2025年12月12日金曜日

倭寇

王直
世界史の謎の一つとされるのが、紀元前12世紀頃、東地中海を荒らした「海の民」です。複数の民族から成る混成部隊であり、エジプト、ギリシャ、シリア一帯で破壊の限りを尽くします。鉄の精錬技術を独占して栄えたヒッタイトが滅亡した原因ともされています。海の民と命名されたのは19世紀のことですが、今でも、まったく実態が解明されていない謎の集団です。謎のままである理由は、彼らが文字を持たず記録が残っていないこと、そして襲撃はすれども占領しなかったため、痕跡が残っていないからです。歴史上実在したとされているのは、襲撃された国々に記録が残っているからです。世界中、海賊の類いは皆同じなのでしょうが、13~16世紀に東アジアの沿岸部を荒らした倭寇も謎の部分が多いと言えます。

倭寇も、一つの統制の取れた組織ではなく、複数の集団の総称に過ぎず、海賊行為、密貿易という性格から、記録を残すことも、襲撃した地に定住することもなかったわけです。海の民と同様に被害を受けた側の記録は多く残っていますが、全貌は不明のままです。倭寇の文献上の初出は、1223年の”高麗史”とされ、「倭寇金州(倭が金州を寇した)」との記述があるようです。つまり、倭人(日本人)が金州を襲撃したというわけです。通常、倭寇は、13~14世紀の前期と、16世紀の後期とに分けられます。前期は、主に日本人が朝鮮半島を中心に襲撃し、後期は、主に中国人が中国、東南アジア一帯を襲ったようです。後期も倭寇と呼ばれていることは面白いと思いますが、その頃までに倭寇は海賊の代名詞になっていたということなのでしょう。

前期倭寇は、九州北部から出撃していたと想定されています。室町時代末期から南北朝時代へと続く戦乱によって、食糧事情が悪化し、かつ取り締りも緩んだことが倭寇を生んだと言われます。朝鮮半島や中国でも、政権が不安定な時期であり、海防に緩みがあったようです。また、元寇の報復であったとする説もあります。結果的には、嵐のおかげで日本は元軍を退けたわけですが、九州北部一帯に上陸した元軍の強さは圧倒的で、武士のみならず民間人も多数犠牲になったようです。日本を襲った元軍の1/3は高麗軍であり、使われた船の多くは高麗のものでした。倭寇は、高麗への仕返しだったというわけです。元寇以前から確認されている倭寇ですが、元寇以降は報復という要素も加わり、苛烈な攻撃になっていった可能性もあるように思います。

後期倭寇は、中国人主体となるわけですが、その代表格の一人が王直です。現在の安徽省出身の王直は、塩商人を経て密貿易に手を染め、日本や東南アジアと取引を行います。明朝の圧迫を受けた王直は海賊に転じ、鹿児島の坊津に拠点を移し各地を荒らします。王直がもたらす富に惹かれた平戸松浦氏は、王直を平戸に迎え入れます。王直は、館を構え、王族のように振る舞っていたようです。ちなみに、日本への鉄砲伝来については、誤解されている面があります。種子島に漂着したポルトガル船が鉄砲をもたらしたと思われがちですが、実際のところ、難破して漂着したのはポルトガル人を乗せた王直の船でした。また、平戸にポルトガル人を連れてきたのも王直です。つまり、日本の窓を世界に向けて開けたのは倭寇だったわけです。

ザビエルの来日についても、倭寇が関わっていたと言ってもよいのでしょう。ザビエルに日本での布教を勧め、ゴアから日本へ案内したのはヤジロウです。彼の行動は、ザビエルに同行した期間だけ明らかになっているわけですが、その前後の人生に関する文献は無く、謎の人物と言えます。何らかの事情で鹿児島からマラッカに渡ったとされますが、宣教師ルイス・フロイスによれば、官憲に追われる海賊、つまり倭寇だったようです。ヤジロウの行動範囲の広さは、倭寇のダイナミズムを感じさせます。時は正に大航海時代、日本やアジアは欧州に“発見”されたということになりますが、実はアジアのなかでも倭寇による大航海時代が展開していたとも言えそうです。(写真出典:asahi.com)

