2025年8月21日木曜日

ラジオ体操

子供の頃、夏休みの朝はラジオ体操で始まりました。近所の公園などに集まって行います。カードが渡され、参加すると、毎朝、スタンプが押されます。夏休み明けに学校へカードを持っていくと、皆勤賞として鉛筆か何かをもらえたように記憶します。気持ち良いとか、爽やかとか、と思ったことはありませんし、好きでもありませんでした。朝、たたき起こされて参加するわけですから、張り切って参加するようなものでもありませんでした。ただ、体操自体が嫌いだったわけではありません。ラジオ体操は、よくできたストレッチ運動であり、体操の授業や部活の始まりでもやっていました。問題は、体操そのものではなく、早朝、集合して体操させられることです。 

自由参加といいながら、半ば強制的、義務的というインチキぶりが嫌いでした。後知恵ではありますが、偽善的、全体主義的な匂いがしたわけです。爽やかさを押しつけてくるラジオ体操の歌も、アナウンサーの声も好きになれませんでした。もっとも、眠いので嫌だったという面は否定できませんし、子供時分から、みんなで明るく的なものが苦手だったこともあります。ラジオ体操は全体主義の道具だと言い切ったのはGHQでした。もっとも、問題にされたのは満州でのラジオ体操の強要でしたが、戦後の一時期、ラジオ体操は中止されます。1980年代末に至り、アメリカの中西部で、そのことを思い出しました。円高が進み、日本メーカーの直接進出が盛んになり、毎週のように、どこかで日本のメーカーの工場がオープンしていた頃のことです。

親会社が米国に出れば、下請会社もついて行かざるを得ません。日本の地方から中西部に進出した自動車部品メーカーを訪問した際、日本人の社長が、アメリカ人も、誠意を持って向き合えば、我々の文化を理解してくれると、感慨深げに語っていました。その工場では、ほぼ完璧に日本式の工場運営を持ち込んだというのです。朝礼を行い、ラジオ体操をして、小集団活動も行っているとのことでした。最初はとまどっていた現地従業員も、今では喜んで参加していると言うのです。日本のものづくり文化は正しかったと言わんばかりの社長さんに、それは単なる勘違いですよ、とは言えませんでした。当時、どん底にあったアメリカの労働市場では、給料を払ってくれれば何でもする、というムードがありました。給料を倍にすると言えば、君が代だって歌ったと思います。

この種の行事では、主催者側と参加者側の意識のギャップは大きくなりがちです。ただ、全体主義的な印象はあるものの、ラジオ体操は軍部が発明したものではありません。1928年(昭和3年)に、逓信省簡易保険局が、昭和天皇即位を祝う事業の一環として始めています。なぜ簡保局かというと、国民の健康増進に関わるからでもありますが、きっかけとなったのが簡保局の監督課長がアメリカ視察の際に見聞したラジオ体操だったからです。世界初のラジオ体操は、1922年、ボストンで放送されています。監督課長が見聞したのは、メトロポリタン生命が提供していた番組だったようです。日本での放送開始から2年後の1930年、神田万世橋署の児童係だった面高叶巡査が呼びかけ、子供たちが集まりラジオ体操をする会がスタートします。諸説ありますが、どうやらこれがラジオ体操会の起源のようです。

それは、太平洋戦争へと続く満州事変が起こる1年前のことでした。ラジオ体操、ラジオ体操会、いずれの起源にも軍部は関与していません。ただ、満州事変以降、戦時体制が強化されていくなかで、全体主義的には重要な役割を果たしたのではないでしょうか。放送開始から100年近く経った今、ラジオ体操会はどうなっているのか調べてみました。近所に限っての話ではありますが、開催している町内会は少なく、開催している町内でも期間は1週間程度に限定しているようです。コロナ禍が転機となったのだと思います。想像するに、参加者は、子供たちよりも、高齢者の方が多いのではないでしょうか。(写真出典:nagasaki-np.co.jp)

