2025年7月6日日曜日

パーム・オイル

アブラヤシ畑
中国の黄河を初めて見たのは、イスラマバードから北京に向かう機上からのことでした。その雄大さ以上に、黄色い泥水に驚きました。長江も同様であり、日本の澄んだ水の川を見慣れた我々にとっては大いに違和感があります。日本の川は、流れが急で短いことから、ミネラルの混入が少なく、澄んだ軟水になるようです。当然のことながら、水の違いは、料理の違いを生みます。日本の出汁の文化は軟水がゆえに成立しており、あっさりとした味付けが多くなります。対して硬水の中国では、味付けが濃くなりがちで、かつ水ではなく高温の油で調理することが多くなるのだそうです。同じ中華文化圏ながら、台湾は軟水の国であり、味付けはあっさりとして日本人の口にもよく合います。

中国語で、””頑張れ”は「加油」となります。語源は、勉強中にランプが消えないように油を足すこととされます。また、加油は調理を意味し、しっかり食べてがんばれということだとする説もあるようです。油は調理に欠かせないものになっているわけです。1970年代末から、日本では烏龍茶ブームが起こりました。人気絶頂だったピンクレディーが健康のために烏龍茶を飲んでいると発言したことがきっかけだったとされます。油を使った料理が多いわりには太った中国人が少ないのは、食事の際に烏龍茶を大量に飲むからだ、というわけです。確かに、烏龍茶のポリフェノールには、脂肪の吸収を抑制する効果があるようです。さはさりながら、当時の中国人が太っていなかった最大の理由は、一人当たりGDPがまだまだ低かったからだと思います。

開発途上国では、当然のことながら、経済成長とともに供給カロリーが上がっていきます。1960年台はじめの中国における一人当り一日当りの供給カロリーは、1500Kcalに満たなかったようです。干ばつと大躍進運動がもたらした”3年大飢饉”の影響が長引いたことも背景にあるのでしょう。それが、1970年代末の改革開放後には、急激な増加に転じます。2022年には3500Kcalに迫り、世界トップ5にランクインしています。近年多く見かける中国人旅行者には小太りな人が多いように思います。ちなみに、供給カロリーも肥満率も世界トップに君臨するのはアメリカです。かつて、アメリカの供給カロリーは、欧州各国と比して相対的に低い水準にありました。それが増加に転じたのは、1980年代のことであり、1990年代には世界トップに踊り出ます。

アメリカ人の肥満の原因は、ジャンク・フードにあると言われます。それもそのとおりだとは思いますが、ジャンク・フードは80年代に至ってはじめて普及したわけではありません。アメリカの供給カロリーが増加に転じたのは、ジャンク・フードや冷凍食品にパーム・オイルとコーン・シロップが多用されるようになったからだとされます。アブラヤシからとれるパーム・オイルは、調理用だけでなく、マーガリン、菓子類、インスタント食品などの加工食品用で多用され、石鹸やバイオ燃料にも使われています。その生産量も消費量も、植物油のなかでは、大豆油、菜種油を抑えてトップです。アブラヤシの原産は東アフリカですが、栽培が始まったのは19世紀のインドネシアとされます。オランダ人が種を持ち込み、栽培を始めたわけです。

マレーシアで驚いたことの一つは、どこへ行ってもアブラヤシ畑だらけだということです。マレーシアは、インドネシアに次ぐパーム・オイルの生産国であり、この2ヶ国が世界の生産量の8割を占めます。かつて、マレーシアはゴム園だらけだったようですが、1960年代からアブラヤシへの転換が始まりました。そのころからパーム・オイルの生産・消費が拡大し、急成長を続けてきました。パーム・オイルが植物油のトップ・シェアになったとは言え、調理用油としては、アメリカ、南米、中国では大豆油、欧州や日本では菜種油が、依然、主流です。つまり、パーム・オイルは、調理ではなく加工分野でシェアを急拡大してきたわけです。パーム・オイルは、動物性脂肪と同じく飽和脂肪酸が多く、肥満や生活習慣病への悪影響が懸念されています。また、自然破壊や労働問題も指摘されています。しかし、安価で使い勝手のよいパーム・オイルは、生産、消費ともに拡大を続けています。(写真出典:sustainablejapan.jp)