2025年12月10日水曜日

イマジン

90歳になる先輩をケアホームに訪ねました。先輩は、若い頃からモーツアルト協会に参加するほどのクラシック・ファンであり、今も、毎日のようにモーツアルトとバッハを聴いているとのことでした。ところが、最近、ロックも聞くようになったんだ、と言うのです。クラシック以外には縁のない先輩だっただけに、驚きました。よく聞いてみると、ジョン・レノンの「イマジン」が気に入ったらしいのです。そのきっかけとなったのは、NHKの「アナザー・ストーリー」を見たことだったようです。アナザー・ストーリーは、テーマを三つの視点から見ていくという面白い番組です。イマジンの回では、ジョンの死、プラハのレノン・ウォール、同時多発テロ後のNYという切り口から語られていました。

イマジンは、ポピュラー音楽といったジャンル、あるいはヒット・チャートといった産業レベルを遙かに超えた名曲です。人類が到達し得た最高水準の文化の一つだとさえ思えます。シンプルな歌詞、やさしいメロディ、耳に残るピアノ伴奏。一度聞けば忘れることのない曲です。オノ・ヨーコの詩に基づく歌詞は、無邪気で、夢想的に過ぎます。しかし、それゆえ究極の真実を伝えます。農耕以降、人類が1万年に渡って悩み続けてきた個人と組織という問題に対し、ジョンはわずか3分1秒で解決策を示しました。もちろん、それが現実の問題を解決できないことは分かっています。しかし、全ての人がイマジンを共有することは、人類にとって希望そのものです。イマジンは、人類連帯の歌です。それがイマジンという曲を偉大にしています。

ジョン・レノンは、1980年12月8日、住居のある高級マンション”ダコタ・ハウス”の前で射殺されます。訃報が流れた直後、ダコタ・ハウス前には数百人のファンが集まります。そこで、彼らが歌っていたのは「ギブ・ピース・ア・チャンス」(1969)でした。反戦歌、プロテスト・ソングの傑作です。映画「いちご白書」(1970)のラスト・シーンは、円陣を組んでこの曲を歌う学生たちを警察が一人づつ排除するというものでした。センチながら時代を象徴していました。しかし、そのわずか2年後、イマジンをリリースしたジョンは、反戦やカウンター・カルチャーといったレベルを易々と超え、宗教すらも超越した領域に達するわけです。1985年、ダコタ・ハウスに近いセントラル・パーク内には、ジョンを記念する「ストロベリー・フィールズ」が設けられました。

今も世界中から多くの人々が訪れるストロベリー・フィールズには、銅像も石碑もありません。あるのは地面に埋め込まれたプレートだけであり、そこにはイマジンと刻まれています。それはオノ・ヨーコの”生きた記念碑”という発想に基づくと聞きます。ストロベリー・フィールズは、現代アートの作家オノ・ヨーコの最高傑作なのではないかと思います。単なるポップ・スターではなく、全人類に明確な思いを共有させたジョンに相応しい記念碑だと思います。プラハのレノン・ウォールは、ジョンの暗殺直後に姿を表わしたようです。西側の情報が遮断されていたにも関わらず、壁はジョンへの献辞で埋められ、自由を希求する多くの若者が集まる場所になります。危険を感じた当局は、レノン・ウォールに集まる若者を弾圧・拘束します。反撥した若者たちがデモを行い、それが全土に拡大し、ついに1989年、ビロード革命として共産党独裁を終わらせます。

アナザー・ストーリーの第3の視点である同時多発テロ後の話は知りませんでした。当時のアメリカ社会は、反テロ、反イスラム一色で、強く団結していました。当時、ラジオ局は、放送すべきではない曲の一つとしてイマジンをリストアップしていたようです。世界の融和を訴えるイマジンは、火に油を注ぎかねない状況だったわけです。しかし、徐々にイマジンを歌う若者たちが現れ、広がっていきます。そして、ついにTVの追悼番組でニール・ヤングが歌うことにもなりました。テロを主導したオサマ・ビン・ラディンは極悪人です。しかし、この1世紀、石油欲しさに中東の政治に介入し、テロを起こし、戦争を誘導し、罪のない多くの人々を死に追いやってきたアメリカに罪はないのでしょうか。足下、ウクライナ侵攻、ガザでのジェノサイドが続いています。イマジンを歌わなくてもいい日が来るようには思えません。だからこそ、イマジンは歌い継がれていくのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月8日月曜日

