います。

京都の伏見にある醍醐寺は、秀吉が豪華絢爛たる“醍醐の花見”を行ったという桜の名所です。多くの国宝を有する醍醐寺ですが、その塔頭である三宝院の庭園も、国の特別史跡・特別名勝の指定を受けています。庭園の中央に配された池の正面には天下の名石とされる「藤戸岩」が置かれています。もともとは藤戸の海にあって、干満にかかわらず頭を出していることから浮洲岩とよばれていたようです。佐々木盛綱は、これを目印に渡海したと言われ、また殺した漁師を岩の下に埋めたとも言われます。将軍足利義満がこれを気に入り、金閣寺へ移します。その後、細川管領家の庭へ、信長が二条城へ、秀吉が聚楽第へと移します。江戸期に入って、現在の三宝院に置かれることになったようです。(写真出典:daigoji.or.jp)

2024年7月7日日曜日

アンド-

ルーカスフィルムが、ウォルト・ディズニー・カンパニーに買収されたのは2012年のことでした。資金力と技術力の高さを背景に、ディズニーは「スター・ウォーズ・シリーズ」をリブートします。前作から10年振りの公開となった「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(2015)を皮切りに、スター・ウォーズ全9話を完結させるとともに、実写とアニメのスピンオフ作品を次々と公開しています。「ローグ・ワン」(2016)と「ハン・ソロ」(2018)は劇場公開されましたが、他はTVシリーズとして制作され、2019年からはDisney+(ディズニー・プラス)で配信されています。今回、ケーブルTVの契約見直しに伴い、3ヶ月間無料という特典が提供されたので、ついにDisney+に加入しました。 

無料期間中に見たいものを全部見て解約するつもりでしたが、どうも止められそうにありません。理由は「Shōgun」とスター・ウォーズの「Andor」の2nd、3rdシーズンを見逃せないと思ったからです。「Andor(邦題:キャシアン・アンドー)」は、2022年に配信開始されました。「ローグ・ワン」の主人公であったキャプテン・アンドーが反乱軍に加わるまでが描かれます。ちなみに、「ローグ・ワン」では、キャプテン・アンドーとジン・アーソが、銀河帝国の究極兵器デス・スターの設計図を、命をかけて盗むまでが描かれています。その設計図に基づき、反乱軍がデス・スターを破壊するのが、スター・ウォーズの記念すべき第1作「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」(1977)のストーリーでした。

さて、その「Andor」ですが、スピン・オフのレベルを超えた秀作だと思いました。アンドーは、遺棄された辺境惑星で原始的な暮らしを営む一族に産まれます。墜落船の事故現場での騒動から救出された少年アンドーは、惑星フェリックスで養母マーヴァに育てられます。腕っこきの泥棒に育ったアンドーですが、傭兵として抵抗勢力の作戦に参加せざるを得ない状況になります。シニカルな一匹狼アンドーは、帝国打倒に燃える抵抗運動家たちに批判的でした。本作では、そのアンドーが、自らの意志で運動に加わるまでが丁寧に描かれていきます。スター・ウォーズ本編9作は、父と子、ジェダイとダークサイドとの葛藤の物語です。そして、背景に置かれたのは、乗っ取られた共和国と乗っ取った銀河帝国の戦いという構図です。

本シリーズは、初期段階における両サイドの現場の姿を、ある意味、等しく描いているとも言えます。徐々に独裁化を進める帝国のもと、共和国派は分断され、バラバラに地下活動を展開しています。第二次大戦時のナチスに対するレジスタンス活動を思わせるものがあり、なかなかスリリングです。また、本編9話のなかでは、ダースベイダーを例外として、帝国サイドはシンプルに漫画的な悪者として描かれ、個々人やその人間模様が物語られることは決してありません。あえて、そこにも焦点を当てていることが、本シリーズの大きな特徴だとも言えます。そうした重層的な構造が、うねりのある展開を生み、面白い作品になったものと思います。ただ、伏線回収はまだまだであり、次のシーズンが待たれるところです。