2025年8月19日火曜日

USS コンスティテューション

日本でもクルーズ客船の人気が高まっているようです。私の周囲にも、行ってみたいと言う人が増えました。私は、退屈するに決まっているので乗りたいとは思いません。移動と宿泊がセットで効率的と言いますが、移動に時間が掛かりすぎるとも言えます。食事、エンタメ、アクティビティが充実し、かつオールインクルーシブでお得と言いますが、数日で飽きると思います。大きいとは言え閉鎖空間なので、息が詰まり、よほどの社交好きでもなければうっとしいはずです。しかも波が穏やかな日ばかりではありません。いずれにしても、クルーズ旅の本質は、のんびり、ゆっくりすることなのでしょう。それを目的にできない人は行くべきではないと思います。

と言いながら、過日、気になる広告を目にしました。新造された大型帆船による豪華クルーズです。その船で旅をしたいとは思いませんが、乗ってはみたいと思いました。そもそも帆船が好きで、特に19世紀以前の帆船には強く惹かれます。旅先に記念艦があれば、必ず乗船します。記念艦は、博物館船とも呼ばれ、保存・公開されている歴史的価値の高い艦船を指します。世界三大記念艦とされるのは、横須賀の「三笠」、英国ポーツマスの「ヴィクトリー」、そして米国ボストンの「コンスティテューション」です。いずれも軍船です。歴史的価値、あるいは保存体制といった観点から、記念艦は、おのずと軍船が多くなるのでしょう。日露戦争のおり、日本海海戦で活躍した三笠は蒸気船ですが、他は18~19世紀に活躍した帆走軍船です。

1797年就役の「USS コンスティテューション」、愛称「オールド・アイアンサイド」は、ボストン港の海軍施設に停泊し、一般公開されています。ボストンの観光名所フリーダム・トレイルのポイントの一つでもあります。USS(United States Ship)と付くだけあって、アメリカ海軍の現役艦であり、航行可能な就役艦船では世界最古とされます。アメリカを象徴する船として大事にされ、大きな記念式典などにも登場します。3本マストに砲数44門というフリゲート艦ですが、当時の標準的なフリゲートよりも大型だったようです。フリゲートは、帆船の等級を表します。2層、3層の砲列甲板を持つ大型の戦列艦に比べ、フリゲートの砲列甲板は単層で、より小型でより高速な軍船でした。哨戒、護衛、通商破壊等を主な任務としました。

コンスティテューションは、1812年に勃発した米英戦争で大活躍しています。当時、無敵とされた大英帝国海軍を相手に、5隻の軍船を大破・捕獲し、多くの商船を捕獲します。厚さ178cmというオーク材の側板、44門の砲を支えるための筋交いは、敵の砲弾をはじき返し、無傷のままだったといいます。それを見た英国の水兵たちは、コンスティテューションを「オールド・アイアンサイド」と呼びました。建国間もなく貧弱な海軍力しか持っていなかった米国のフリゲートが、世界一の海軍を次々と破っていく様に、国民は喝采を送ります。こうして、コンスティテューションは米国海軍の誇りとなり、国民に勇気を与えた伝説のフリゲートになったわけです。1830年、コンスティテューションは退役しそうになりますが、圧倒的な国民の声によって再建、再就役しています。

しかし、ほどなく蒸気船と鉄鋼船の時代がやってきます。コンスティテューションは、幾度か廃船の危機を迎えますが、やはり国民の声によって乗り越えます。今でも、コンスティテューションは、アメリカ人が最も愛する船であり続けています。それにしても、「憲法」という大仰な船名にはいささか驚きます。コンスティテューションと同時に建造された他のフリゲートの船名も「ユナイテッド・ステイツ」となっており、実に立派なものです。ほとんど軍船を持っていなかった新興国の思いが詰まった船名なのかもしれません。その後の米国海軍の船名には人名が多く使われています。ちなみに、日本は、伝統的に、軍船に人名を付けることはしません。その理由は、明治天皇が沈没した際の悪影響を懸念したためとされます。(写真出典:en.wikipedia.org)

