2025年11月30日日曜日

生月島

生月大橋
平戸の生月島は、”いきつきじま”と読みます。今回、初めて訪れたのですが、一緒に行った友人が、誤って”しょうげつじま”と呼んでいました。単純な訓読みですが、他には存在しない読みなので難読地名の一つと言えるのでしょう。古代、波の高い東シナ海を渡って帰国する遣唐使たちは、生月島を見て、初めて一息つけたものだそうです。その”息つき”が生月という名前になったとされています。どうにも眉唾っぽい話ではありますが、他にこれといった由来も思いつきません。生月島は、生月大橋で平戸島と、平戸島は平戸大橋で北松浦半島につながっています。陸続きの島としては、日本最西端ということになるのでしょう。東シナ海に面する生月島は国境の島だとも言えます。

生月島は、隠れキリシタンの島です。1553年、平戸松浦藩の重臣で生月島南部の領主だった籠手田安経が、大友義鎮の庇護を受けたバルタザール・ガーゴ神父から洗礼を受けます。1558年には、ガスパル・ヴィレラ神父が、生月を含む平戸で布教活動に入ります。結果、生月島では村ごとの集団入信が増え、寺社が教会に転用され、仏像などが焼かれたようです。当然、それは大きな反撥にもつながり、平戸藩主は、ヴィレラ神父を追放し、教会を閉鎖します。しかし、棄教を強制することはなく、生月島では信徒が増え、16世紀末には、3千人弱と想定される全島民がキリシタンになります。従来から存在した村の組織やヒエラルキーが、そのまま教会組織へと置き換わっていったことが、入信者拡大につながったでしょう。

江戸初期、禁教令が出ると、島民は信仰を隠して生きていくことになります。明治の解禁後にカソリックに戻った教徒は潜伏キリシタンと呼ばれます。キリスト教を独自の解釈で変化させ、解禁後も信仰し続けた人々が隠れキリシタンです。聖書もなく、神父は追放され、教会も閉じられた生月島では、隠れキリシタンが唯一の選択肢だったのでしょう。集団入信の場合、教義の理解が不十分であり、信仰の独自化が進んだとも言えます。生月島は、隠れキリシタンの島ゆえ、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の対象になっていません。ちなみに、追放されたヴィレラ神父は、その後、京都、次いで堺でも布教活動を行っています。本国への報告に際し、堺を”東洋のヴェニス”と呼んだことから、堺の名は欧州でも知られるようになりました。

江戸期、生月島は捕鯨の島としてその名を轟かせます。明治以降、捕鯨は廃れ、現在は一切行われていません。ただ、地元のスーパーマーケットには鯨コーナーがあり、様々な部位が冷凍販売されていました。鯨を食べる文化だけは、しっかり残っているわけです。生月島の捕鯨が最盛期を迎える頃、島から歴史に残る超大型力士が生まれています。その名も生月鯨太左衛門( げいたざえもん)。身長227cmという記録は、いまだに破られていません。18歳で大阪の小野川部屋に入門、翌年には江戸の玉垣部屋に移ります。江戸相撲での戦績は、3勝2敗115休。土俵入りには参加し、人々を驚かせていたようですが、いざ取組となると、巨体を恐れて対戦に応じる力士がいなかったようです。生月は、若干23歳で亡くなっています。死因は、脚気とも梅毒とも言われてます。

生月島の西側には、東シナ海の強風に削られた断崖絶壁が続きます。島の最北端には大バエ灯台があります。80mの切り立った崖の上に建つ白い灯台は、どこか日本離れした光景に見えます。灯台には展望台があり、強風吹きすさぶなか、東シナ海に沈む夕陽を見ることが出来ました。ちなみに、大バエとは妙な名前ですが、これは通称であって、正式名称は”大碆鼻灯台”です。碆(ばえ)とは、矢じりにつける石を意味します。転じて、尖った地形の場所の名称にも使われるようです。思えば、生月島自体も矢じりのような形をしているように思います。灯台を南に下ると御崎浦があります。江戸期、漁民3,000人以上、鯨舟200隻、年間捕獲数200頭以上を誇った日本最大の鯨組”益富組”が拠点としていた浦です。現在は、数隻の小型漁船が舫う港だけがあり、往時を偲ぶものは何一つありません。(写真出典:jalan.net)