二官八省

幸いなことに、今年も正倉院展を見ることができました。加えて、一度も見たことがなかった正倉院そのものも、外観だけではありますが見ることができました。77回目となる今年の正倉院展には、平螺鈿背円鏡、鳥毛篆書屏風、木画紫檀双六局などの逸品に加え、花氈、蘭奢待、瑠璃杯といった渡来した名品も展示されていました。正倉院に収められている宝物は約9,000点ありますが、その9割以上が国内で作られたとされています。大陸の名品や技術をもとに秀逸な国産品を仕上げていたわけです。1,300年前とも思えぬその精緻な技に、毎回、感動させられます。その見事な工芸品を制作できたのは、日本人の手先の器用さといった話だけではなく、律令体制が生んだ組織力の賜物なのだろうと思います。

 ヤマト王権の政治体制や官職は、氏姓制度に立脚していました。氏(うじ)とは、物部、蘇我といった血縁を中心とする部族です。姓(かばね)とは、臣(おみ)、連(むらじ)といった氏の格付けを意味します。倭国大乱の後、部族連合として成立したヤマト王権の性格が反映されています。王権が強化され、中央集権化が指向されはじめた飛鳥時代になると、官僚組織も形を成してきます。ヒエラルキーを明確にして効率的な運営を目指す官僚組織に、部族単位の氏姓制度は不都合であり、604年、個人を単位とする冠位十二階が定められます。広く人材を登用することが可能になりました。とは言え、人選にあたっては、科挙の制度が導入されたわけではないので、やはり氏姓制度に依るところが大きかったようです。

その後、中央集権化がさらに進んで律令体制が築かれると、官僚機構はより精緻な姿になっていきます。中央では、いわゆる二官八省体制が登場します。二官とは、天皇の下に直接置かれる神祇官と太政官を指します。神祇官が祭祀を担当し、太政官が国政を統括します。太政官は、いわば内閣に相当し、太政大臣、左大臣・右大臣、大納言等からなる組織です。補佐組織である少納言局や左右の弁官局も含まれます。太政官の下に、実務組織である八省が置かれます。中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省です。八省の他にも、行政監察を行う弾正台、警護に当たる衛府、皇太子に仕える東宮、厩を司る馬寮、武器庫を担当する兵庫、后妃に仕える後宮などが置かれています。後には、規定にない令外官も置かれていくことになります。

メーカーも市場も未成熟な時代ですから、各省が、運営上、必要な物品があるとすれば、自ら作るしかありません。工芸品については、主に中務省、大蔵省、宮内省で制作されていたようです。中務省は、朝廷の政務を担当する組織ですが、図書寮、内蔵寮、縫殿寮、内匠寮、画工司等で工芸品が制作されています。大蔵省は、天皇の蔵の出入庫を管理しますが、織部司や、後に中務省に併合される縫部司、漆部司、典鋳司といった組織を持っていました。宮内省は、朝廷の庶務を担いますが、木工寮、鍛冶司、内染司、筥陶司なども抱えていました。各部署には、腕に覚えのある者が集められ、また育成も行われていたようです。細かく分化することで専門性が高まり、その仕事を担う家が登場することで技術が磨かれ、かつ継承されていきます。

歴史上、美術、音楽、文学、舞踊、工芸といった芸術が生まれ、育まれるのは宮廷です。強い王朝があれば、より高度な芸術が生まれます。王族と、その取り巻きの貴族や武家が文化の担い手であり、経済の高度化にともない商家にも広がっていきます。直接的な食糧生産から最も遠いところにあるのが宮廷と芸術だと言えます。律令体制による権力構造の組織化は、国家の始まりであるとともに、芸術の始まりでもあったわけです。正倉院の宝物の一部は、再現模造の取組が行われてきました。技術・技法の研究はもとより、技術の継承という観点からも取り組まれています。また、伊勢神宮の式年遷宮では、宝物類は全て新調されます。ここでも技術が継承されているわけです。いずれも、1300年間変わることなく、国家予算によって賄われています。(写真出典:diamond.jp)