2025年7月4日金曜日

三十年の馬鹿騒ぎ

邦画好きの知人の勧めで深作欣二監督の「仁義の墓場」(1975)を見ました。興行的には振わなかったものの、ジワジワと評価を高め、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では38位に選ばれています。ちなみに深作欣二の「仁義なき戦い」(1973)は第8位に選出されています。当時、仁義なき戦いに熱狂したにも関わらず、なぜ、この映画を見ていなかったか不思議に思いました。要は、仁義なき戦いシリーズのマンネリ化に嫌気が差して、実録やくざ物からも、深作欣二からも遠ざかっていた頃だったのです。主演は、潰れた日活から東映に移った渡哲也ですが、実録やくざ物には不向きであり、かつ、流行だからといって、あわてて実録ものに出演する姿勢も気に入らなかったと記憶します。

映画は、敗戦直後の新宿で名を馳せたやくざ石川力夫の短い半生を描いています。石川力夫は、水戸の出身で、10代で新宿に出て、南口の闇市を仕切っていた和田組に身を寄せます。20歳で、親分を切りつけて、収監され、かつ破門、処払い10年という制裁を受けます。大阪に身を潜めますが、この間に麻薬中毒になっています。1年半で、兄弟分を頼って新宿に舞い戻りますが、世話になったその兄弟分を殺害します。府中刑務所に収監中、屋上から飛び降り自殺しています。享年30歳でした。独房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」という辞世の句が残されていました。親分や兄弟分に刃物を向けることなどやくざ社会ではあり得ないことです。石川は、掟という伝統に徹底的に背いた反逆者として知られているようです。

仁義なき戦いは、行き場のない復員兵という構図に、組織対組織、組織対個人という普遍性の高いテーマを重ねていました。また、東映内部で言えば、マンネリ化した着流しやくざものからの脱却という背景も持っていました。仁義の墓場では、ひたすら石川力夫個人がフォーカスされています。組織対個人という構図も、死に場所を求める戦中派の苦悩という背景も、深掘りされることがありません。石川の抱える心の闇をえぐることもなく、石川の狂犬ぶりだけが淡々と描かれます。それだけに、その殺伐とした人生の凄みが、ジワジワと見る側の心にしみわたってきます。見終わってみれば、他の映画では、なかなか感じられないほどの重く暗い印象が残り、かつ持続します。ゆえに実録やくざ物の極北と呼ばれるのでしょうが、嫌な後味が残る映画とも言えます。

映画は、幼少期の石川を知る人々のインタビュー音声で始まります。従来の実録物にはなかったアプローチであり、この映画の性格を物語っています。闇市や出入りのシーンでは、深作欣二得意の群衆シーンが繰り広げられます。これが実録物がマンネリ化した要因でもあります。渡哲也は、やはり狂犬役は似合いません。若衆の割には代貸クラスにしか見えません。ところが、映画の後半、麻薬中毒になってからの芝居は鬼気迫るものがあります。持病が悪化し、点滴を打ちながらの過酷な撮影だったことが映像にも現れています。それでも、石川力夫の半生を描くなら、別の俳優がよかったと思います。当時の東映のスター・システムでは、渡哲也ありきでしか映画は撮れなかったのでしょう。売出中とは言え、生活感のない多岐川裕美もミスキャストだと思います。

敗戦直後、新宿駅東口には、的屋の尾津組が、都内初にして最大の闇市「新宿マーケット」を開きます。最盛期には1,600店以上が出店していたと聞きます。「光は新宿から」というのが新宿マーケットのキャッチ・フレーズでした。不法占拠した土地での違法な商売だったわけですが、消費者だけでなく、生産者にとっても、まさに希望の光だったのでしょう。都内の主要駅には闇市が乱立しますが、経済復興とともに消えていきました。しかし、その痕跡は、今も各地に見ることができます。アメ横、新橋駅前ビル等が有名ですが、新宿ゴールデン街も新宿マーケットの強制移転から生まれた街です。闇市も、戦後ヤクザも、石川力夫も、皆、戦争が生み出した産物だったと言えます。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月2日水曜日

