2025年5月31日土曜日

出稼ぎ

古代から農村は自給自足が基本でした。ただ、生活必需品のなかには製造に技術を要するものもあり、村に職人が生まれます。それでも足りないものがあれば、交易によって入手することになります。海の民は魚介類を、山の民は木材や皮革等を農村にもたらします。貨幣のない時代、それらは米と交換されます。山の民が農村に持ち込むものがない季節には、乞食をするか、自らの労働力を提供して米を得ることになります。これが出稼ぎの起源なのでしょう。出稼ぎとは、一定期間に限り、生活の拠点を離れて労働し、また戻ることです。出稼ぎは、自給体制の脆弱さによって起こりますが、同時に短期労働の需要があるから成立します。都市部が形成され、貨幣経済が浸透すると、農村部、特に雪深い地域からの出稼ぎが広がっていきます。 

日本の高度成長を支えたのは出稼ぎだとも言われます。高度成長は、農村の余剰労働力を、集団就職などによって工場に移転します。いわゆる産業転換です。さらに経済成長の基盤となるインフラ整備も加速し、ここには農村からの出稼ぎ労働力が投入されていきます。日本の経済発展は、農村部の労働力によって実現したとも言えるわけです。家族を故郷に残し、数ヶ月間、建設現場で暮らす生活は過酷なもので、高度成長の歪みとも言われました。田中角栄の列島改造論が、出稼ぎしなくてもよい日本を目指したことはよく知られています。1972年には約55万人だった出稼ぎ労働者は、2010年には1.5万人まで減っています。需要が減ったのではなく、供給元の農家が激減し、兼業化が進んだからだと思います。産業転換の最終段階と言えるかもしれません。

農村からの出稼ぎ労働者の穴を埋めたのが外国人労働力だったのでしょう。各国の国外への出稼ぎは、コロナ禍で減少したものの、再び増加に転じ、過去最高を更新中と聞きます。出稼ぎ大国として知られるのがフィリピンです。1979年、トランジットでマニラ国際空港に寄った際、同じTシャツと野球帽を身につけた男たち数十人が乗ってきました。兵隊でもないし、スポーツ・チームにも見えません。聞けば、中東への出稼ぎでした。フィリピンの出稼ぎ労働者は、2023年時点で215万人を超え、出稼ぎ労働者の仕送りはGDPの10%を超えるとされます。出稼ぎが多い背景には、フィリピンの経済基盤の不安定さに加え、公用語がタガログ語(フィリピン語)と英語であることが挙げられます。英語が通じる労働力は、受入国にとって好都合でニーズが高いわけです。

フィリピン、バングラデシュ、パキスタンが海外への出稼ぎが多い上位3ヶ国となっています。40年ほど前、イスタンブールからカラチへのフライトで、出稼ぎ先のリビアから帰る大勢のパキスタン人と一緒になったことがあります。皆、金持ちになって帰郷するのでウキウキ状態。数人から免税店で買った英国の高級タバコを頂きました。当時の機内は喫煙可で、かつ人にタバコを勧めるのは礼儀でした。聞けば、2年間リビアで働き、そこで得た金をもとに、家を建てる、車を買ってタクシーを始める、ハッジ(マッカ巡礼)に出かける等々、夢を語っていました。今も、3ヶ国の出稼ぎ先の多くは、サウジアラビアはじめ中東の産油国になっているようです。パキスタンの場合、ウルドゥー語がアラビア語に近いことも中東への出稼ぎが多い理由なのでしょう。

経済格差がある限り、出稼ぎは無くならないと思います。加えて、先進国の少子高齢化が進むなかでは、さらに拡大することも考えられます。農業革命は人と土地を固く結びつけたわけですが、産業革命がその関係を断ち切ったとも言えます。さらにグローバル化という観点からすれば、労働力にも国境がなくなりつつあるということかもしれません。一方で、出稼ぎが、ややもすれば奴隷的な労働になり、差別意識の温床にもなっているという現状もあります。日本の技能実習制度も国連や海外から批判され、2027年を目処に新たな制度としての「育成就労」が始まることになっています。他方、いち早く移民政策を進めた欧州でも、移民の国アメリカですらも、外国人労働者への圧力が高まっています。グローバル化を前提とすれば、海外からの労働力をいかに制約・制限するかではなく、いかに労働力の国際化に対応するかという取組が求められると考えます。(写真出典:koreatimes.co.kr)

2025年5月29日木曜日

「ミッション・インポシブル/ファイナル・レコニング」

監督:クリストファー・マッカリー    2025年アメリカ

☆☆☆

 一言で言うなら、超一流の暇つぶし といったところだと思います。ハラハラドキドキのアクション・シーン、長尺が苦にならないほどの良いテンポ、予算を惜しまない豪華なセットや小道具、お馴染みの音楽の上出来なアレンジ、オーラの衰えは隠せないもののトム・クルーズの魅力も健在です。歴代ベスト5に入るという予算をかけて、超一流のスタッフが結集して作った映画は、さすがというレベルだと思います。ただ、あくまでもアクションが売りであり、ドラマというドラマが展開されるわけでもなく、過去の作品のダイジェストのようなシーンも多く、やはり一級の暇つぶしだと思うわけです。ま、そもそも映画は暇つぶしだろ、と言われれば、否定しがたいところではありますが。

ほぼ代役なしでトム・クルーズが演じるアクション・シーンは、シリーズの売りの一つです。マーベルのCGを多用したアクションが幅を利かす時代にあって、実写アクションはCGを超えるほどのアイデアが必要になります。結果、本シリーズやジョン・ウィック・シリーズのアクション・シーンは、実に見応えのあるものになっています。今回の深海、空中という設定自体は目新しいものではありませんが、練り上げられたアクションはなかなかのものです。マーベルの逆張りと言えば、ロスト・ブレット・シリーズのカー・スタントも見事なものです。フランスの生アクションは、世界最高レベルにあると思います。ただ、映画としては、どうしてもアクション・シーン中心となり、ドラマ性に欠けるきらいがあります。本作も同様と言えます。

本シリーズの原案はTVシリーズ「ミッション・インポシブル(邦題:スパイ大作戦)」です。日本では、1967~1973年にかけて、全171話が放送されました。007人気を背景に生まれたシリーズですが、実行不可能と思われる作戦を次々とこなしていく痛快さで大人気となりました。当時としては、TVの枠を大きく超えた番組だったと思います。ラロ・シフリンの音楽や冒頭の定番「おはよう、フェルプス君」などは大流行したものです。ピーター・グレイブス、マーティン・ランドー等が大いに名前を売りました。後にスタートレックのスポック博士役で知られることになるレナード・ニモイも忘れてはいけません。設定、奇抜なアイデア、音楽、そしてチーム・プレイがTVシリーズの魅力だったのでしょうが、トム・クルーズ版も、そこは継承しています。

シリーズ8作目となる本作は、回想シーン、冗漫なラスト、意味深なタイトルからして、これがシリーズ最終作品なのではないかと思えます。そもそも本作は、前作「ミッション・インポシブル/デッドレコニング PART ONE」(2023)の後編であり、Part Twoとすべきところですが、わざわざ”ファイナル”という言葉を入れてきたには訳があるものと思います。ただ、正式なコメントはありません。名物とも言えるトム・クルーズの生アクションについては、アイデアも体力もそろそろ限界だと思います。人気シリーズだけに、プロダクション・サイドとしては、フレームを残したいはずです。ひょっとすると、終了するか、CGを使ってトム・クルーズで続行するか、あるいは別な役者を立てるか、意見がまとまっていないのかもしれません。

登場するだけでスクリーンが映画らしくなる俳優がいるものです。トム・クルーズもその一人だと思います。若くして名が知られ、「トップガン」(1986)で、一躍、世界的大スターとなったのが弱冠25歳のときです。以来、評価や興業成績は様々だとしても、常に話題作に出演してきました。それも単純な娯楽作品ばかりではなく、著名な監督とのコンビも多々あります。こういう俳優も希有な存在だと思います。また、失読症をカルト的な新興宗教サイエントロジーに出会ったことで克服したという話も有名です。以来、トム・クルーズは、サイエントロジーの広告塔として機能している面もあります。本作に登場する見えない敵である”Entity”は、どこかサイエントロジーの宿敵ジヌーを思わせるところがあり、多少の気持ち悪さを感じました。考えすぎなのでしょうが・・・。(写真出典:eiga.com)