2025年12月6日土曜日

「フランケンシュタイン」

監督:ギレルモ・デル・トロ        2025年アメリカ

☆☆☆+

ゴシック・ロマンに新たなマスター・ピースが誕生したように思います。フランケンシュタインは、吸血鬼ドラキュラ、ノートルダム・ド・パリ、ジキル博士とハイド氏などと並んで、19世紀ゴシック・ロマンを代表する作品です。メアリー・シェリーが、フランケンシュタインを出版したのは1818年のことでした。彼女は、アナキズムの創始者ウィリアム・ゴドウィンとフェミニズムの創始者メアリー・ウルストンクラフトの娘として、ロンドンに生まれます。ロマン派詩人パーシー・シェリーと結婚し、夫妻の盟友だった詩人バイロン卿に勧められてフランケンシュタインを書いたと言われています。

フランケンシュタインは、ドラキュラ同様、多くの娯楽作品のテーマとされてきました。ただ、これほど原作が無視されている作品も少ないのではないかと思います。まずは、フランケンシュタイン博士が死体から作り上げた怪物は無名だったのですが、いつしかフランケンシュタインと呼ばれるようになりました。また、初めから知性を持って誕生した怪物は、知性を持たないただの化物にされ、ロマンにあふれ哲学的でもあるストーリーが、単純な怪物退治の話に翻案される傾向があります。全ての間違いのもとは、1931年にハリウッドが製作し、世界的に大ヒットした映画「フランケンシュタイン」にあります。とりわけ、怪優ボリス・カーロフが演じた四角い頭の怪物は、フランケシュタインの定番イメージとなりました。

本作も、原作を忠実に再現しているわけではありません。ただ、翻案は、原作が持つテーマやテイストを尊重、ないしは強調する形で行われています。原作を、映画というフレームに収めるための工夫でもあるのでしょうが、原作以上に深みのある人間性の追求、あるいは産業革命以降の近代史観が巧みに織り込まれ、作品に奥行きを与えています。そういう意味では、原作を超える作品とも言えそうです。また、人間の強欲が生んだ20世紀の自然破壊という今日的な視点も盛り込まれています。それでいて、ゴシック・ロマンとしてのテイストやエンターテイメント性も十分以上に確保されています。「シェイプ・オブ・ウォーター」(2017)で各賞を総ナメにしたギレルモ・デル・トロですが、本作は、新たな代表作となるのでしょう。

また、デル・トロのスティーム・パンクへの思い入れも見事なものです。スティーム・パンクは、レトロでノスタルジックな19世紀的時代感を端的に表します。それだけでなく、科学が人間の想像力や夢のなかにあった時代を象徴しているとも言えます。20世紀になると、強欲さをむきだしにした資本主義は、科学に経済的な効率を最優先するというタガをはめていきます。科学の進展は喝采を浴びますが、人間よりも機械が優先される事態を生み、社会的な抵抗の動きも起きます。自然破壊に関しても警鐘が鳴らされますが、20世紀前半までは決して大きな動きではなかったように思います。スティーム・パンクは、科学技術が、まだ人間性や自然との調和をある程度保っていた時代への憧憬だと言えるのかも知れません。本作は、シェイプ・オブ・ウォーターの前日譚、あるいは原点のようにも思えます。

フランケンシュタイン博士役の オスカー・アイザック、怪物を演じた ジェイコブ・エロルディの名演が光ります。しかし、キャスティングで特筆すべきだと思ったのは、エリザベス役にミア・ゴスを起用したことです。原作のエリザベスはフランケンシュタイン博士の婚約者ですが、デル・トロ版では博士の弟の婚約者であり、博士と怪物の心をつなぐ結節点の役割を担います。デル・トロの思想をストーリーのなかに落とし込むにあたり、極めて重要、かつ象徴的なキャラクターと言えます。演技というよりも存在感の有り様がより重要な役回りだと思いますが、ミア・ゴスが持つ摩訶不思議なムードがピッタリはまっていました。(写真出典:eiga.com)