2025年8月17日日曜日

十牛図

実家の近くに伯母夫婦の家がありました。伯母夫婦は、揃って旅に出ることが多く、その都度、留守番を頼まれました。夜は和室で眠るのですが、その床の間に30~40cmはあろうかという牛とその上で笛を吹く童子のブロンズ像が置かれていました。その牧歌的な姿には穏やかさが漂い、見ていると心が安らぐので、結構、お気に入りでした。牛と童子という組合せは、たまに目にすることもあったので、何を意味しているのかなど、まったく気にもなりませんでした。実は、十牛図の第6図「騎牛帰家」を像にしたものでした。十牛図は、悟りに至る十段階を表すとされます。北宋の臨済宗の禅僧・廓庵が、仏の道を人々に分かりやすく伝えるために考案したものです。

十牛図の牛は自己の仏性を表し、童子にはそれを探し求める自分が投影されていると言われます。十牛図は、十枚の図と詩で構成されます。括弧内は、私なりの解釈です。

尋牛(牛を探す)
見跡(牛の足跡を見つける)
見牛(牛の声を聞き、後姿を見る)
得牛(見つけた牛に手綱をかけるが暴れられる)
牧牛(なんとか牛を馴らす)
騎牛帰家(牛に乗って笛を吹きながら家に帰る)
忘牛存人(家に着くと牛は消え、自分が牛を得たことも忘れる)
人牛倶忘(牛だけでなく、ついに自分をも忘れ、空の世界に入る)
返本還源(世の中の本当の美しい姿が見えてくる)
入鄽垂手(悟りを得た者は、それを広く伝えなければならない)

十牛図は、悟りに至るプロセスを示すというよりも、禅僧の修行プロセスを語っているように思えます。第3図の見牛までは、自己の仏性を求めて座禅と問答を繰り返します。第4図の得牛で、おぼろげながら真理を理解するまでに至りますが、あまりにも捉えどころがなく苦悶します。第5図の牧牛では、ついに自己の仏性と自己が一体化し、次の第6図の騎牛帰家は、心が穏やかになり、修行が終盤に入ったことを表現しているのでしょう。騎牛帰家の絵や像が好まれるのは、修行を成し遂げて得られた平穏という理想を表しているからなのでしょう。第7図と8図では、修行や理屈を超え、自己の存在すら消滅する境地、つまり全ての物質が全否定された色即是空の世界に入ります。これが解脱であり、涅槃の境地に入ったことを示しているのだと思います。

涅槃寂静の境地に達した者は、如来と呼ばれます。解脱したのは、釈迦如来のみとされますが、他にもごくわずかですが如来と呼ばれる仏様もいます。菩薩、観音も高位の求道者ではありますが、涅槃の境地には達していません。解脱することは、それほど難しいわけですから、第8図までで終わってもよいのではないかと思います。しかし、第9図には、現世が新たな美しい姿で見えてくるという大きな展開が待っています。いわば全否定したからこそ、世界は全肯定という美しい姿を現わすというわけです。この展開は、弁証法に通じるものがあるとも言われます。禅が欧米人に人気があるのは、全否定から全肯定という展開が弁証法のアウフヘーベンに似ているからだと聞いたことがあります。分かったような分からない話ではあります。

昨年の東京国際映画祭で上映された蔦哲一朗監督の「黒の牛」は、十牛図を映像化した作品でした。示唆に富む映画だったと思います。監督なりの解釈による十牛図ということもあり、やや難解なところがありました。十牛図で言えば、映画は得牛というレベルにあったようにも思います。空という概念は、本当に難しいと思います。おぼろげにその概念を理解することはできても、それを人に説明する、さらには体得して生きていくとなると至難の業となります。蜃気楼のようでもあります。それを映像化しようというチャレンジは、賞賛に値します。しかし、「黒の牛」は、十牛図に迫るほどの説得力は持っていませんでした。(写真出典:shop.takarasagashi.co.jp)