2025年5月27日火曜日

半身揚げ

小樽を代表するグルメと言えば、寿司ということになるのでしょう。20軒ほどの寿司屋が軒を並べる寿司屋通りは観光スポットになっています。細工を施す江戸前とは異なり、鮮度だけで勝負する北海道の寿司は、多少の珍しさもあって人気なのでしょう。観光客目線で言えば、小樽名物は寿司となるわけですが、地元目線、いわゆるソウルフードとなるとやや異なります。文化庁の”100年フード”には、小樽から”小樽あんかけ焼そば” が認定されています。確かにそのとおりなのでしょうが、小樽のソウルフードのナンバー・ワンは、「なると」の”若鶏半身揚げ”だと思います。ともに昭和30年代から知られるようになった料理ですが、若鶏半身揚げは、なるとだけで提供されているので、100年フードには認定されていないのだと思います。

なるとの若鶏半身揚げは、北海道産の若鶏の半身に塩をして揚げただけの料理です。塩分がややきつめですが、香ばしさと相まって、なるとの魅力となっています。もともと鶏肉には塩味がよく合うものですが、寒い港町の労働者には、なお濃い塩気が必要だったのでしょう。似たような料理としては、旭川の”新子焼き”が100年フードに認定されています。こちらは、若鶏の半身にタレを付けて焼いたものです。戦後まもなくから旭川のソウルフードとして親しまれているようです。新子とは、もともとコノシロの幼魚のことであり、若鶏を意味しています。宇都宮にも、隠れたソウルフードとして”かぶと揚げ”があります。こちらは、もも以外の半身に衣を付けて揚げたものです。見た目が兜に似ていることからかぶと揚げと呼ばれます。

信州松本の“山賊焼”も有名ですが、これは半身ではなくもも肉をニンニクを効かせた醤油タレに漬け込み、片栗粉を付けて揚げたものです。焼きと言いながら揚げ物です。同様なレシピで揚げずに焼いているのが、岩国のいろり山賊名物の”山賊焼”です。こちらは骨付きのもも肉を使います。いろり山賊の前身は、広島の居酒屋であり、その時代から名物メニューだったようです。もも焼き系では、丸亀発祥の”骨付鶏”も魅力的です。数ある山賊焼系では、最もニンニクを効かせた代物だと思います。そのパンチ力がクセになります。話をもも焼き系にまで広げれば、フライド・チキン、ロースト・チキンはじめ、世界中に似たような料理が数多く存在するものと思われますが、半身揚げ、半身焼きとなれば、なかなか無いように思えます。

なるとの若鶏半身揚げは、シンプルで、誠に潔の良い食べ物だと思います。鶏肉の新鮮さと揚げ方の腕前だけで勝負しています。半身を素揚げするメリットは、豪快さや食べ応えなのでしょうが、旨味を上手に閉じ込める効果も大きいように思います。デメリットとしては、揚げ時間が長くなることと揚げムラが生じる恐れがあることなのでしょう。なるとの場合、胸の部分に包丁を入れてありますが、見事に均一な揚げあがりになっています。それが伝統の技なのでしょう。なるとの本店は「若鶏時代なると本店」ですが、他にも同じ経営者の「なると屋」、創業者の孫が経営する「なるとキッチン」があります。なるとキッチンは、関東にも進出していますが、鶏肉も揚げ方も多少異なる印象があります。やはり、若鶏半身揚げを楽しむなら本店が良いと思います。

小樽は、古い歴史を持つ港街ですが、かつてはニシン漁の拠点、石炭の積出港、樺太航路の発着港でもあり、まさに北海道経済の中心地でした。札幌にその座を明け渡してから、しばらく低迷していましたが、いまや北海道を代表する観光地になっています。かつての小樽の栄華を偲ばせるものの一つが甘味だと思っています。新倉屋はじめ餅文化もあり、ぱんじゅうなる珍品もありますが、注目すべきは洋菓子だと思います。クリームぜんざいの”あまとう”、道内で初めてソフトクリームを商った”アイスクリームパーラー美園”、再建された名喫茶店”館”、残念ながら閉店した小樽式モンブランの”米華堂”などの老舗が、港街らしいユニークな洋菓子文化を築いていました。洋菓子も若鶏半身揚げも、かつての小樽の繁栄を彷彿とさせる本当のソウルフードだと思います。(写真出典:naruto-ya.com)

2025年5月25日日曜日

「ノスフェラトゥ」

監督:ロバート・エガース      2024年アメリカ

☆☆☆

ロバート・エガース監督の長編4作目となる本作は、1922年に発表されたF・W・ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイク作品です。エガースは、デビュー作となった”ウィッチ”はじめ、”ライトハウス”、”ノースマン”と全ての作品で高い評価を受けてきました。エガースは、少年時代から吸血鬼に興味を持ち、本作のアイデアも長く温めてきたようです。随所にエガースらしい完成度の高さを見せてくれますが、思い入れが強すぎたのか、ディテールにこだわりすぎ、詰め込みすぎて、結果、冗漫な仕上がりになっています。プロットの整理の仕方、絵画的とも言える映像など見るべきところが多いだけに残念ではあります。ちなみに、映像にはフェルメールを意識したようなショットもありました。

吸血鬼と言えば、1897年に出版されたブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が最もよく知られています。しかし、吸血鬼は、ストーカーが創造した怪物ではなく、かなり古くから欧州各地に分布する民間伝承であり、かつストーカーは18世紀頃から多く出版された読み物も参考にしているようです。欧州に限らず、類似した伝承は世界中にあるようですが、日本にだけはありません。その理由は、土葬と火葬の違いだとされます。日本の火葬の歴史は古く、特に仏教伝来以降は上部社会に定着していたようです。ただ、農民や庶民は、明治になって禁止されるまで安上がりな土葬を行っていました。いずれにしても、埋葬の違いからか、欧州等では肉体と魂は一体であり、日本では別物という思想が育ち、吸血鬼と幽霊の違いになったのでしょう。

ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」は、当時の英国の流行を反映して、国を跨いだ冒険小説の風情を持っています。ドイツ表現主義映画をリードしたF・W・ムルナウは、それをゴシック・ホラーの傑作「吸血鬼ノスフェラトゥ」へと昇華させます。しかし、ムルナウは、ドラキュラの著作権に関する許諾が得られず、タイトル、プロット、役名、舞台に変更を加えて製作します。ノスフェラトゥという言葉は、ルーマニア語の不快な者という言葉を元にした造語です。翻案したにもかかわらず、著作権侵害で訴えられたノスフェラトゥはお蔵入りとなります。1960年代に至り、著作権が切れると復元上映され、大きな反響を呼びます。ノスフェラトゥをドイツ映画の最高傑作とするヴェルナー・ヘルツォークが、1978年、リメイクして高い評価を得ています。

ヘルツォーク版は、自然主義的演出のなかに詩情がにじむ傑作だったと思います。以降、吸血鬼映画には、死ねないドラキュラの憂鬱と孤独を描くメランコリックな系統が生まれたように思います。本作は、吸血鬼を新たな視点から描いたといった作品ではありません。むしろ、吸血鬼の原点に回帰した作品だと思います。ムルナウのドイツ表現主義なエッジを取り除き、ゴシック・ホラー・テイストを現代的に表現した作品なのでしょう。ある意味、伯爵の怪物ぶりは潔いとも言えます。若くしてヒットメーカーになった監督は、プロダクション側から一定のフリーハンドを獲得し、好きな映画を好きに撮るという流れがあります。その際、肩に力が入りすぎて、観客が置き去りにされることも珍しくありません。本作にも、多少、その傾向を感じます。