2025年12月4日木曜日

近畿

木曽三川
濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川は「木曽三川」と呼ばれます。若い頃、先輩から、木曽三川を超えれば近畿だと聞かされ、違和感を覚えました。近畿地地方と言えば、大阪、京都、奈良、滋賀、兵庫、和歌山の2府4県を指すと思っており、三重県は東海地方だと認識していたからです。初めて名古屋へ行った際にも、JR名古屋駅、いわゆる名駅の隣が近鉄名古屋駅であり、近鉄百貨店が建っていることに若干戸惑いました。JRグループに次いで長い営業路線網を持つ近鉄は、大阪、京都、奈良、三重、そして愛知の2府3県をカバーしています。とは言え、愛知に関しては伊勢から名古屋に至る路線だけあり、基本的に近鉄はその名の通り近畿地方をカバーする鉄道会社と言えます。そして、そこには三重県も含まれるわけです。

実は、近畿という言葉は、比較的新しい言葉です。明治期の教科書で使われたことから広まりました。その語源は飛鳥時代に登場した”畿内”にあります。畿とは都を意味し、畿内とは、大王の直轄地を指すとされます。646年の改新の詔には、畿内の範囲が明示されています。五畿とも言われ、大和、山城、河内、和泉、摂津の五国を指します。近畿とは、畿内の近隣も含めた地域という意味だと思われます。現代で言うところの首都圏なのでしょう。現在の首都圏は、一般的に東京、千葉、埼玉、神奈川の1都3県を指します。明治期になって作られた近畿という言葉は、現在の首都圏に適用されるのが正しいのではないかと思います。それをあえて関西エリアに使ったのは、東京遷都ではなく、東京奠都と称したのと同じ理由なのだと考えられます。

 明治政府は、公家の影響を排除するために天皇を東京に移し、かつ公家の反撥を抑えるために都は京都のままであると強弁します。従って、畿内も従前どおりの定義とされ、近畿もその周辺部を含む言葉とされたのでしょう。遷都の詔が発せられていない以上、これは筋の通った話です。一方、関西という言葉もあります。一般的には近畿とほぼ同じ地域を指しますが、より広く、より緩やかな定義です。律令時代の鈴鹿、不破、愛発の三関、後には逢坂関より東が関東とされ、その西が関西とされます。ただ、使われることは希だったようです。関西が一般化したのも明治以降です。東京奠都後、江戸で定着していた上方という言葉が不都合となり、関西という言葉が持ち出されたようです。近畿も関西も、明治政府の苦労がにじむ言葉だったわけです。

さて、上方という言葉ですが、都とその周辺を指す言葉として鎌倉末期に登場したようです。江戸期、政治の中心は江戸に移ったものの、文化・経済の中心が京都・大阪に残ったことから、上方という言葉が定着していきます。江戸初期、上質な酒や醤油などは関西から江戸に持ち込まれ、下りものと称されていました。今でもよく使われる”くだらない”という言葉の語源は、下りものではない、つまり上方から下った上質品ではないという意味だとされます。ちなみに、韓国へ行った際、くだらないの語源は、往時、先進国であった百済にはないほど劣悪なものという意味だと聞かされました。古代における日本と百済の関係の深さは理解するものの、この話は、いささか信じがたいところです。もちろん、礼儀として、即座に否定することはしませんでした、

話は三重に戻りますが、三重県の言葉も文化も明らかに関西の特徴を持っています。やはり、木曽三川が分かれ目なのだと言えます。ただ、三重県は、名古屋との経済的な関係が深く、中京経済圏の一角を占めます。愛知、岐阜とともに東海三県、あるいは静岡も加えた東海地方とも呼ばれます。行政上も、主にこの区分が使われています。三重県は、いわばデュアル・ステータスということになります。しかし、津、松坂、伊勢といった県の南部の人たちに言わせれば、四日市を中心とする北部は別な県だということになります。つまり、県北部は名古屋と一体化した東海圏であり、近畿地方である県南部とは大いに異なるというわけです。畿内の外縁部とは言え、古代から伊勢神宮を擁し、後には伊勢商人が大活躍した県南部のプライドは極めて高いということなのでしょう。(写真出典:jl-db.nfaj.go.jp)