2025年8月15日金曜日

「アイム・スティル・ヒア」

監督: ヴァウテル・サレス    2024年ブラジル・フランス

☆☆☆☆

1964年、ブラジルでは、アメリカに支援されたカステロ・ブランコ将軍がクーデターを起こし、左派政権を倒します。東西冷戦の時代、キューバ革命に恐れを成したアメリカは、南米各国の左傾化に神経をとがらせ、様々な介入を行っていました。ブラジルの軍事独裁政権は、1985年まで続きます。言論統制、左派勢力への弾圧が行われますが、とりわけ1969年に大統領に就任したガラスタス・メディチ将軍は、検閲を強化し、反対勢力に対する法的根拠のない逮捕や投獄、誘拐、拷問など信じがたい人権侵害を繰り返します。メディチ時代は、「鉛の時代」と呼ばれます。本作は、鉛の時代、1971年に発生した元国会議員ルーベンス・パイヴァの逮捕・失踪事件に基づいています。

本作は、典型的な政治サスペンス映画とは全く異なり、ルーベンス・パイヴァの妻エウニセ・パイヴァの苦難と戦いの40数年が描かれています。実に画期的なアプローチだと思います。ルーベンスの自宅は、イパネマ海岸近くの高級住宅街にある海に面した家でした。ある朝、軍関係者が自宅を訪れ、彼を連行します。軍も国も、ルーベンスの逮捕に関して、知らぬ存ぜぬを決め込みます。エウニセは、5人の子供を育てながら、軍や国と戦い続けます。戦うために法律を学んだ彼女は、弁護士資格も取得し、先住民を助ける活動も行っています。エウニセの辛抱強い取組の結果、逮捕から30年を経て、国はルーベンスの死亡証明を出し、軍も殺害への関与を認めます。しかし、1979年の恩赦を理由に実行犯の公表と処分はなされず、遺体の所在も不明のままです。

エウニセは、15年間、アルツハイマーを患い、2018年、89歳で亡くなっています。エウニセを演じたのは、俳優で作家という才人フェルナンダ・トーレスです。その抑制の利いた演技は実に見事なものです。彼女は、その演技で、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ主演女優賞を獲得しました。実は、彼女の母親は、ブラジル史上最高の女優とされるフェルナンダ・モンテネグロであり、かつて、アカデミー賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされながらも受賞を逃しています。親の無念を子が晴らしたわけです。95歳になる彼女は、本作でも、老年のエウニセを演じ、さすがの演技を見せています。ちなみに、本作自体も、アカデミー作品賞にノミネートされ、ブラジル初となるアカデミー国際長編映画賞を獲得しています。

「セントラル・ステーション」(1998)でベルリンの金獅子賞を獲得しているヴァウテル・サレス監督は、実に巧みな監督だと思います。本作冒頭のシークエンスでも、その巧みさを見せつけています。映画は、ルーベンス一家の幸せな日々のスケッチから始まります。やや長めですが、決して冗漫ではなく、軍政の緊張感も含めた時代感が表現されます。実は、この流れるように描かれる日常は重要なメッセージを持っていると思います。ブラジルは、軍政下にありながらも、驚異的な高度成長を成し遂げ、人々は豊かさを実感しました。しかし、一方で、検閲・人権侵害、文化の弾圧が行われていたわけです。全体主義は、甘いマスクを被って人々に近づくものです。右傾化のリスクに直面する昨今のブラジルにとって、このメッセージはとても重要なのだと思います。

音楽は時代感をよく伝えるものです。本作も、音楽をうまく使っています。軍事政権は、音楽も弾圧し、例えば、ボサノヴァは退廃的だとして禁止されます。サンバにロックの要素も加えたトロピカリアは、MPB(ブラジルのポピュラー音楽)の新しいムーブメントでしたが、反体制的なプロテスト・ソングでもあり、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルは投獄され、その後、亡命せざるを得ませんでした。軍事独裁時代、最低でも400人以上が殺害・行方不明となり、2万人以上が拘束されたとされます。これでも、アメリカに支援された南米の他の軍事政権に比べれば少ない方です。日本では、ブラジルの軍事独裁時代の認識が薄いように思います。それは、犠牲者が相対的に少なく、経済が成長し、サッカーのワールド・カップも開催されたからなのでしょう。しかし、そこでは信じがたい人権侵害が行われ、かつ、いまだ清算されていないわけです。(写真出典:eiga.com)