吸血鬼ものは、B級映画の大定番の一つです。吸血鬼と言えば、クリストファー・リーのドラキュラとピーター・カッシングのヴァン・ヘルシング博士を思い出します。最もよく知られたコンビだと思います。クリストファー・リーがドラキュラ以外の役をやっても、口を開くと、牙が出てくるような気がしたものです。ちなみに、この二人は、スター・ウォーズにも出演しています。また、一方で、吸血鬼は、ヘルツォークはじめ、ポランスキー、コッポラ、ジャームッシュ等々、著名な監督をも魅了してきたテーマです。吸血鬼の人気が絶えないことは、興味深い現象だと思います。ホラーとメランコリック、いずれの流れにおいても、人類にとって普遍的な謎である死を吸血鬼が象徴しているからなのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2025年5月23日金曜日

赤十字

昔、友人たちと赤十字の話をしている際、あのマークの由来は何だろうということになりました。一人が、真剣に、あれは絆創膏の絵ではないか、というので、皆、大笑いしました。確かに、そう見えないこともありません。実際には、赤十字社の創立者であるスイスの実業家アンリ・デュナンが、スイス国旗に敬意を表して定めたものです。赤十字社の基となった赤十字国際委員会は、1863年、ジュネーブにおいて発足しています。アンリ・デュナンは、1828年、カルヴァン派を信仰するジュネーブの旧家に生まれています。長じて銀行員となりますが、熱心なキリスト教徒としても活動します。当時、ロンドンで創設されたキリスト教青年会(YMCA)に共鳴し、デュナンはジュネーブYMCAを設立しています。

銀行から派遣されたアルジェリアで民衆の悲惨な現状を目の当たりにしたデュナンは、、銀行を退職してアルジェリアの民衆を支援する事業を興すことになります。事業への協力を得るために、デュナンは、イタリアへ遠征中だったナポレオン3世に会いにでかけます。そこで遭遇したのがソルフェリーノの戦いでした。ナポレオン3世のフランス帝国軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦いました。オーストリア軍の失策に乗じたフランス・サルデーニャ連合軍が、短期間で勝利しますが、双方に多大な犠牲者を出すことになります。居ても立ってもいられなくなったデュナンは、地元の地元の女性たちとともに、負傷者の救護活動にあたります。

デュナンは、その経験を「ソルフェリーノの思い出」として出版します。「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士、その尊い生命は救われなければならない」というデュナンのメッセージは大きな反響を呼び、1863年の赤十字設立へとつながります。現在の赤十字は、紛争地域を担当する赤十字国際委員会(ICRC)、非紛争地域を担当する国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)、そして192の国や地域に存在する実働部隊としての各国赤十字社・赤新月社で構成されています。イスラム諸国の赤新月社は、赤十字社とまったく同じ組織です。スイス国旗に由来する赤十字とは言え、ムスリムにとって十字は受け入れがたかったわけです。イスラエルには、未公認ながらダビデの赤盾章があり、また、革命以前のイランでは赤獅子太陽章が使われていました。

日本の赤十字は、1877年、西南戦争に際して、大給恒と佐野常民が設立した博愛社に始まります。佐野常民は、かなり興味深い人です。佐賀藩医の養子として育ち、緒方洪庵、華岡青洲、伊東玄朴に学んだ医師ですが、幕府の長崎海軍伝習所の一期生でもあり、後に帝国海軍創設にも尽力しています。1867年には、パリ万博に派遣され、創設間もない赤十字を知ることになります。西南戦争が起こると、政府に博愛社設立を願い出ますが、陸軍卿代行だった西郷従道から、逆賊まで救護することは如何なものか、と反対されます。しかし、征討総督の有栖川宮熾仁親王が、逆賊とはいえ天皇の臣民であるとして、設立を許可します。戦場にあっては、博愛の精神が理解されておらず、双方からの攻撃も受け、犠牲者も出たようです。

赤十字の活動は、ジュネーブ条約において、あらゆる攻撃から無条件で保護されるべき存在とされています。また、ジュネーブ条約では、赤十字章は、戦地の軍民の医療組織や施設で使うことも認められており、赤十字と同様に保護対象となっています。ただ、平時であっても、赤十字の許可があれば、赤十字章を使用することも認められており、救急車もその一例です。博愛の精神に基づき戦地や災害被災地で救護にあたる赤十字は、世界各国の合意のもとに活動しており、その活動を象徴する赤十字章も世界共通の認識のもと尊重されているわけです。紛争や災害が絶えることのない世界にあって、唯一、国境を超え、宗教を超えて、人間の尊厳を守っているのが赤十字だと言えます。公平、中立、独立を旨とする赤十字の活動は寄附によって成り立っています。赤十字への寄附は、人として為すべき最低限の義務ではないかとさえ思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年5月21日水曜日

ホバークラフト

かつて大分へ出張する際の楽しみのひとつは、空港・市内間を運航していたホバークラフトに乗ることでした。1990年代以降、日本でホバークラフトに乗れるのは大分だけでした。速いことは速いのですが、音がうるさく、揺れも大きく、決して快適な乗り物ではありませんでした。しかし、ホバークラフトは船舶に代わる水上交通手段という先進性があり、科学的進歩の時代を生きてきた世代には抗しがたい魅力があります。伝統的な船舶とは異なる水中翼船やジェットフォイルもありますが、水上に浮揚するというホバークラフトには未来を感じさせるワクワク感があります。残念ながら、大分空港航路は、2009年に運行中止となりました。大分空港の利用者が減り、料金の高いホバークラフトは一層厳しい状況に陥ったからでした。

大分空港は、別府湾をはさんで大分市の対岸にあり、道路が整備された現在でも、陸路では最低1時間、朝夕の渋滞時にはさらに時間がかかります。こうしたアクセスの悪さもあって、観光客の多くは、便利な福岡空港と鉄道を利用して大分入りします。ただ、近年、大分空港の利用者も増加傾向にあることから、2020年、大分県はホバークラフト復活を発表しました。高速船という選択肢もあったと思いますが、導入経費が安く、導入期間も短いホバークラフトが選択されたわけです。県がホバークラフトと地上設備を所有し、運営は民間企業が行うという方式で2023年運行開始が目指されました。英国から新造ホバークラフト3台を購入し、船名も決定しましたが、就航計画は遅れ、2024年末、ようやく試験運行も兼ねた別府湾周遊が開始されました。

就航が遅れている理由の一つは、事故が相次いだことでした。ホバークラフトは操作が難しく、習熟のための時間が必要だったようです。また、風速や波高に関する厳しい運行基準によって、定時運航率が低くなるという問題も生じました。さらに、ここに来てトイレの問題が急浮上しているようです。ホバークラフトにはトイレがありません。30分という乗船時間からすれば、分からぬでもありません。法律上も問題はなさそうですが、ホバークラフトは天候によって延着も予想されることから、議論の対象となっているようです。そもそも空港行きバスにもトイレがない車両が多いと思われますので、さほど大きな問題とは思えません。ただ、かつてと比べて高齢化が進んだ日本では、決して疎かにはできない問題になったとも言えそうです。

アクセスの良い空港と言えば、まずは福岡、次いで岩国、那覇、宮崎などが挙げられます。一方、遠い空港としては、断トツの中標津は別としても、成田、関空、熊本などと並んで大分空港の名前も挙がります。道路や鉄路の整備が進み、総じて空港へのアクセスは良くなっていると思いますが、海をまたぐ大分空港は例外的です。鉄道の利用も検討されたのでしょうが、敷設コストが膨大な額になります。空港に最も近い駅は、20km離れたJR日豊線の杵築駅だと思います。大分・杵築間の電車は、最短20分強です。杵築駅までの道路を整備し、鉄道とバスを組み合わせる方法も考えられます。ただ、乗り換えに要する手間や時間、飛行機の延着などを考えれば、除外せざるを得なかったのでしょう。やはりホバークラフトという選択に落ち着くのかもしれません。