ミネラル・ウォーター

20年ほど前、富山へ行ったおりに聞いた料亭旅館の女将の話が印象に残りました。富山の水は日本一です。にもかかわらず若者たちはコンビニでミネラル・ウォーターを買って飲んでいる。実になげかわしい、と言うのです。美味しさでは富山の水に負けるかもしれませんが、日本全国いずこでも、飲める水には事欠きません。かつて、水筒を持って出かけるのは、遠足か登山くらいのものでした。どこへ行っても、水が飲めたからです。それも水筒に入れたのは水道水でした。これほどの国は他にあまり無いと思います。にもかかわらず、昨今では、皆、わざわざミネラル・ウォーターを買って飲むようになりました。逆に言えば、”エスキモーに氷を売る”ような市場で成功を収めたミネラル・ウォーター業界のマーケティングは見事だったと言えます。

日本のミネラル・ウォーターの歴史は、1884年発売の炭酸水「鉱泉平野水」に始まるとされます。英国人科学者が、兵庫県平野の鉱泉が飲料に適していることを発見し、宮内省が炭酸水の御料工場を立ち上げます。払下げを受けた三菱が日本初の炭酸飲料として発売、それを引き継いだ明治屋が1885年に「三ツ矢印平野水」として売り出しています。三矢サイダーの始まりです。ちなみに、三ツ矢とは、源満仲が住吉大社の神託に従い三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に城を構えたという伝承に由来します。多田も平野も現在の川西市にあります。ノンガスのミネラル・ウォーターは、1929年、富士急の堀内良平が、身延で湧出する水を「日本ヱビアン」として発売したのが始まりのようです。現在も富士ミネラルウォーターとして販売されています。

ミネラル・ウォーターの一般化は、1970年代に始まっています。日本のウィスキー・メーカーが売上を伸ばすために、和食にも合うとして”水割り”のキャンペーンを開始します。それまで、ウィスキーと言えば、その深い味わいを楽しむためにオン・ザ・ロックで飲むことが当然とされていました。今までも、ウィスキーの水割りはどこか邪道感が残っています。いずれにしても、水割りはキャンペーンの効果によって普及していきました。ただ、そこで問題となったのは、当時の水道水の品質の悪さです。要は、カルキ臭が強く、美味しくなかったわけです。そこでウィスキー・メーカーは、ミネラル・ウォーターの販売を開始することになりました。ただし、あくまでも業務用であり、一般家庭向けではありませんでした。

一般家庭向けミネラル・ウォーターは、1983年に発売されたハウス食品の「六甲のおいしい水」(現在はアサヒ飲料)に始まります。カレー・ルーを販売するハウスが、カレーに合う水として発売しています。いつの頃からか、日本では、カレー・ライスと言えばコップに入った水が付き物でした。恐らく、カレーは辛い、辛いものには水というイメージがそうさせたのだと思います。実際には、辛いものを食べて水を飲むと辛さが口中に広がるだけなのですが。かつて、大衆食堂等でカレー・ライスを注文すると、スプーンが水のコップに入れられて出てきたものです。スプーンがコップに入っていない場合でも、一度、水につけてから使うおじさんたちが多かったように記憶します。ところが、口が肥えてくると、ここでもカルキ臭い水道水が問題とされたわけです。

猛暑や水質問題等を背景に、ミネラル・ウォーターは順調に普及していきます。1996年、環境問題から禁止されていた500mlのペットボトルでの飲料販売が解禁されます。これが市場の急拡大の大きな契機になりました。1980年代以降、急拡大していた飲料の自動販売機も追い風となります。当時、飲料メーカーに聞いた話ですが、売上は自販機の設置台数に応じるとまで言っていました。激しい競争の結果、至る所に自販機が設置されていたものです。ただ、世界最大の自販機大国とも言われる日本ですが、2000年をピークに台数は大幅に減少しています。そもそも設置台数が過剰だったことに加え、少子化の影響が大きいとされます。ただ、その後も、ミネラル・ウォーターの売上は、災害対策としての備蓄、猛暑の際の熱中症対策などを背景に伸び続けています。(写真出典:asahiinryo.co.jp)