2025年8月13日水曜日

上野の西郷さん

上野公園の入り口近くに 、西郷隆盛像があります。「上野の西郷さん」と呼ばれて人々に親しまれ、東京を代表する名所ともなっています。明治の元勲たちの銅像と言えば、軍服か礼服を着ているものです。犬を連れ、寸足らずの浴衣をまとった西郷さんは、親しみやすいとも言えますが、かなり異様な姿でもあります。西郷像は、旧薩摩藩の有志によって計画され、1898年に序幕しています。西郷隆盛夫人は、主人はこんな人じゃなかった、と発言し、物議を醸したという話が伝わります。西郷の写真は一葉も残っていません。作者の高村光雲は、多くの人々の意見をもとに制作したようですが、人によって見る印象は大きく異なっていたものと思われます。

西郷隆盛像が軍服を着ていない理由は明確です。西郷は、戊辰戦争を新政府側の勝利に導いた立役者ながら、西南の役では朝敵、賊軍となります。1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復したことから、銅像の建造計画も動き始めます。とは言え、朝敵となった人間に帝国陸軍大将の軍服を着せることは、さすがに憚られたのでしょう。加えて、明治政府は、軍服姿の西郷像が反政府勢力の求心力になることを恐れたのかもしれません。だとすれば、そもそも政府は、何故、西郷像の建造を許可したのか、という疑問も湧きます。明治政府は、一気に中央集権化を進めるため、賊軍に対して厳しい処置を行っています。建造が許可されたのは、西郷が維新の同志であること、あるいは既に中央集権化が実現していたからなのかもしれません。

明治政府が銅像の建造を許可した最大のねらいは、旧薩摩藩士、西郷を支持した士族、そして明治政府に不満を抱き、西郷にシンパシィを感じる国民の懐柔にあったものと思われます。明治政府は、建造資金の一部を提供しています。一方で、皇居前という設置場所の案を拒否し、上野恩賜公園を指定しています。さらに、西郷像の目線は、皇居を外して、南南東に向けられています。南南東に意味があるとは思えませんが、強いて言えば、先には流刑地だった八丈島があります。明治政府が加えた微妙な匙加減が感じられます。その最たるものが、浴衣姿だったのでしょう。庶民的と言われますが、家族や旧薩摩藩士からすれば、屈辱的だったのではないかと思われます。しかし、名誉回復したとは言え、朝敵だったことを考えれば、文句も言えなかったわけです。

西郷像に限らず、薩長政権の、かなり強引な、時としてきめ細かな広報戦略には驚かされます。王政復古という方便、官軍賊軍という構図を生んだ錦の御旗、武士集団を無力化した版籍奉還、廃藩置県など、天皇を利用して、倒幕・中央集権化を成し遂げたものの、実態は武家政権の交替だったわけですから、様々、辻褄を合わせる必要があったということなのでしょう。その天使のような大胆さと悪魔のような細心さには舌を巻きます。しかし、広報戦略をリードした元勲や外国人顧問の名前は聞いたことがありません。想像するに、多くは、冷徹な政治マシーンとも言える大久保利通のセンスによるものだったのではないでしょうか。ビスマルクを目指したという大久保は、内務省を通じて、独裁体制を築いています。

今につながる日本の官僚体制は、すべて大久保の内務省に始まると言ってもいいと思います。西郷像に関する匙加減は、既に大久保が暗殺された後のことですから、彼の薫陶を受けた内務官僚たちによるものだったのでしょう。武力で政権を奪取した者が最も恐れるのは武力革命です。武家を一気に無力化し、薩長による中央集権化を実現した大久保は、1878年、不平士族によって暗殺されます。西南の役の翌年のことです。西南の役は、西郷が自ら朝敵となり、自らの命と引き換えに武家の不満を抑えたという面もあります。幼なじみの西郷と大久保は、大きな絵柄を共有し、それぞれが得手とする分野で、命を懸けて武士の無力化を成し遂げたとも言えるのでしょう。大久保が生きていたとすれば、浴衣姿の西郷像を見て何と言ったか聞いてみたいように思います。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2025年8月11日月曜日