ホバークラフトの特許は、19世紀末の英国で出願されています。しかし、理論に見合う強力なエンジンがありませんでした。20世紀になると、エンジンの進化とともに多くの試作が開始され、1930年代、ソ連が魚雷艇として実用化します。現在のホバークラフトは、1950年代の英国で軍用として誕生しました。以降、軍用、旅客用、レジャー用、大型から小型まで各種ホバークラフトが製造・運用されましたが、現在ではほぼ姿を消しています。エンジン・パワーと積載量が壁になっているのでしょう。かつてソ連では、エクラノプランという地上や水面すれすれで飛行する航空機が開発されました。高速で大量輸送可能な軍用機として、カスピ海に配備されていましたが、これも姿を消しています。思えば、人間の歴史は摩擦抵抗との戦いの歴史だったとも言えます。乗り物に関して言えば、今も、リニア・モーター・カーやチューブ・トレインへの挑戦が続いています。(写真出典:visitisleofwight.co.uk

2025年5月19日月曜日

ちゃんこ巴潟

”降る雪や  明治は遠く なりにけり”とは、俳人・中村草田男の有名な俳句です。昭和6年、まだ31歳だった中村草田男が、母校である小学校を訪れ、子供たちの服装が和装から洋装になっていることに驚き、その感慨を詠んだ句とされます。かつては、よく引き合いに出された俳句であり、子供時分にはよく耳にしたものです。俳句としての評価はよく分かりませんが、少なくとも明治生まれの人々の心情を見事に表した句だったのでしょう。近年、街から昭和が消えゆくなか、思い出される俳句でもあります。諸行無常、すべてが移り変わることは世の常と分かっているのですが、自分が過ごしてきた街が変わってゆくことは、やはり寂しいものです。

消えゆく昭和の建物としては、三宅坂の国立劇場、神田駿河台の山の上ホテル、丸の内の帝劇ビル・国際ビル、有楽町ビル、浜松町の世界貿易センター・ビルなど、例をあげればキリがありません。とりわけ1950~60年代のモダニズムを感じさせる丸の内のビル群は、子供時分の憧れでもあったので、残念だと思います。惜しまれつつ消えてゆく飲食店も多くあり、特に馴染みの店の閉店は寂しいものです。渋谷・宮益坂の人気店”澤乃井”が”コロナに負けた”という張り紙をして閉店した時はショックでした。東京で宮崎うどんが食べられる貴重な店でした。それでも、まだ江戸川橋の”はつとみ”があると思ったものですが、それも閉店しました。現役サラリーマン時代、よく通った丸の内の”伊勢廣帝劇店”、”万世麺店有楽町店”、”福津留”なども消えました。

伊勢廣帝劇店の焼鳥お重は、丸の内を代表する絶品ランチでした。建替えた京橋の本店は繁昌していますが、帝劇店の味とは微妙に異なります。昔、帝劇店で、なぜ伊勢廣の焼鳥は美味いのかと聞くと、鶏肉が新鮮だからと言っていました。それだけなら他の店も同じ味になるはずです。焼鳥は、焼き方と塩加減の加減で味が変わります。焼き手が変われば、本店と異なる味にもなるのでしょう。万世の排骨ラーメンは、少なくとも千杯以上は食べたと思います。万世麺店は、万世橋の本店もなくなりました。コクのあるスープは同じでも、有楽町店は本店や新宿店よりも美味しかったと思います。鶏肉とたまねぎを辛く煮た”南蛮”という唯一無二のメニューで知られた福津留も、二度ほどオーナーが代り、味も多少変化しましたが、それでも丸の内名物であり続けました。

大相撲夏場所の四日目、五日目を観戦しました。櫓のはね太鼓に送られながら国技館を後にすると、まっすぐ”ちゃんこ巴潟”に向かうのがルーティンになっています。場所中は、2ヶ月前に予約しないと入れないほどの人気店です。巴潟の国見鍋と呼ばれる塩ちゃんこは、明らかに東京で一番です。その絶妙な味は、まさに唯一無二。ところが、この夏場所千秋楽をもって閉店することになりました。店に入ると、ちょうど女将さんがいました。言葉を探しつつ口を開こうとした矢先、女将さんが深々と頭を下げて、ご贔屓いただいたのに本当にすみません、と先に謝るのです。これまでの礼を言って、労をねぎらうべきだったのでしょうが、実に残念だとしか言えませんでした。従業員の方々とも、多少、言葉を交わしましたが、皆、突然のことで驚いたとのことでした。

両国一の人気を誇ったちゃんこ店の突然の閉店ゆえ驚きました。なんとかならなかったのか、と悔やまれます。東京の食文化にとっても、大きな痛手になったと思います。おりしも相撲の人気が盛り返し、チケットもとりにくくなっているだけに、実に残念なことです。あくまでも噂ですが、ビルの建替えと後継者問題があって、廃業を決めたようです。人気店とは言え、多額の借財を抱えて代替わりすることは、なかなかにハードルが高いのでしょう。仲間たちに、これから観戦後のちゃんこはどうするんだ、と聞かれました。他にも人気店はありますが、おいそれとは決められないように思います。   はね太鼓 昭和は遠くなりにけり (写真出典:tomoegata.com)

2025年5月17日土曜日

草を枕に

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。夏目漱石の「草枕」冒頭のあまりにも有名な一説です。会社員時代には、幾度もこの言葉が頭をよぎる場面があったものです。”草枕”とは旅の枕詞ですが、旅そのものを指すこともあります。万葉の頃、旅に出るとすれば、野宿も覚悟する必要がありました。野宿の際には、草を編んで枕にするということから出た言葉です。漱石の三作目となる小説「草枕」は、地方の温泉地に旅した画家の話です。旅先での出来事とともに、漱石の芸術論が語られます。高校生の頃に読んで、感銘を受けた大事な一冊です。

作中には、”非人情”というキーワードが多く登場します。現代人にとっては、一見、誤解を生みやすい言葉のように思います。我々は、どうしても、不人情、非情、薄情といったマイナス・イメージを思い浮かべます。ただ、漱石の非人情とは、世俗的ではない、芸術的、詩的な世界を指します。漱石が唱えた”低徊趣味”にも通じます。低徊とは、立ち去りがたいようすで行ったり来たりすることです。低徊趣味とは、世俗的な気持ちを離れ、自然や芸術、あるいは人生に思いを巡らせる傾向とでも理解すべきなのでしょう。しかも、漱石によれば、西洋の芸術はすべて”人事”が根本にあり、非人情と呼べるものは東洋にしかない、ということになります。人事とは、非人情の反対であり、人間の世俗的な諸事全般を指しています。

一方では”憐れ”というキーワードも登場します。画家は、容姿も所作も美しい宿の出戻り娘・那美さんに、私を描いて、と頼まれます。画家は、表情に憐れがないから描けないと断ります。那美さんが、別れた夫を駅で見送る際に浮かべた表情を見て、画家は「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と叫び、小説は終わります。”憐れ”は、作中で”神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である”と語られています。一見、”非人情”と”憐れ”は対立する概念のように思えます。もちろん、憐れとは不憫に思うことや同情ではなく、日本の美意識の根幹にあるとされる”もののあわれ”であり、しみじみとした情趣を指しているのだと思います。だとしても、”憐れ”が人間の情である以上、”非人情”とは相容れないようにも思えます。

しかし、漱石の言う”憐れ”とは無常観のことではないかと思うのです。無常観は、人間の認識ではありますが、世俗的な人間の欲を全否定していることから、非人情とも言えるのではないでしょうか。東洋趣味的な芸術論が展開される草枕ですが、その本質は、無常観を思う旅であり、唯識論的な巡礼の旅だったのではないかと思います。不世出の天才ピアニスト、グレン・グールドは、「草枕」の大ファンであり、死の床には、聖書とともに書き込みだらけの「草枕」があったといいます。グレン・グールドが、草枕に何を見ていたのかは分かりませんが、超越的な演奏を繰り広げた孤高の天才には、”非人情”が見えていたのかもしれません。グレン・グールドが演奏するバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を、漱石に聞かせてみたかったものです。