スター・ウォーズは、比較神話学に基づきしっかり構成されたサーガであることに加え、ウェザリングされた宇宙船・兵器・機器類、多種多様な異星人、壮大な景観等々、創造的な世界観でも我々を魅了してきました。その世界観を保ったまま、サーガを拡張展開していくことには、無限の可能性がある思います。これほどスピンオフ制作に適したコンテンツもないのではないかとさえ思います。それだけに、個々のスピンオフは、本編9作のサーガにリンクしながらも、それに頼りすぎることのない独自の構成と展開を持つ必要があります。そういう意味において、「Andor」は、実によくできたシリーズだと思います。(写真出典:imdb.com)

2024年7月5日金曜日

出羽三山

出羽三山とは、山形県中央部にある羽黒山、月山、湯殿山の総称です。古くから信仰の山として知られますが、特に修験道との関わりが深く、奈良県の大峰山、福岡県の英彦山と並んで日本三大修験道場の一つとされています。出羽三山は、6世紀末、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子によって開山されました。父崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子の追っ手から逃げた皇子は、丹後国由良(現宮津市)から船を出し、出羽国の由良海岸(現鶴岡市)に上陸します。由良という地名は、船出した由良にちなんで皇子が命名したとされています。羽の黒い三本足の鳥に導かれて羽黒山に登った皇子は、出羽権現を感得し、出羽三山を開きます。出羽神社境内には、皇子の墓があり、現在も宮内庁管理となっています。

三山の祭神は、出羽神社が伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現)、月山神社が月読命(月山権現)、湯殿神社が大山祇神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現)となっています。興味深いのは月山の月読命(ツクヨミ)だと思います。ツクヨミは、天照大御神(アマテラス)の弟であり、建速須佐之男命(スサノオ)の兄とされ、月の神、あるいは夜を司る神とされます。つまり、アマテラスを祀る伊勢神宮と対を成すという見立てができます。三山を巡る修行は「三関三渡」と呼ばれ、羽黒山が現在、月山が過去あるいは死、総奥の院とも呼ばれる湯殿山が未来を象徴し、生まれ変わりの山とも呼ばれます。過去・現在・未来ではなく、現在・過去・未来という順番が、我々の感覚とは異なっており、興味深いところです。

しかし、私が最も興味をそそられるのは、なぜ出羽三山が修験道の聖地になった、あるいは聖地とされたのかということです。山国日本には、もっと険しい、もっと霊気を感じさせる山も多くあるように思います。勝手な想像ですが、出羽三山の成立は、大和朝廷による蝦夷征討と深く関わっているのではないかと考えます。7世紀中葉に築かれた渟足柵を北進させて出羽柵を庄内に置いたのは8世紀初頭です。しかし、わずか20数年後、出羽柵は、現秋田城址へと移転します。同時期、仙台平野北部には多賀城が築かれています。秋田城が、東北深部へといきなり突出した形なったのは、庄内平野から秋田平野までの日本海側に開けた平野部がなかったからではないかと想像します。内陸に広がる横手盆地へも、秋田平野から雄物川に沿ってアクセスできます。

いずれにせよ、庄内平野に城柵を置く必要がなくなったという判断がなされたわけです。その判断の背景に何があったのかは不明ですが、ひょっとすると修験者を使って出羽三山を抑えたことが理由の一つになのかもしれないと思うわけです。修験道は、日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた神仏習合の産物とされます。しかし、修験道の起源に関してはよく分かっていません。飛鳥時代に役小角が創始したともされますが、役小角の実在性も疑問視されています。蝦夷征討が進むとともに、朝廷は修験者を東北に送り込み、土着の神社仏閣を天孫家の信仰体系に組み込んでいったという説もあります。北関東以北の多くの神社仏閣の創建が大同二年(807年)であることはよく知られています。それ以前から存在していたことが明確でも等しく大同二年創建となっています。

いわゆる「大同二年の謎」です。その背景に修験者の暗躍があったという説は頷けるものがあります。国家鎮守を旨とする南都仏教の時代にあって、朝廷と修験道の結びつきは容易に想像できます。ちなみに、私の祖父は古い神官の家系からの入り婿でした。祖父の実家は、平安期に都から東北に送り込まれた修験者の末裔だとする岩手大学の研究結果があります。事の真偽は不明ながら、修験者が蝦夷東征、続く陸奥経営の陰で暗躍していたであろうことことは想像できます。今般、初めて出羽三山を訪れました。ただ、大雨のため、羽黒山の三神合祭殿と国宝五重塔をお参りし、修験者の宿である羽黒山斎館で精進料理をいただいただけで退散しました。またの機会に、三関三渡に挑戦してみたいと思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年7月3日水曜日