「美しい夏」

監督:ラウラ・ルケッティ         2023年イタリア

☆☆☆

イタリアを代表する文学者チェーザレ・パヴェーゼのストレーガ賞を受賞した小説「美しい夏」(1949)が原作です。1938年、兄とともに田舎からトリノに出てきた16歳の少女が、都会の生活や大人の世界に、戸惑いながらも強く惹かれ、傷つきながら大人になっていく、というストーリーです。パヴェーゼは、ネオレアリズモの作家として知られ、マルキストで戦時中はパルチザンでもありました。ネオレアリズモは、ファシズムへの抵抗として、よりリアルで、より客観的に社会や人物を描きました。文学では、パヴェーゼ、エリオ・ヴィットリーニ、イタロ・カルヴィーノ、アルベルト・モラヴィア等が知られ、映画では、ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」、ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」が代表作と言えます。

イタリア最高の文学賞を受賞した原作の映画化は、なかなかの挑戦だと思います。ラウラ・ルケッティ監督は、豊かな言葉の世界を、短いカット、甘美な音楽、主演の演技で、そこそこにそつなくこなしていると思います。ある意味、正攻法とも言えます。ただ、ドラマティックな展開を持つわけではない原作を考えれば、映画としてはメリハリに欠ける平板な作品になることは避けがたいと思います。2つばかり長いショットで入れて山場を作ろうとしていますが、決してうまくはいっていません。また、不思議なことに、この映画は時代を感じさせません。背景、服装といったセッティングに抜かりはないと思うのですが、何故か現代的な印象を受けます。実のところ、それは監督のねらったことだったようにも思えます。

本作は、大人になっていく少女に、ファシズムに巻き込まれていく民衆の心理を投影しているのではないかと思います。そのことが、あからさまに、直接的に表現されているわけではありません。映画には、ムッソリーニのラジオ演説とポスターが登場するのみです。トマス・マンが「マリオと魔術師」でファシズムの本質を描いたように、ファシズムと戦ったパヴェーゼも、異なるアプローチでファシズムと大衆との関係を表現したかったのではないでしょうか。原作が発表されたのは、戦後のことです。ファシズムを克服したイタリアの民衆が大人になった主人公に、病気から立ち直ったあこがれの女性にイタリアの文化が象徴されているように思います。そして、右傾化するイタリアの現状を踏まえ、それは決して過去のことではない、と監督は言っているのでしょう。

本作の難点の一つは、主演女優だと思います。素朴さや田舎くささを表現した熱演だとは思いますが、残念ながら16歳の少女には見えません。作品のバランスを崩しているように思いますが、演技力を求めた結果なのか、あるいは意図的に少女っぽさを避け,作品の真のテーマを伝えようとしているのかも知れません。一方、少女が憧れるヌード・モデルの女性を演じたディーヴァ・カッセルは、見事な存在感を示しています。彼女は、イタリアの宝石と呼ばれるモニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルの娘です。本作が映画デビューとなりますが、17歳からモデルとして活躍し、20歳の今、既にトップ・モデルとなっています。初々しさとともに未熟さも感じさせますが、存在感と貫禄はなかなかのものであり、新たな宝石がモダンな姿で登場したといった印象を受けました。これからの活躍が楽しみだと思います。

舞台となっているトリノは、イタリア第二の工業都市です。イタリア統一の中核となったサヴォイア家のサルデーニャ王国の首都でもありました。後にフィアットの企業城下町として栄えます。フィアットとは、FABBRICA(工場)ITALIANA(イタリアの)AUTOMOBILI(自動車)TORINO(トリノ)の頭文字をとったものです。工場労働者の多い街は、労働組合運動の盛んな街でもありました。ムッソリーニのファシスト党が政権を取ると、トリノでは、労働組合への弾圧、同性愛者への弾圧が行われます。一方、反ファシズム運動が展開されたことでも知られる街です。本作の舞台がトリノであることは、単なる偶然ではありません。(写真出典:natalie.mu)