漱石は、1895年、愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)に英語教師として赴任します。伊予松山は、1906年に発表された漱石の「坊っちゃん」の舞台として知られます。漱石が松山にいたのは1年足らずの期間でしたが、今も松山は漱石と坊っちゃんを観光資源としています。対して、1896年から4年余り、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として滞在した熊本では、漱石の名を耳にしたことがありません。草枕は、坊っちゃんと同じ年に発表されています。舞台は玉名市の小天温泉、宿は政治家・前田案山子の家、那美さんは前田案山子の娘・卓がモデルとされます。さすがに、小天温泉は草枕推しのようですが、あまり知られていません。その温度差は、坊っちゃんが大衆的な小説であり、草枕が芸術論であったことによるものなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年5月15日木曜日

スフレ

スフレの食感が大好きなのですが、初めて食べたのは、いつ、どこだったのか思い出せません。ただ、スフレと言えば、必ず思い出すのがNYのフランス料理店「ル・シルク」です。現在は閉店しているようですが、かつては予約が取りにくい人気店でした。名物の一つがスフレであり、調理に時間がかかるので、店に着いたら即刻注文すべきと言われていました。東京にもスフレ専門店があります。参宮橋の「ル・スフレ」です。西麻布にあった頃には何度か行ったのですが、参宮橋に越してからは行っていません。いつも行ってみたいとは思っています。

スフレは、ベースとなるカスタード・クリームやベシャメル・ソース系に、卵黄とメレンゲを加えて焼き上げます。スフレには、塩味、甘味、両方のタイプがあります。塩味系は、あまり馴染みがないのですが、チーズ、ハーブ、野菜、さらにはベーコン、鶏肉、魚介系を入れることもあるようです。デザートとしてのスフレもチョコレートやフルーツなどヴァリエーション豊富です。メレンゲの気泡がスフレを膨れさせフワフワ食感を生み出しますが、その食感にマッチしたベースが求められるわけです。なお、スフレは、その性格上、時間が経つとしぼんでいきます。スフレは、通常、丸い平底のスフレ皿で焼かれます。スフレ皿から上にはみ出して膨らんだ様子は、アントナン・カレームに由来するというコック帽のように見えます。

メレンゲこそがスフレの魅力を生み出しているわけですが、他にもメレンゲを用いたスウィーツは多くあります。なかでもシフォン・ケーキは、スフレ同様、フワッとした食感がウリです。比較すると、スフレの方が、キメ細かく軽やかなフワフワ感を感じ、シフォン・ケーキは保型性が高い分しっかりしています。例えば、スポンジ・ケーキは生地作りの段階で全卵を投入しますが、スフレやシフォン・ケーキは、気泡を活かすためにメレンゲを泡立ててから卵黄を混ぜます。ただ、スフレは、ベースを作る際、加熱して小麦粉のデンプンを糊化させてからメレンゲと混ぜます。一方、シフォン・ケーキは、ほとんど糊化させずにメレンゲを入れていきます。両者の違いは、油分や容器にもありますが、この糊化が最大の違いなのでしょう。

スフレの歴史は、17世紀のフランスで、菓子職人が卵白に砂糖を加えて焼くと膨らむことを発見した瞬間にはじまります。Soufflé は、フランス語で”膨らんだ”を意味します。スフレの文献上の初出は、18世紀前期のヴァンサン・ラ・シャペルの著作とされます。ラ・シャペルは、英国やオランダの貴族に使えたフランス人シェフでした。彼が著わした「近代料理」は18世紀最高の料理本とされ、その後に流行する豪華な挿絵入り料理本の先駆けになったとも言われます。スフレを洗練させ、普及させたのは、19世紀前期、”シェフの帝王にして帝王のシェフ”と呼ばれたアントナン・カレームでした。フランスを代表してウィーン会議に出席したタレーランに随行したカレームは、そこで開かれた夕食会を通じて、欧州中にその名を轟かせることになりました。

スフレは、家でも作ることもできますが、なかなかに面倒な代物であり、やはりレストランで食べるべきものだと思います。となると、なかなか口にはできません。そこで代用品が必要となり、一つはシフォン・ケーキということなります。ただ、食感としては、台湾カステラの方が、よりスフレに近いと思います。メレンゲを使うところはシフォン・ケーキと同じなのですが、焼き方が違います。台湾カステラは、蒸し焼きにするところが大きな特徴です。蒸し焼きと言えば、蒸しパンや馬拉糕が思い浮かびますが、これらはメレンゲではなく、ベーキング・パウダーを使って膨らませているところが決定的に違います。馬拉糕は大好物ですが、決してスフレの代用品にはならないわけです。(写真出典:kurashiru.com)

2025年5月13日火曜日

「新世紀ロマンティクス」

監督:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)  原題:風流一代  2024年中国 

☆☆☆☆ー

本作は、中国社会の変貌と時代に翻弄された民衆を描いた散文詩だと思います。ほとんど台詞はなく、主に過去の映像と環境音をつなげて構成された映画はコラージュのようでもあります。それを見事にノスタルジックでメランコリックな一つの詩にまとめあげるあたりは、さすがジャ・ジャンクーだと思いますし、中国が生んだ詩の文化すら感じさせます。三峡ダムに沈み行く長江流域が舞台の一つであること、そして中国語の原題からか、蘇東坡(蘇軾)の「赤壁賦」を思い出しました。「赤壁賦」は、中国古典文学の金字塔とも言われます。漢詩に明るいわけではありません。ただ、毎日使うお気に入りのランチョン・マットが台北の故宮博物院で買った趙孟頫書の「赤壁賦」であり、それで思いついただけのことかもしれませんが。

中国第6世代の映画監督の一人であるジャ・ジャンクーは、これまで、変わりゆく中国と時代に翻弄される若者を描いてきました。それも、舞台としてきたのは、成長著しい沿岸部ではなく、取り残された内陸の地方都市でした。特にジャ・ジャンクー自身の故郷でもある山西省は幾度も描かれています。今回舞台となった山西省大同も何度か登場しています。また代表作「長江哀歌」の舞台となった三峡の奉節も登場します。未発表部分らしいのですが、本作では「長江哀歌」で撮ったフィルムも使われています。舞台設定からも分かるとおり、本作は、歳を重ねたジャ・ジャンクーが、これまでの中国社会の変化と自身が撮ってきた映画を振り返り、そのエッセンスを一つの詩に仕立てたような印象を受けます。

本作が、詩として成立している要素の一つは、配偶者でもあり、長くジャ・ジャンクー映画の主演を務めてきたチャオ・タオの存在です。本作では、台詞がなく、表情だけで演技するチャオ・タオが、映画を一つにまとめげていると思います。思えば、本作は、この夫婦がたどってきた映画人生の回顧展といった風情もあります。1970年生まれのジャ・ジャンクーは、まだ老け込むような歳ではありません。しかし、ジャ・ジャンクーは、この映画で、これまでの映画作りに一区切りつけようとしているかのようでもあります。改革開放後、そして天安門事件後、激しく変化してきた中国社会は、近年、成熟期に入ったかのようなところもあります。社会の変化とともに、ジャ・ジャンクー映画のテーマも変わっていくということなのかもしれません。

よく知られた赤壁の戦いは、3世紀初頭、三国時代に起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の戦いです。三国志演義のなかで最も有名な場面の一つでもあります。蘇東坡が「赤壁賦」を詠んだのは、それから800年後のことです。故事を思いつつ無常観に浸る友人に、蘇東坡は、自然は無尽蔵である、それを楽しめば良いと返します。ジャ・ジャンクーは、大衆を置き去りにしながら進む中国の経済成長に批判的だったわけですが、ここに至って、ある思いを持つようになったのではないでしょうか。それは、犠牲も多く出た社会の激変だったが、結果、人は変わっていない、人は生き残ったということなのではないかと思います。それは、ジャ・ジャンクーの思いというだけではなく、社会的な認識なのかもしれません。中国第7世代の監督たちが得意とする詩的な表現にも、そのような社会の変化を感じます。ジャ・ジャンクーは、「赤壁賦」で言えば、友人の無常観から蘇東坡の達観へと軸足が移っているのかもしれません。(写真出典:eiga.com)

