個人ではなく、社会や集団のために行ったとする犯罪であっても、他者を害する以上は、身勝手と言わざるを得ません。犯罪が身勝手な行為であることが明白にも関わらず、なぜ、裁判官は「身勝手な犯罪」という言葉を使うのでしょうか。裁判官にとって、「身勝手な犯罪」という言葉は、明らかに重い言葉であり、被告を厳しく非難しています。裁判官は、故意か否かをも含めた事実に基づき、法に則って犯罪を裁き、罰を確定します。しかし、あえて身勝手かどうかに言及するのは、情状酌量の余地があるかないかに関わる問題だからなのでしょう。ただ、それでも、なぜ「身勝手」と言う言葉が選択されているのか、不思議に思います。他にも相応な言葉があるように思います。
例えば、判断の入る言葉にはなりますが、冷酷、残忍、あるいは人を人とも思わない、他者の迷惑を顧みない等といった言葉でもいいように思います。やはり、集団依存的な日本社会にとって、身勝手であることは、社会の存続装置を脅かしかねない巨悪だということなのでしょう。個人主義と集団主義という議論は、なかなかに難しい議論です。個人レベルで考えれば、集団での狩りや農耕が始まって以来、人間は、個人と組織という対立する概念に悩んできました。国や地域単位で見れば、社会がその葛藤にどのように向き合うかは区々です。欧米は、個人・組織共立的であり、日本は組織依存的と言えます。永く続いた農村の自治的傾向の産物とも考えます。欧米に比べ、日本はアウトサイダーが生きにくい国だと思われます。社会的な死刑宣告にも等しい村八分という農村文化が根強く残り、それが犯罪の抑止力にもなっている面もあります。
日本の犯罪発生率が低いのは、国民が道徳的だからでも、教育が行き届いているからでも、刑法が厳しいからでも、警察が優秀だからでもありません。ただただ組織依存色の強い社会だからなのだと思います。都道府県別の人口当たり犯罪発生率を見ると、大阪が不動の1位であり、大都市およびその近郊が上位を占めています。一方、下位を見ると、大都市圏を持たず、広範な農村地帯を抱える県が多い傾向が顕著です。人口の多少が関係している面もあるのでしょうが、村社会の伝統が温存されていることが大きな要因なのだと思います。かつて、都市部にも、町内会や隣組といった村落共同体の都市版に近いものが存在していました。ただ、マンションの増加が、そうしたコミュニティを破壊していったものと思われます。
外国人の居住が増えれば、犯罪も増加するという懸念があります。恐らくそのとおりでしょう。また、組織依存的な社会は、相互監視社会でもあります。近年、匿名性の高いSNSが普及したことで、犯罪が増加、あるいは変質していくことも考えられます。既に、その兆候は、詐欺罪の傾向に現れているとも言えます。コロナ禍で低下していた刑法犯罪の発生率が、足下では増加しているようです。単にコロナ前に戻るだけでは済まないように思います。また、犯罪検挙率は下がり続けているようですが、それが犯罪を巡る状況の変化を象徴しているようにも思えます。恐らく、近年の貧富の差の拡大と固定化も、徐々に犯罪の発生率に影響を及ぼしていくことになるのでしょう。(写真出典:tenki.jp)