最上川

今般、久しぶりに最上川の雄大な流れを見てきました。初めて最上川を見たのは、東日本大震災直後のことでした。被災地を訪問した際、東京への帰路として庄内空港を使いました。被害が比較的少なかった庄内空港は、震災翌日から運行を再開していました。チャーターしたLPGタクシーで三陸方面から庄内空港を目指したのですが、その際、初めて見る最上川の雄大さに感動しました。最上川は、日本三大急流の一つとされ、同一県内のみを流れる河川としては日本一の長さを誇る大河です。最上川は、県の最南端にある吾妻連峰を源流とします。南から北へと流れ、米沢盆地、山形盆地を通り、尾花沢盆地で出羽三山を回り込むように西に向かい、新庄盆地から庄内平野、そして日本海へと注ぎます。山形県の形は、最上川の流れに沿っているとも言えます。

山形県の平野部は、ほぼ全て最上川によって作られた扇状地です。最上川流域では、幾度も峡谷と平野部が繰り返されます。これは、かなり珍しいことなのだろうと思います。水量豊富な急流ならではの現象なのでしょう。峡谷を通ることで、川は養分を再補充し、豊かな平野部が次々と形成されます。山形の米、果樹、畜産、あるいは酒や蕎麦も、最上川がもたらす恵みなのでしょう。山形県内で、最上川は「母なる川」と呼ばれているようですが、母どころか山形県そのものであり、県名も最上が妥当ではないかとさえ思います。山形県は、山形市が中心の村山地方、酒田・鶴岡中心の庄内地方、米沢中心の置賜地方、新庄市中心の最上地方と4つの地域で構成されます。幕末には、4つの地域に9つの藩が存在しました。

さほど広くもない地域に、多数の藩が並立したのは、山がちな土地柄であること、そして一方では平野部が豊かな穀倉地帯であった証拠です。最上川流域での稲作は、紀元前4~3世紀には行われていたようです。8世紀初頭には、半世紀前に作られた新潟市の渟足柵を北進させる形で出羽柵が庄内地方に置かれています。ただ、庄内の出羽柵は、ごく短期間で秋田城址へと移転されています。その後、最上川は、豊かな農産品を運搬する舟運が大いに栄えていきます。律令時代にあっては、極めて希な水駅が最上川沿いに4ヶ所設置されています。江戸期、酒田は大阪や江戸への米の積出港として名を馳せることになります。自治都市でもあった酒田には、有力な船問屋や豪商が現れ、栄華を極めます。

なかでも、戦前まで日本一の地主として知られた本間家は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と庄内地方の俗謡に歌われるほどでした。本間家は、進駐軍による官制革命とも言える農地改革によって、ほぼ全ての土地を失い没落します。ちなみに、ゴルフ・クラブ・メーカーの本間ゴルフは、本間家の庶流が創業しています。明治期になり、川舟の航行が自由化されると、最上川の舟運はさらに盛んになったようです。ただ、20世紀に入ると道路や鉄路の開発が進み、最上川の大動脈としての機能は失われていくことになります。また、最盛期の酒田には、豪商たちの財力を背景に上方文化が持ち込まれ、大いに花開いたものだそうです。酒田市内には、その残り香を見ることができます。

「五月雨を あつめて早し 最上川」は、松尾芭蕉の奥の細道に掲載された句です。個人的には、いかなる文学よりも、いかなる絵画よりも、最上川の風情を最もよく伝える傑作だと思っています。芭蕉は、全行程150日のうち約40日を山形での滞在にあて、山寺に足を伸ばし、月山に登り、最上川を下り、鳥海山を回って秋田の象潟へと向かっています。また、正岡子規も、2年間に渡って、県北東部の大石田に滞在しています。「草枕 夢路かさねて 最上川 行くへも知らず 秋立ちにけり」も傑作だと思います。大石田は、最上川水運で栄えた町であり、西に出羽三山を望む町です。多くの文人や画人を惹きつけた山形ですが、その魅力の源泉は最上川と出羽三山が生み出す景観にあることを、改めて知らされた旅でした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年7月1日月曜日