2025年6月30日月曜日

式子内親王

別府八湯の一つ観海寺温泉街は、高台から見下ろす別府湾と温泉街の景色が自慢です。そこに観海禅寺という小さな寺院があり、境内に式子内親王の墓なるものがあります。しかし、歌人としても知られる式子内親王は、1201年、都で病死したことが複数の資料から確認できているようです。 全国には、このように、高名な人の墓が、史実とは一致しない場所にあるという現象がまま見られます。なぜそうなったのかはよく分かりません。想像するに、高名な人に仕えていた人が地方に流れ、雇い主の名をかたったか、あるいは土地の人々が簡便的に雇い主の名で呼ぶようになったのかもしれません。大昔の都と地方の距離感からすれば、あり得る話ではないかと思います。

式子内親王は、1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれています。母は高倉三位と呼ばれた藤原成子です。同母兄弟には高倉宮以仁王、異母兄弟には高倉天皇がいます。幼い頃から、賀茂神社の斎宮を務め、新古今和歌集はじめ多くの勅撰和歌集、あるいは百人一首にその歌を残す歌人としても知られます。内親王は、高名な歌人であると同時に、その私生活に関しても、いくつかのエピソードでよく知られています。最も有名なのは、金春禅竹が能楽「定家」に描いた藤原定家との忍ぶ恋なのでしょう。同曲にも登場しますが、つる性常緑低木である定家葛の名の由来も不思議な話です。定家葛という名称は、俗称ではなく正式な和名です。死後も内親王を忘れられない定家が葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたというのです。

二人の恋愛関係に関する確たる証拠はありません。式子内親王は、和歌を藤原俊成に師事しています。俊成の次男が定家です。定家が内親王家に出入りしていたことは、彼の日記からも明らかです。忍ぶ恋とは、後世の人たちが、歌や日記から膨らませた妄想とも言われます。実は、式子内親王と慈円との恋愛という話も有名です。慈円は、摂政関白・藤原忠通の子であり、天台座主として、歌人として、あるいは「愚管抄」の作者として知られます。やはり二人の関係を示す証跡はないものの、二人の歌から読み取れるというわけです。さらに、式子内親王は浄土宗の開祖である法然に心を寄せていたという説もあるようです。後白河天皇の娘、独身、資産家、歌人とくれば、超がつくほどのセレブリティであり、浮名が絶えないとしても不思議はないと思います。

内親王とは天皇の直系女子を指します。かつて、内親王は、臣下の者に嫁ぐことなどあり得ず、嫁ぐとすれば天皇か皇太子のみでした。従って、ほとんどの内親王は独身のまま生涯を終えるか仏門に入りました。また、内親王は、天皇家一族から遺産を相続し、多くの荘園を持つ資産家でもあったようです。天皇家としては、一代限りの資産分与なので財産が外に流出する恐れがなかったわけです。内親王は、庶民が様々な妄想をかき立てずにはいられないセレブだったのでしょう。例え、実際に臣下と恋愛関係になったとしても、超国家機密扱いであり、文献など残るわけもありません。ましてや、神に仕える斎王という立場になれば、なおのことです。残された和歌が証拠だという説も多いのですが、現代人の感性で理解するのはどうかと思います。一流の歌人ともなれば、恋愛の歌など、事実の裏打ちなどなくても巧みに詠むのではないでしょうか。