2025年5月11日日曜日

命に別状なし

TVニュースを見ていると、毎日のように「命に別状はありません」という言葉を聞きます。意味するところも分かりますし、耳慣れてもいるのですが、どこか違和感を感じさせるものがあります。恐らく、別状という言葉が、日常では一切使われることがないからだと思います。マスコミは独特の言い回しをすることも多いのですが、一方で、TVニュースなどは可能な限り平易な言葉使いを心がけているものと考えます。ところが、TVニュース以外で、別状という言葉を聞くことはありません。別状とは、いつもとは異なる状況という意味ですから、例えば「命に異常はありません」、あるいは「命に危険はありません」と言えば済むのではないかとも思います。ところが、おしなべて「命に別状はありません」と言うわけです。

さらに言えば、「重傷ですが命に別状はありません」なら分かるのですが、「軽傷で命に別状はありません」とも言うわけです。軽傷なら、わざわざ命うんぬんと言う必要はないと思うのです。マスコミに関わる人たちは、言葉のプロなのだと思います。プロが、あえて「別状」を使いまくるには何か理由があるに違いない、と思って調べてみたのですが、さっぱり分かりませんでした。また、TVのテロップでは”別条”と記載されることもあります。別状は異常な状態を表し、別条は異常な事柄を表すとされます。従って「命に別状はない」は正しい用法ですが、「別条」を使うことは間違いだと思います。この件に関しては、ネットにも多くの記載がありました。ちなみに、NHKでは「別条」を使うことはないようです。

いずれにしても、マスコミの「別状」好きの背景は分からなかったのですが、考えてみると、この言葉が多用されるのは、事故や事件の場合に限られています。事件や事故に関する一次的な報道は、警察発表に基づくことになります。マスコミは、警察が公表した内容を忠実に伝えるしかありません。ひょっとすると「命に別状なし」は、マスコミに独特な表現ではなく、警察用語なのかもしれません。官庁用語だとすれば、一般的ではない、古くて堅い言葉使いは十分に理解できます。警察が紋切り型に「命に別状なし。以上」と発表したとすれば、マスコミとしては、余計な修正や変更を加えずに、その言葉をそのまま伝えるしかないのでしょう。また、加工して報道すると、警察の信用を失う恐れがあるのかもしれません。

警察サイドにも、幅広く、曖昧な表現をするしかない事情もあるのだと思います。つまり、捜査上の必要性から、あるいはプライバシー保護の観点から、詳細を語ることが憚られる場合があるわけです。とすれば幅広な「命に別状なし」は、誠に便利な言葉だと言えます。幅広な分、TVの視聴者の受け止め方は千差万別ということになります。「命に別状なし」と聞いてケガの程度は軽いと思う人もいれば、わざわざ「命に別状なし」と言うくらいだから相当に深刻な状況なのではないかと思う人もいるわけです。正確な報道という観点からすれば問題なしとはしませんが、マスコミとしては如何ともしがたく、その苛立ちが、警察用語としての「命に別状なし」をそのまま伝えることに現れているのかもしれません。

また、仮にマスコミが詳細な情報を入手していたとしても、警察と同様な理由から、自主的に曖昧な「命に別状なし」という伝え方を選択する場合もあるのかもしれません。そこまで考えると、本当にニュースで「命に別状なし」という言葉を使う必要はあるのか、という疑問も沸いてきます。別状を使わず、軽傷、重傷といった表現で十分な場合が多いのではないかとも思います。それも警察次第なのでしょうが、お役所にありがちな前例踏襲という習性が立ちはだかっている可能性もあります。いずれにしても、警察もマスコミも、「命に別状なし」という特殊な表現については、再考してもいいのではないかと思うわけです。(写真出典:nhk.or.jp)

2025年5月9日金曜日

ドローン

ここ10~15年で、急速にドローンという言葉が広がったように思います。ドローンと言えば、まずは、4つのモーターと回転翼が付いた小型ヘリコプターのような代物、そして兵器として使われる無人機がイメージできます。ただ、その定義や区分については、結構、曖昧なところもあります。航空法上では、遠隔操作または自動操縦により飛行する無人航空機ということになります。ただし、100g未満のものは航空法対象外とされています。小さなものは趣味の範囲内ということなのでしょう。4つの回転翼を持つドローンは、クワッドローター、マルチコプターとも呼ばれるようですが、前から気になっていたのは、ヘリコプターとの違いです。

ヘリコプターの回転翼(ブレード)は、平面的に作られており、ローターと呼ばれます。対して、ドローンのブレードは、飛行機のプロペラや船のスクリューのように揚力を生むねじりが加えられており、プロペラと呼ばれます。ヘリコプターは、ローターのピッチ角と回転面の角度を変えることによって、上下・前後・左右への動きを、あるいはホバリングを可能にします。対してドローンの場合、プロペラの角度は固定されていますが、4つのモーターの回転数を、それぞれ独立的に変えることで自在な動きを生み出します。ドローンが4つ以上のモーターを必要する理由がここにあります。ヘリコプターは機械的技術の進化によって生み出され、ドローンはコンピュータによる制御や通信といった電子的技術の革新が生み出したと言えます。

無人機の歴史は、軍事用から始まっています。第二次大戦中には、無線による遠隔操作の研究が始まり、試作もされています。英国では、練習機をベースとして遠隔操縦による標的機クイーン・ビーが開発されています。しかし、技術的に問題が多く実用化には至っていません。戦後になると、軍用機のジェット化に伴い、ミサイルやレーダーの開発も盛んに行われます。同時に、テストで使われる無線誘導の標的機の開発も進むことになりました。この頃、米軍では、英軍のクイーン・ビー(女王蜂)に対抗して、これら無人機をドローン(オスの蜂)と呼び始めました。1951年には、ジェット推進の標的機ファイヤ・ビーが登場します。以降、このモデルが無人偵察機、無人攻撃機へと展開されていくことになります。

アフガニスタン紛争では、アメリカ国内の基地から遠隔操作されたドローンで、ゲリラを偵察・追跡し、かつ攻撃するという戦法が注目されました。また、ウクライナの戦場では、徘徊型兵器とも呼ばれる自爆型ドローンも多く投入されています。誘導ミサイルとは異なり、ターゲットを見つけるところから行うわけです。かつて、機銃を撃ち合った戦闘機のドッグファイトは、遠方からミサイルを打ち合う空中戦に変わりました。また、昨今では、遠隔操縦の無人爆撃機まで開発されているようです。このような変化を踏まえれば、もはや軍用機は、すべてドローン化されるのだろうと思います。一方で、ドローンの遠隔操作を行うパイロットは、精神面も含めた負荷が高いとも言われますが、操縦自体もAI化されていくのでしょう。

兵士の死傷率は改善するどころか、兵士そのものが不要になるのかもしれません。ただ、武力攻撃を判断する際のハードルが下がると、一般市民の犠牲が増える可能性もあります。また、ドローン化は、なにも空に限った話ではありません。自動操縦や遠隔操縦の自動車、電車、船舶まで開発され、一部は実用化されています。クワッドプロペラを用いた空飛ぶ車の販売も始まっています。遠くない将来、全ての移動体・飛行体が、AI搭載のドローンとなり、自動運転化されていくのでしょう。しかし、社会の標準として実装されるまでには、それなりに時間がかかるものと思われます。技術やインフラ整備の問題もありますが、倫理観の議論、その上に成り立つ法令の整備が簡単に進むとは思われないからです。(写真:米軍Global Hawk 出典:wired.jp)

2025年5月7日水曜日

カムイチェプ

カムイチェプノミ
アイヌ語で、鮭は「カムイチェプ(神の魚)」というようです。寒冷地での狩猟採取生活において、食糧の安定的な確保は簡単ではなかったはずです。一時期とは言え、確実に、しかも大量に川を遡上してくる鮭は、まさに恵みです。加工することで数ヶ月はその恩恵を受けることができ、かつ、皮も利用することができます。そのため、アイヌのコタン(集落)は、おおむね川のそばにあります。鮭は、恵みどころか、寒冷地で生存するための必須条件だったように思えます。とすれば、神の魚という表現も十分に理解できます。ただ、我々の感性で言えば、神の魚を安易に獲って食べることは畏れ多い、ということになります。これは、アイヌ語のカムイを、単純に”神”と訳すことで生じる混乱なのだと思います。