2025年12月2日火曜日

「トレイン・ドリーム」

監督:クリント・ベントレー    2025年アメリカ

☆☆☆☆

とても上質で、永く印象に残る作品だと思います。主人公は、 伐採労働者として、アメリカ西部の山中で生涯を送った物静かで忍耐強い男です。彼の人生を通して、アメリカの現代史が淡々と語られていきます。同時に、それはアメリカを形作ってきた無名の人々への賛歌でもあり、消えゆく大自然への哀歌でもあります。原作は、デニス・ジョンソンのピュリッツアー賞の最終候補ともなった2011年の同名中編小説です。監督は、南部で牧場と林業を営む家に生まれた人で、本作が監督作品2作目となります。渋いキャストが揃うなか、主役のジョエル・エドガートンが、映画を決定づけるほどの名演を見せています。低予算映画ながら、アメリカでは、早くもアカデミー賞候補との呼び声が高い作品です。

産業革命、西部開拓、そして近代化と進む米国で、木材の需要は尽きることがなく、また広い国土にあって森林も尽きることがないように思えたはずです。森林の伐採は米国の近代化を支えたわけですが、その最前線で働く労働者たちは近代化に取り残された人々でした。機械化が進んだ現代でも、伐採労務は死亡率の高い危険な仕事です。20世紀初頭ならば、なおのことです。伐採労務者たちは、強欲の塊である資本主義の奴隷として働きながら、一方で自然を破壊することへの漠然とした恐れも感じています。それが姿を成したのが山火事であり、主人公は妻子を失うことになります。喪失感に打ちのめされた主人公は、世間から孤立していきます。それでも伐採の現場へ戻りますが、老いてゆく仲間の姿を見て、季節労務の仕事から離れます。

資本主義は人種差別をも生み出します。鉄道工事の現場で虐殺された中国人の幻影が、おりにふれて主人公の目に浮かびます。しかし、本作は、アメリカの現代史を批判的に描いた作品などではありません。失われた自然への哀惜や無名の人々に対する共感はありますが、物質文明や資本主義を論じているわけではありません。作品は、センチメンタルでノスタルジックなベールをまとっていますが、そのテーマとするところは無常観なのだと思います。ただし、仏教の無常観とは大いに異なります。仏教における無常観は空の概念へと導かれますが、本作の無常観は、”それでも人生には意味がある”という肯定につながっていきます。ラスト・シーンで飛行機に体験搭乗した主人公は、宙返りした瞬間に「天地が逆になり、全てがつながった」という思いにたどりつきます。

主人公のなかで、何が逆転したのでしょうか。主人公は、自然や社会と対峙し、さいなまれ、無力感を感じています。しかし、宙返りして天地が逆になった瞬間、自分が、ささやかながら自然の一部であり、歴史の一部であることを悟り、自らの人生を肯定することができたのだと思います。それは、プロテスタント・カルヴァン派の思想にも通じています。マックス・ウェバーは、カルヴァン派が資本主義を発達させた、と言っています。産業革命以降の経済発展はカルヴァン派によって成し遂げられたとも言われます。神が救う人は予め決められているが、それが誰かは分からない。少なくとも、選ばれた者は禁欲的に職業に励む者であるに違いない。カルヴァン派は、現実肯定の宗教であり、無名の人々の勤勉を後押しし、米国の発展に寄与したと言えます。

実は、この映画は”老い”についても語っているように思います。どこまで監督が意識しているのかは判然としません。ひょっとすると、テーマを展開するうえでのフレーム、あるいは副産物なのかも知れません。人それぞれの人生には、良いことだけではなく、悪いことも多々起こります。自らの人生を全肯定して穏やかな老後を過ごすか、深い後悔にさいなまれる日々を送るか、これは大きな違いです。美しい自然の映像、持続する穏やかなトーン、内省的なエドガートンの演技、これら全てが老人には深く刺さります。恐らく、多くの老人が、主人公に我が身を重ねて、この映画を見ることになるのでしょう。いずれにしても、なかなかの作品、なかなかの監督が登場したものだと思いました。(写真出典:imdb.com)