式子内親王が生きたのは、父である後白河天皇が巻き起こした激動の時代です。浮き沈みの激しかった父親の影響を相当に受けていたはずですが、内親王に関しては、和歌と忍ぶ恋の話だけが知られています。女性ゆえ記録が少ないのかもしれません。事件と言えば、身を寄せていた八条院の主である暲子内親王とその姫宮に対する呪詛の嫌疑をかけられています。八条院を出ざるを得なくなった式子内親王は、そのまま出家しています。 亡き後白河院からお告げがあったとする橘兼仲夫婦の妖言事件に連座し、流刑寸前になったこともあるようです。どうも、父親に似て、お淑やかなばかりの内親王ではなかったように思えます。事件の都度、内親王に仕える者が身替りとして罰を受け、流刑になっていたとしても不思議はありません。そのうちの一人が別府に流れ着き、観海禅寺に身を寄せていたのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年6月28日土曜日

梁盤秘抄#37 : Chapter One :Latin America

アルバム名:Chapter One: Latin America (1973)                                 アーティスト:Gato Barbieri

アルゼンチン出身のテナー・サックス奏者ガトー・バルビエリは、1960年代、ローマやNYを拠点に、フリー・ジャズを演奏していました。ところが、1970年代に入ると、自らのルーツであるラテン音楽を取り入れた演奏スタイルに変わっていきます。彼の名前が世界中に知られるきっかけとなったのは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の話題作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)の音楽を担当したことでした。メランコリックなタンゴであるテーマ曲は大ヒットし、グラミー賞も獲得しました。以降、ジャズ・ファンの多くは、彼をイージー・リスニング系のジャズ奏者と捉え、軽く見る傾向が生まれました。しかし、必ずしも、それだけではなかったように思います。

いわゆるラテン・ジャズは、ほぼほぼアフロ・キューバン・ジャズを指します。キューバ発祥の強いリズムとコンガやボンゴといったパーカッションを使ったジャズです。ガトー・バルビエリの音楽は、タンゴやフォークロアをベースとしたジャズであり、まったくの別物です。アストル・ピアソラの”リベルタンゴ”は、タンゴではないタンゴとも呼ばれます。ガトー・バルビエリの場合、タンゴのリズムを用いていない場合でも、そのフリー・ジャズ的なブローのなかにメランコリックなタンゴ・テイストを感じます。やはり、タンゴではないタンゴといえるかもしれません。しかし、1970年代後半からは、明らかにポップな演奏へと変わっていきました。1976年には、カルロス・サンタナの”Europa”をカバーしてヒットさせています。

ガトー・バルビエリが選択したタンゴやフォークロア路線からすれば、ポップ化は当然の成り行きだったようにも思います。それだけに、1970年代前半のフリー・ジャズとアルゼンチン音楽の融合という試みは新鮮であり、貴重だったと思います。1971年にスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルで録音された「El Pampero」のなかの一曲「Mi Buenos Aires Querido(わが懐かしのブエノスアイレス)」は、その典型的演奏だったと思います。この曲は、1930年代にヒットしたスタンダードです。国外にいるアルゼンチン人がブエノスアイレスを懐かしむという曲ですが、NYで長くフリー・ジャズの活動をしていたガトー・バルビエリの心情、その後の音楽的指向を端的に表した演奏だったと思います。

ガトー・バルビエリは、ジョン・コルトレーンを崇拝し、追随していました。この頃のガトー・バルビエリの演奏は、コルトレーンの「クル・セ・ママ」の影響下にあったように思います。ラスト・タンゴ・イン・パリを経て、Chapter Oneにたどりつくと、クル・セ・ママを超えた独自の境地が展開されます。このアルバムがヒットした理由はそこにあると思います。もはやジャズではないとの批判もありました。確かにオーセンティックなモダン・ジャズとは大いにかけ離れていますが、ジャズの新しい地平線を見せてくれていたとは思うわけです。1972年には、チック・コリアが大ヒット作となった「リターン・トゥ・フォーエバー」をリリースしています。時代は、新天地を求めてフュージョンの世界に入っていたわけです。ガトー・バルビエリの音楽も、幅広に言えば、フュージョンの一種だったのでしょう。(写真出典:music.apple.com)