カムイは、日本語の神、あるいは唯一神を指す英語のGodとは大いに異なるわけです。日本的な八百万の神々は、山や川などに宿る目に見えない存在です。唯一神も天上にいる目に見えない存在です。つまり、神は、人間の上位にある擬人化された抽象的概念だと言えます。対して、カムイは、山や川そのものであり、人間と同等に実在する具体的存在だと説明されます。あるいは、山や川、人間が作った道具にも宿る魂のことだという言い方もあります。最も腑に落ちる説明は、アイヌの人々は、生きるうえで必要なものすべてをカムイとして、感謝の祈りを捧げる、というものです。私たちは、どうしても、自分たちが抱く神の概念に寄せてカムイを理解しようとするので、分かりにくくなってしまうのでしょう。

それは人間と自然の関係をどう捉えるかの違いだと言うこともできるのでしょう。人知を超える自然の営みは、人間を超えた誰かの意志によるものだ、と私たちの祖先は考えたはずです。それが、畏れをもって祈るべき対象としての神になったのでしょう。厳しい環境のなかで生活するアイヌにとっては、とりあえず生き延びることが最も重要であり、生きるうえで欠かせないもの全てにリスペクトと感謝を捧げたのではないかと思います。それがカムイになったのでしょう。そうした自然との向き合い方の違いは、農耕民と狩猟民との違いとして理解できます。農耕は人間が自然をコントロールしようとするものであり、狩猟は人間が自然の一部として共存をはかるものです。ここに大きな違いがあるのだと思います。

カムイチェプ(鮭)に関する興味深いアイヌ民話があります。「キツネのチャランケ」です。アイヌが川で獲った鮭を、キツネが一匹食べてしまいます。アイヌは、ありったけの罵詈雑言をキツネに浴びせ、この土地からキツネを追い出すようにすべての神に祈ります。それを聞いたキツネは、アイヌに談判(チャランケ)します。鮭はアイヌが作ったものではない。全ての動物が食べられるだけの鮭をカムイが与えてくれているのだ。それを聞いたアイヌの長老は、そのとおりだと感得し、キツネを責めたアイヌを叱りつけ、キツネに謝ります。アイヌの自然との向き合い方、あるいはカムイの本質を伝える話だと思います。アイヌの民話には、このようにアイヌと自然との関係を伝える内容のものが多いと聞きます。文化や思想の伝承ということなのでしょう。

この春、札幌地裁で興味深い判決が出されました。アイヌが、鮭漁は先住民の権利であるという訴えを起し、このたび、それを退ける判決が出たのです。北海道庁も、アイヌの文化享有権を認め、儀式用に少量の鮭を獲ることは認めています。ただ、漁業権のない人が鮭を獲ることは法的に禁じられています。アイヌにだけ特権を認めることはできないというわけです。理解できるところはります。鮭漁を巡ってアイヌと国は、度々争ってきました。ただ、今回の訴えの背景には、少数民族の権利を守るという世界的潮流があるとされています。思い起こされるのは日本の捕鯨に関するスタンスです。日本は、2019年、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、排他的経済水域内における商業捕鯨を再開しています。捕鯨は日本の伝統文化であると主張する政府とアイヌの主張に違いがあるようには思えません。(写真出典:asahi.com)

2025年5月5日月曜日

端午の節句

昔から、端午の節句は休日なのに、桃の節句が休日ではないことは男女差別だという話があります。江戸期、五節句は休日とされていたようですが、明治期になり、節句の休日は廃止され、新たに国民の休日が設定されます。5月5日「こどもの日」は、戦後になって制定されています。しかし、端午の節句だから休日というわけではありません。性別を問わず、こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日として制定されました。微妙なのは、3月3日ではなく5月5日とされた点です。当初は、桃の節句も端午の節句も休日にする案が出されますが、休日数が多くなることから、合体案に落ち着きます。5月5日に決まったのは、良い季節を迎えるからということだったようです。

また、その趣旨からして、今後、5月5日には、お雛様も武者人形も飾らず、聖徳太子や菅原道真の人形を飾ろうという動きもあったようです。しかし、代議士の理屈っぽい思いつきなど、古くから根付いた伝統にはかなわなかったわけです。節句とは、季節の変わり目の日を指します。古代中国で陰陽五行説に基づいて行われていた節句の厄払いが、奈良時代、日本に伝来したとされます。平安時代には、宮中で節会として営まれ、饗宴も行われていたようです。江戸期に入ると、幕府は、節会を五節句としてまとめ、祝日とします。五節句とは、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)を指します。元旦が入っていないことに違和感を覚えますが、別格扱いということだったようです。

端午の節句は、菖蒲の節句とも呼ばれ、十二支の午(うま)の月である5月の最初の午の日5日に行われます。端午とは午の初めという意味です。日本では新暦の5月5日に行われますが、中国・韓国・ヴェトナム等では旧暦の5月5日に行われます。男子の健やかな成長を祈願するとして、武者人形などの五月人形を飾り、鯉のぼりを流し、菖蒲湯に入り、関東では柏餅、関西ではちまきを食べます。柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから子孫繁栄の縁起物とされています。ちまきは、童謡「背くらべ」でも”柱のきずは おととしの 5月5日の背くらべ ちまき食べ食べ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ”と歌われています。端午の節句とちまき(粽)との関係は、紀元前4~3世紀、春秋戦国時代の楚の国の王族にして詩人の屈原までさかのぼります。

楚は、西の秦と同盟するか、東の斉と結ぶかで国論が二分されていました。屈原は、親斉派でしたが、その優秀さが妬まれ、讒言されて王から遠ざけられます。屈原は、秦が信用ならぬことを王に諫言しますが、聞き入れられず、ついに楚は秦に滅ぼされます。絶望した屈原は入水自殺します。5月5日は屈原の命日であり、人々は屈原の無念を鎮めるために竹筒につめた米を川に投じます。しかし、後代に至り、ある者の夢枕に屈原が立ち、供物は龍に奪われるので、龍の嫌いな楝樹(せんだん)の葉に飯を包み、五色の糸で縛って川に投げ込むように言います。これが粽の起源とされます。屈原のように忠誠心の高い男子に育つことを願って、5月5日に粽を食べるようになったと言われています。もっとも、西日本の端午の節句で食べられるちまきの中身は甘い団子です。

粽は、東アジアや東南アジアで広くた食べられています。新橋の台湾料理店”ビーフン東”のバーツァン(肉粽)は有名です。もち米、豚肉、うずら玉子、シイタケ、落花生等を醤油で味付け、竹の皮に包んで蒸します。福建風と言われるようですが、あっさりとしたやさしい味が絶妙な名品です。過日、那覇の牧志の奥にある台湾料理店”金壺”で名物のちまきを食べました。美味しかったのですが、中から大量のジーマミー(落花生)がボロボロ出てきたのは驚きました。東南アジアの粽には多くの落花生が使われるようです。金壺の粽も東南アジア一帯に展開した客家たちの影響を受けているということなのでしょう。さすがに昨今では、粽を食べる際に、屈原に思いを馳せる人は少ないとは思いますが、せめて端午の節句くらいには思い出してもらいたいものだとも思います。(写真出典:kids.rurubu.jp)

2025年5月3日土曜日

「ゲッベルス」

”ゲッベルス  ヒトラーをプロデュースした男”                       監督:ヨアヒム・A・ラング   原題: Führer und Verführer   2024年ドイツ・スロバキア