インスト・ロック

荒く処理された画面にLAのヒスパニック地区が映し出され、遠くの空を飛ぶ旅客機が見えます。そこに往年の大ヒット曲「スリープ・ウォーク」が流れます。1959年、17歳で夭折したリッチー・ヴァレンスの伝記映画「ラ・バンバ」(1987)のオープニング・シーンです。チカーノ初のロック・スターは、飛行機事故で亡くなっています。リッチー・ヴァレンスの短い生涯を象徴する印象的な映像でした。とりわけ「スリープ・ウォーク」という選曲が見事だったと思います。「スリープ・ウォーク」を演奏するサント&ジョニーは、NY出身のイタリア系兄弟によるインストゥルメンタル・デュオです。この名曲に限らず、50年代後半から60年代前半までは、ロック・インストゥルメンタル・バンドが多くのヒットを飛ばした時期でした。

インスト・ロック最初のヒット曲とされるのは、R&Bのキーボード奏者ビル・ドゲットの「ホンキー・トンク」です。以降、多くのバンドが多くのヒットを飛ばします。耳に残る曲と言えば、「スリープ・ウォーク」以外にも、ジョニー・アンド・ザ・ハリケーンズの「レッド・リバー・ロック」、チャンプスの「テキーラ」、デュアン・エディの「レベル・ラウザー」、ファイヤー・ボールズの「ブルドッグ」、ザ・シャドウーズの「アパッチ」、ベンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」、ブッカーT&ザ・MG'sの「グリーン・オニオン」、ロニー・マックの「メンフィス」等々があります。サーフ・ミュージックのディック・デイルの「ミザルー」は、タランティーノ監督の「パルプフィクション」のテーマ曲としても有名です。

いずれの曲も、私にとっては同時代の音楽ではありません。何曲かは耳に残っていたかも知れませんが、いわゆるオールディーズとして聴いたものばかりです。ただ、ベンチャーズ、ブッカーT、あるいはMG'sのスティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダン等のライブには行ったことがあります。MG'sの「タイム・イズ・タイト」は大好きな曲です。不思議だと思うのは、1960年代半ば、突然、インスト・ロックが勢いを失ったことです。その後もインストゥルメンタル・グループが消えたわけではありませんが、少なくとインスト・ロックのブームは去ったと言えます。インスト・ロックは、60年代半ばに訪れたブリティッシュ・インヴェイジョン(英国の侵略)に押されて消えたという説がもっぱらです。要は、ビートルズに殺されたわけです。

英国のロックは、50年代後半、R&Bやジャズに影響された若者たちの間から自然発生的に生まれます。同じ頃に発生したモッズやロッカーズといった風俗と同様、労働者階級の若者たちの間から生まれます。厳しい階級社会にあって、多少経済的な余裕の生まれた労働者階級の若者たちが旧体制に反旗を翻したというのが、その本質的性格でした。米国で生まれたロックンロールは、黒人音楽を白人の若者が演奏するというカウンター・カルチャー的要素を持っていたわけですが、階級差別の激しい英国では、その傾向がより先鋭的になって現れます。英国のロックが米国を侵略する契機となったのが、ビートルズでした。英国で起こっていたビートルマニア現象がTVで報道されたことがきっかけだったとされます。

英国音楽がブームになると、インスト・ロックはラジオから閉め出されていきます。ラジオを起点にブームを起こしたインスト・ロックは行き場を失ったわけです。確かにそれが事実なのでしょうが、勢いを増しつつあったカウンター・カルチャーに押し出されたというのが真実だと思います。50年代的なあっけらかんとした明るさを持つインスト・ロックは過去のものとなり、旧世代にNOを叩きつける英国のロックが支持されたわけです。つまり、インスト・ロックは時代の変化を捉えることができなかったということです。その理由の一つは、皮肉にも、歌詞を持っていなかったことなのではないでしょうか。つまり、インスト・ロックは、若者の思いを代弁できなかったわけです。例えば、ローリング・ストーンズの「Paint it Black」がインスト曲だったとしたら、全米No.1ヒットにはなっていなかったと思います。(写真出典:en.wikipadia.org)

「新世紀ロマンティクス」