2025年6月26日木曜日

毒婦

Netflix製作のスペイン映画「ヴュ-ダ・ネグロ」 (原題:La viuda negra、英題:A Widow's Game)を観ました。2017年、バレンシアで発生した事件をほぼ忠実に再現した映画です。俳優たちはなかなかの熱演でしたが、脚本が残念な出来であり、映画としては評価できるような代物ではありませんでした。それでも実際に起きた事件が興味深いものだったので、飽きずに観ました。宗教的に厳格な家庭に育ったマへは、性的に奔放な女性になります。男性関係を隠して結婚したマへは、夫に浮気がバレ、浮気相手の一人である真面目な中年男をそそのかして、夫を殺害します。手がかりの薄い事件でしたが、バレンシア警察は盗聴によって事件をあばき、二人を逮捕します。マへの嘘で固めた人生が興味深く、主演女優の演技も見事でした。

原題は、スペイン語で黒い蜘蛛を意味します。内容にピッタリ合ういいタイトルだと思います。ただ、19世紀にイェレミアス・ゴットヘルフが書いた小説「黒い蜘蛛」があるので、止むなくこの邦題や英題が決まったのでしょう。映画を観ていて、思い出したのが”毒婦”という言葉です。毒婦と言えば高橋お伝、高橋お伝と言えば毒婦ですが、若い人たちはまったく知らないと思います。高橋お伝が殺人を犯したのは明治初期のことです。読み物まがいの新聞報道が過熱し、仮名垣魯文の小説はじめ、歌舞伎、浪曲のテーマとなり、映画も幾本か撮られています。私ですら名前を知っているくらいですから、百年経っても有名だったわけです。ただ、名前は知っていても、有名になった背景までは考えたこともありませんでした。

高橋お伝は、群馬県みなかみ町の生まれ。同郷の者と結婚し、ハンセン氏病を罹患した夫ともに横浜に出ます。ただ、看病の甲斐もなく夫は病死、以降、新富町で男と同棲します。お伝には借金があり、その返済を迫られます。知人の古着屋に用立てを頼むと、一晩付き合ってくれたら、貸さぬでもない、と言われます。背に腹は代えられないお伝は一夜を共にしますが、古着屋は金を出そうとしません。怒ったお伝は古着屋を殺害し、金を奪います。現場には、姉の仇を討ったという書き置きが残されていました。お伝は、ほどなく逮捕されますが、姉の仇を討った、古着屋が自殺したなどと虚偽の供述します。しかし、物的証拠によって犯行が明らかになり、1879年、斬首刑に処されています。ちなみに、斬首刑は、1882年まで行われていました。

もちろん、陰惨な事件ではありますが、世の中を騒がせ、後世まで語り伝えられるほどの事件とは思えません。大きな反響を呼ぶことになった最大の要因は、新聞の存在だったのではないかと思います。江戸期にも、木版のかわら版が人気を博していたわけですが、明治になると活版印刷機が導入され、1870年には、日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」が発刊されています。新聞は、ほどなく政治を論じる“大新聞”と娯楽を主とする”小新聞”に分化します。読売や朝日も小新聞の系譜と言えます。発刊まもない小新聞にとって、高橋お伝は、格好のネタとなったわけです。かわら版さながらの扇情的な記事が踊り、憶測も含めた報道がエスカレートしていったものと思われます。高橋お伝に関する報道は、今に続く日本のマスコミの本質を形成したと言えるかもしれません。

実態を超えて社会現象化した高橋お伝の事件ですが、マスコミが煽ったというだけでなく、庶民の心情に訴えるものもあったのではないかと思います。明治初期、新政府は近代化を急ぎますが、一方で、激変する社会に翻弄された庶民の戸惑いと気苦労は半端なかったと思います。読み物風の新聞記事は、いい憂さ晴らしになった面もあるのでしょう。そして、それ以上に、庶民は、お伝に我が身を見る思いがあったのではないかと思うのです。お伝は、毒婦として、多淫・多情・強欲と散々に批判されましたが、都市に流れ込み、都市に飲み込まれてしまった田舎者という庶民の典型でもあったわけです。加えて、庶民は、明治維新による混乱とストレスに翻弄される我が身を重ねていたのではないでしょうか。まるっきり他人事というわけでもなかったわけです。(写真出典:meiji.bakumatsu.org)