2025年8月10日日曜日

槍は、敵を突いて刺す武器です。ところが、戦国時代の足軽たちは、合戦に際して、まずは敵を槍で叩くことから始めていたと聞き、驚きました。その威力は、直撃すれば兜を打ち砕くほど強力だったといいます。突いて刺すのは、さらに敵と接近してからだったようです。大雑把に言えば、鎌倉時代までの合戦は武士同士の一騎打ちが中心だったわけですが、応仁の乱以降の合戦は大規模化し、足軽中心の集団戦へと変化します。そのなかで、修練しなくても扱いやすい槍が足軽の武器となります。また、槍は、足軽でも騎馬の武士に挑むことを可能にしました。さらに槍兵を隙間なく並べて作る「槍衾(やりぶすま)」や敵の側面を槍兵で崩すといった集団戦術も生み出します。

槍は、先史時代から、狩猟用具として、武器として世界中で使われてきました。日本では、弥生時代に青銅が伝わり、銅剣、銅矛、銅戈といった武器も生まれます。この頃は、槍ではなく矛がメインだったようです。矛は、槍に比べて、幅広で両刃の穂先を持つ刺・斬両用の武器です。矛の柄はソケット式、槍の柄は茎(なかご)を差し込んで固定するという違いもあるようです。古代は、片手に矛、一方に盾を持って戦っていたようです。古墳時代、鉄器が普及すると、武器としての矛は鉄太刀に変わっていきます。平安期には、太刀に加えて、薙刀が主流になります。古代の武器は、冶金技術の高度化、合戦の戦術の変化、甲冑の進化などと呼応しながら、変わっていくわけです。ちなみに、甲冑が進化することによって、盾は廃れていきました。

戦国時代の合戦における主な武器は、弓、槍、太刀でした。鉄砲も登場していたわけですが、数も少なく、装填に時間が掛かることもあり、主役とまではいかなかったようです。集団戦化ともに普及した槍ですが、必ずしも足軽専用の武器というわけではありません。戦場における威力からして、武士たちも槍で戦うようになります。太刀の出番がなくなるほどだったようです。恐らく強化された甲冑を考えれば、太刀では跳ね返され、槍ならば突き刺すことも可能だったということなのでしょう。槍の弱点は、密集した近接戦において柄の長さが邪魔になるということですが、四畳半での一騎打ちでもない限り、屋外ではさほど問題になることもなかったのでしょう。武士が槍を使うようになると、武芸としての槍の流派も生まれてきます。

江戸初期にかけて、多くの流派が創設されたようですが、その後、勢いを失ってきいきます。主要な武器としての気位が高く、伝統と形式にこだわりすぎたためとされています。江戸後期になると、防具も登場し、他流試合も行われ、より実践的な姿を取り戻した槍術は息を吹き返します。ただ、明治になると、他の武芸と同様に廃れていきます。戦の形も様変わりし、何よりも武士がいなくなったわけですから、止むなしといったところです。それでも、剣術は、剣道として体育の授業に採用されたこともあり、生き延びます。長大な道具ゆえ体育には不向きだった槍術は消えていきます。もちろん、今でも、宝蔵院流高田派などいくつかの流派は活動を続けています。槍は、戦場における実用性の高さゆえ、平時には廃れていって当然だったのかもしれません。

幕末、江戸城の無血開城によって、江戸の町と多くの人命を救ったのは勝海舟と西郷隆盛だとされます。当時、幕府側にはフランス、新政府側には英国がついており、混乱に乗じて日本を植民地化する計画を持っていたとされます。無血開城によって、植民地化のリスクも回避されたわけです。しかし、無血開城は勝海舟の手柄ではなく、徳川慶喜を説得した高橋泥舟、勝海舟に先立って西郷と折衝した山岡鉄舟の手柄であるという説もあります。幕末の三舟とも言われる3人ですが、泥舟は、槍術の名門である自得院流宗家に生まれ、達人の呼び声高い人でした。そして、鉄舟は入り婿として自得院流宗家を継いだ使い手でした。両者とも、実に肝の据わった典型的サムライだったとされます。まさにラスト・サムライとも言える二人が、共に槍の達人だったことは、槍という武器の実践的な性格からして、頷けるところがあります。(写真出典:sankei.com)

ラジオ体操