☆☆☆

ドイツ人が、いつまでもナチスと真摯に向き合う姿には感心させられます。その背景には、右派が台頭するドイツの政治情勢もあるのでしょう。本作は、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスを描いています。史実を忠実に踏まえ、実際の映像や音声も交えてドラマが構成されています。昔から、フィクションをドキュメンタリー風に仕上げるモキュメンタリーという手法があります。本作は、真逆のパターンとも言えますが、最近、見かけることが多いように思います。結構、難しいアプローチであり、TVの再現ドラマのようになってしまうる恐れもあります。本作は、辛うじて映画として成立しているように思います。ただ、これは、そうした技術面よりも、ナチスの本質に迫ろうとするその姿勢を評価すべき映画なのでしょう。

原題の"Führer und Verführer"は、なかなかに面白いタイトルだと思います。フューラーは、幅広く指導者を意味するドイツ語ですが、ほぼ固有名詞化された”総統”としてヒトラーを指します。フェルフューラーは、誘惑者、あるいはそそのかす人という意味だそうです。単純に考えれば、原題は総統ヒトラーと宣伝大臣ゲッベルスを指す”総統と扇動者”となるのでしょう。ドイツ語は不案内ですが、いずれにもフューラーという言葉が入っている点が、表面的な意味以上に興味深いと思います。つまり、ゲッベルスを、単なる宣伝大臣やプロパガンダを行った者以上に位置づけ、ある意味、ヒトラーと同様にナチスの本質を体現していると言っているようにも思えます。それは、単にナチスの本質がプロパガンダにあるということだけではないように思います。

宗教は、天国と地獄を示すことで信者を誘導します。コミュニズムを含めた全体主義では、目指すべき社会の定義は曖昧ながら、諸悪の根源たる大衆の敵を明確にして批判することで人々を扇動します。設計図が不明瞭で共有されていないことが、個人の判断への依存を高め、全体主義を独裁に導いていくことになります。ゲッベルスは、類い希なるプロパガンダの天才ですが、とりわけ、定義することもできない天国を、漠然とイメージさせることに巧みな人だったと思います。ゲッベルスは、ドイツ人のDNAとも言えるロマン主義をくすぐり、人々を判断停止状態に落とし込んだと言えます。実に宗教的だと思います。ゲッベルスの天才を見抜いたヒトラーは、敵対しようとも、あるいは家族問題に介入してまでも、彼を離したくなかったのでしょう。

もちろん、ヒトラーの誇大妄想的カリスマ性は疑いようのないところですが、加えて人心掌握術にも非凡な才能を発揮した人だったのでしょう。本作でしきりと登場する会議での席順指定のシーンなども、その典型的な現れなのでしょう。ヒトラーは、側近たちを競わせ、疑心暗鬼な状態に置くことで操作し、自らの優位を確保していたと思われます。ゲッベルスも、その罠にはまり、ヒトラーの歓心を買うことに汲々とします。しかし、他の幹部たちとは異なり、最後の最後までヒトラーに寄り添い、家族を道連れに自決までしたのはゲッベルスだけです。それは、ヒトラーの巧妙な洗脳と言うよりも、ゲッベルスにとってのヒトラーが、自分が熱望しても得られないカリスマ性の体現者であり、生涯抱え続けたコンプレックスの裏返しだったからなのでしょう。

Führer und Verführerという組合せは、危険な化学反応を引き起こしかねず、まさに”混ぜるな 危険”だと言えます。近年、Verführerは一個人とは限らなくなっています。アメリカ大統領選挙など典型的ですが、SNSがその役割を担っているわけです。陰謀論やフェイク・ニュースを巧みに使うこと、貿易相手国、不法移民、ダイバーシティや妊娠中絶といったリベラルな政策を敵と定めて激しく攻撃すること、加えて言えば、目指すべき国の姿についても”Great Again”と言うばかりで曖昧になっていること、以上などからして、その扇動スタイルはゲッベルスを彷彿とさせるものがあります。肝心のFührer役のトランプがヒトラーほどに優秀ではないことが幸いしている面もあります。ただ、Verführer役のSNSがゲッベルスを超えるほどの潜在的パワーを持っていることが気になります。(写真出典:natalie.mu)

2025年5月1日木曜日

マクア渓谷

沖縄本島を一周するドライブをしたことがあります。と言っても、幹線道路を使ってのことであり、ほぼ一周といったところです。実は、かつてオアフ島でも同じチャレンジをしました。オアフ島の面積は、沖縄本島よりも3割ほど広くなっています。ところが一周ドライブにかかる時間は、沖縄本島の方が3倍近くかかります。所要時間は、道路事情如何でもありますが、島の大きさではなくルートの長短によるところが大きいと言えます。オアフ島一周ドライブのモデルコースは、島の中央と東側を回るだけであって、島全体をカバーしていません。除外されているのは、島の西側、コオリナの北、ノース・ショアの南に広がるマクア渓谷周辺です。除外される理由は、この一帯が、米軍の広大な演習場になっているからです。

マクア渓谷は、ハワイ民族生誕の地とされます。マクアとは”母”を意味する言葉です。地質学的にも、ここがオアフ島が誕生した地であるようです。ハワイ諸島は、海底のマグマが噴き出して作られた島々です。マグマだまりは同じ場所にあっても、噴火で生まれた島はプレートの移動とともに北西へと移動し、新たな島が次々と生まれます。マクア渓谷は、オアフの最初の噴出口だったわけです。ハワイも琉球も、かつては独立した王国でした。ハワイは、1898年、アメリカに併合され、後に50番目の州となります。琉球は、1879年、日本に併合され、米軍の占領時代を経て1972年に返還されています。太平洋戦争は、日本軍によるパール・ハーバー奇襲で始まり、米軍の沖縄侵攻で地上戦が終わります。国境の島々の宿命を感じさせます。

やや古いデータですが、ハワイにおける米軍施設の総面積は約10万ha、州全体の6%弱を占めるとされます。沖縄の米軍基地は、約1.9万ha、県全体の8%、本島に限れば15%に相当します。しかも、敷地面積で見れば、日本の米軍基地の70%が沖縄に集中しています。ハワイに駐留する軍人は42.000人、その家族も加えると10万人、さらに国防省関係者、軍属、退役軍人も合わせると総計は26万人、州の人口100万人の26%に相当します。沖縄には米軍軍人が約25,000人、家族や軍属を合わせると5万人を超えるとされます。沖縄県の人口は145万人ですから、人口比は4%弱になります。軍が駐留することによる経済的効果は否定できないとしても、ハワイ、沖縄ともに、基地の存在が過大な負荷になっていると言えます。

沖縄県民の基地返還に関する長い戦いは、私たちも知っていますが、実は、ハワイでも返還運動は行われてきました。とは言え、基地の問題は、戦略上の必要性が最優先されるので、中国やロシア等の軍事的脅威が完全に消えない限り、簡単には進みません。ただ、マクア渓谷に関しては、興味深い展開があります。射爆場でもあった渓谷の山肌はむき出しになっていたようですが、1998年、地元団体が、国家環境政策法違反として、軍を訴えます。多数の絶滅危惧種に関する環境調査を行っていないということが争点でした。裁判所は、訴えを認め、軍に環境調査が終了するまで実弾射撃訓練の中止を命じます。今やマクア渓谷は緑を回復し、演習場であることは変わらずとも、軍は環境保全にも十分に配慮し、環境団体の立ち入りも認めているようです。そして、2023年、軍は渓谷における実弾射撃を永久に止めると発表しました。

普天間基地の辺野古移転に関しては、沖縄県が環境問題をメインに相当抵抗しましたが、結果的に工事は進んでいます。国も法律も異なるので、何とも言えませんが、マクア渓谷の場合、絶滅危惧種が大きなポイントだったのかもしれません。2013年、時の安倍内閣は「嘉手納以南の基地返還計画」を発表します。人口密集地域の基地1,000haを順次返還するという計画でした。しかし、内実としては、単純に返還される土地はごくわずかに過ぎず、多くは移転等の条件付となっていました。普天間基地についても、キャンプ・シュワブ(辺野古)への移転が明記されています。名前に偽りありと言わざるを得ません。安倍晋三氏らしいやり口です。なお、海兵隊のグアム移転は始まっています。だた、これも全面移転ではなく、約半数が移転するという計画になっています。(写真出典:htourshawaii.com

パーム・オイル