2025年6月24日火曜日

ミールス

麹町の「純印度料理 アジャンタ」は、何を食べても美味しい名店です。チャンドラ・ボースのもとで、兄とともにインド独立運動に参加していたジャヤ・ムールティーが、1957年に阿佐ヶ谷に開いたのがアジャンタの始まりでした。1949年開業のナイル・レストランの初代ナイルさんも、ビハリ・ボースとともにインド独立運動を戦った闘士でした。インド独立運動が日本にインド料理を広めたというわけです。アジャンタは、1961年、九段下に移転します。当時、南インド料理と銘打っていたのアジャンタだけだったと思います。美味しいのですが、とにかく辛いという印象でした。1985年には現在の麹町へと移転。以降、辛さは角がとれていったように思います。こっちの舌が慣れてきたせいかもしれませんが。

インド料理店が、どこでも見かけるようになったのは1980年頃からではないかと思います。当時は北インド系がメインでした。南インド系を見かけるようになったのは2000年前後からでした。コンピューターの2000年問題、いわゆるY2Kに備えるために、バンガロールはじめ南インドからIT技術者が多く来日したことがきっかけだったとされます。南インド系料理店が増えると、一気にミールスの知名度が上がります。ミールスは、南インドのワン・プレート・スタイルの定食です。米と複数の副菜で構成され、本格的にはバナナの葉に乗せて提供されます。北インドにもターリーという定食がありますが、小麦文化の北部では米ではなくナンが中心になります。ちなみに、ターリーは大皿という意味ですが、ミールスとは英語のMealが転じた言葉だとされます。

ミールスの主食は米ですが、豆せんべいのパパドが添えられます。パパドは砕いて米の上に散らして食べます。副菜には数種類の料理が並びます。日によって異なったり、選択できる店もありますが、南インドの辛い味噌汁といった風情のサンバールは必ず付いてきます。豆スープのラッサムも添えられることが多いと思います。他の副菜は、様々ですが、おおむね野菜の煮込みが中心です。東京の場合、店によっては、肉系もありますが、南インドでは考えられないはずです。南インドに限らず、インドは、基本的には野菜中心の食事をとる国ですから。また、アチャールも添えられます。アチャールには、実に様々なスタイルがありますが、発酵させたインド風の漬物といったところです。そして、食後の口直しとしてのヨーグルトもミールスの定番です。

また、南インド料理と言えば、忘れてはいけないものにドーサがあります。米と豆の粉に水を加えて練り上げて発酵させた生地を薄く円形に伸ばして焼きます。見た目は巨大なクレープですが、焼き上がると、それを巻いて棒状にして供します。食感も含めて、大好きなのですが、結構、満腹になります。米が主食のミールスと一緒に食べると、明らかに食べ過ぎになります。インドは、フラット・ブレッド文化圏の国ですが、国が大きいだけに、その種類の多さには驚かされます。北インドでは、ナンをはじめ、無発酵のチャパティ、揚げたプーリーなどが代表だと思いますが、南インドになると、ドーサの他に、蒸しパンのようなイドゥリ、クロワッサン的なパロッタなどがあります。ナンに詰め物をしたクルチャの一種チーズ・クルチャは、一時期、東京でも流行しました。

クアラルンプールで食べたドライ・ラクサが気に入り、家で再現を試みています。味のポイントは、えびだしパウダー、カレー粉、ココナツミルク、そしてサンバル・ペーストだと思っています。サンバル・ペーストは、何種類かクアラルンプールのスーパーで仕入れてきました。基本的には、南インドのサンバール・パウダーと同じだと思ったのですが、サンバル・パウダーは見つけられませんでした。名前は似ていますが、どうも別物であり、マレーシアのサンバルにはパウダー・タイプというものは存在しないようです。酸味と辛味は、よく似ているように思いますが、インドのサンバールに対して、マレーシアのサンバルは、エビなども入れて発酵させた辛味調味料であり、より複雑な味がします。(写真出典:macaro-ni.jp)

パーム・オイル