2025年11月30日日曜日

生月島

生月大橋
平戸の生月島は、”いきつきじま”と読みます。今回、初めて訪れたのですが、一緒に行った友人が、誤って”しょうげつじま”と呼んでいました。単純な訓読みですが、他には存在しない読みなので難読地名の一つと言えるのでしょう。古代、波の高い東シナ海を渡って帰国する遣唐使たちは、生月島を見て、初めて一息つけたものだそうです。その”息つき”が生月という名前になったとされています。どうにも眉唾っぽい話ではありますが、他にこれといった由来も思いつきません。生月島は、生月大橋で平戸島と、平戸島は平戸大橋で北松浦半島につながっています。陸続きの島としては、日本最西端ということになるのでしょう。東シナ海に面する生月島は国境の島だとも言えます。

生月島は、隠れキリシタンの島です。1553年、平戸松浦藩の重臣で生月島南部の領主だった籠手田安経が、大友義鎮の庇護を受けたバルタザール・ガーゴ神父から洗礼を受けます。1558年には、ガスパル・ヴィレラ神父が、生月を含む平戸で布教活動に入ります。結果、生月島では村ごとの集団入信が増え、寺社が教会に転用され、仏像などが焼かれたようです。当然、それは大きな反撥にもつながり、平戸藩主は、ヴィレラ神父を追放し、教会を閉鎖します。しかし、棄教を強制することはなく、生月島では信徒が増え、16世紀末には、3千人弱と想定される全島民がキリシタンになります。従来から存在した村の組織やヒエラルキーが、そのまま教会組織へと置き換わっていったことが、入信者拡大につながったでしょう。

江戸初期、禁教令が出ると、島民は信仰を隠して生きていくことになります。明治の解禁後にカソリックに戻った教徒は潜伏キリシタンと呼ばれます。キリスト教を独自の解釈で変化させ、解禁後も信仰し続けた人々が隠れキリシタンです。聖書もなく、神父は追放され、教会も閉じられた生月島では、隠れキリシタンが唯一の選択肢だったのでしょう。集団入信の場合、教義の理解が不十分であり、信仰の独自化が進んだとも言えます。生月島は、隠れキリシタンの島ゆえ、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の対象になっていません。ちなみに、追放されたヴィレラ神父は、その後、京都、次いで堺でも布教活動を行っています。本国への報告に際し、堺を”東洋のヴェニス”と呼んだことから、堺の名は欧州でも知られるようになりました。

江戸期、生月島は捕鯨の島としてその名を轟かせます。明治以降、捕鯨は廃れ、現在は一切行われていません。ただ、地元のスーパーマーケットには鯨コーナーがあり、様々な部位が冷凍販売されていました。鯨を食べる文化だけは、しっかり残っているわけです。生月島の捕鯨が最盛期を迎える頃、島から歴史に残る超大型力士が生まれています。その名も生月鯨太左衛門( げいたざえもん)。身長227cmという記録は、いまだに破られていません。18歳で大阪の小野川部屋に入門、翌年には江戸の玉垣部屋に移ります。江戸相撲での戦績は、3勝2敗115休。土俵入りには参加し、人々を驚かせていたようですが、いざ取組となると、巨体を恐れて対戦に応じる力士がいなかったようです。生月は、若干23歳で亡くなっています。死因は、脚気とも梅毒とも言われてます。

生月島の西側には、東シナ海の強風に削られた断崖絶壁が続きます。島の最北端には大バエ灯台があります。80mの切り立った崖の上に建つ白い灯台は、どこか日本離れした光景に見えます。灯台には展望台があり、強風吹きすさぶなか、東シナ海に沈む夕陽を見ることが出来ました。ちなみに、大バエとは妙な名前ですが、これは通称であって、正式名称は”大碆鼻灯台”です。碆(ばえ)とは、矢じりにつける石を意味します。転じて、尖った地形の場所の名称にも使われるようです。思えば、生月島自体も矢じりのような形をしているように思います。灯台を南に下ると御崎浦があります。江戸期、漁民3,000人以上、鯨舟200隻、年間捕獲数200頭以上を誇った日本最大の鯨組”益富組”が拠点としていた浦です。現在は、数隻の小型漁船が舫う港だけがあり、往時を偲ぶものは何一つありません。(写真出典:jalan.net)

倭寇