2025年11月28日金曜日

オランダ商館通り

オランダ商館通りは、平戸の中心を成すレトロな商店街です。通りの外れには、博物館として復元されたオランダ商館が建っています。港を挟んだ丘の上には平戸城を臨むこともできます。通りは、景観を守るために市が助成していることもあり、明治・大正期の風情を保っています。平戸が最も賑わっていた頃の記憶とも言えます。復元の取り組みはゆっくり進んでいるようで、完成度はまだ高くありません。それでも、その風情の良さは実に魅力的です。ただ、残念ながら、昼も夜も人通りはほぼありません。そのことも含めて、オランダ商館通りという一本の通りには、平戸の歴史がしっかりと刻まれているように思いました。

北松浦半島の西部に位置する平戸は、古代から大陸の玄関口として機能してきました。1550年には、ポルトガル船が来港して南蛮貿易が、またフランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教が、ここ平戸から始まっています。その後、オランダ船やイギリス船も来港し、商館が建築されていきます。島原の乱を機に、幕府は、長崎の出島からポルトガルを放逐し、替って平戸のオランダ商館を移します。1640年のことです。オランダ貿易を独占する平戸藩を、幕府が警戒したとも言われます。平戸が南蛮貿易に沸いたのは約1世紀の間ということになります。その間、平戸では、商人たちが貿易で大儲けし、鄭成功が生まれ、キリシタンが弾圧され、じゃがたらお春がバタヴィアに追放され、カスドースといった南蛮菓子が生まれました。

そして、南蛮貿易によって富と最新の武器を得た平戸松浦氏は、松浦党の盟主となり、北松浦半島一帯に勢力を拡大します。日本三大水軍の一つに数えられる松浦党は、松浦四十八党とも呼ばれます。入江毎の勢力が集合離散を繰り返して一大勢力になったことから党と呼ばれるのでしょう。平家、源氏、秀吉、家康と盟主を変えますが、とりわけ秀吉との関係は深かったようです。関ケ原では東軍につきますが、家康からは信用されておらず、反意なきことを証明するために、藩主自ら城を燃やすことまでしています。5代将軍綱吉の時代に城の再建が許可されるまでの約90年間、松浦氏は、城なし大名だったわけです。外様大名の悲哀を感じさせる話です。平戸松浦氏の最大の名誉は、幕末、藩主の娘が公家の中山家に嫁ぎ、その孫が明治天皇になったことなのでしょう。

江戸初期、平戸藩は南蛮貿易の権益を失ったわけですが、その経済的損失を埋めたのは鯨漁だったようです。平戸島北部や生月島には多くの鯨組が組成され、なかでも、生月島の益冨組は、3,000人を抱える日本最大の鯨組だったようです。平戸で捕鯨が盛んになった背景には、水軍としての操船術や銛を打つ技術、そして南蛮貿易で蓄えた資本力があったと言われます。しかし、19世紀になると、装備に勝る欧米の捕鯨船が次々と現れ、平戸の鯨漁は廃れていきます。代わって隆盛したのが石炭の採掘でした、北松浦半島一帯に分布する北松炭田は、戦後の最盛期にあって、長崎県最大の出炭量を誇っていました。しかし、石油へのシフトが進んだエネルギー革命とともに衰退し、1973年には、全ての坑道が閉鎖されています。

平戸といえば、あご、ヒラメが有名です。ふるさと納税でも、海産物を中心とした返礼品が人気となり、2014年には寄付額日本一にもなっています。まき網で一時代を築いた平戸の水産業ですが、気候変動や隣国との関係から低迷しているようです。1977年に平戸大橋が開通すると、観光ブームが起きます。1991年には生月大橋も完成し、観光業もそれなりに進展してきたようですが、現状はイマイチとのこと。観光上、最大のネックとなっているのは、福岡と直結する高速道路がないことだと聞きました。現在は、南の武雄へ下ってから九州自動車道に乗り福岡へ向かいます。この12月には、そのルートが平戸まで延伸されます。さらに唐津を通って福岡へ直接向かうルートも計画されているようですが、完成までは時間がかかりそうです。当面、平戸は、歴史における役割を終えた町として静に佇むことになりそうです。(写真出典:jl-db.nfaj.go.jp)

2025年11月26日水曜日

江戸の敵を長崎で討つ

からつバーガー
今年も大相撲九州場所を観戦し、夜は、昨年同様、長浜へ移動し、平戸の生月島直送という新鮮な魚料理を頂きました。今年は、無理を言って、庶民的すぎてメニューにないゴマサバも出してもらいました。東京で生のサバを食べることはできません。福岡の人に、もっとゴマサバを自慢すべきだと言うと、サバは長崎から来ているからね、と微妙な顔をされます。翌朝は、唐津の虹の松原で”からつバーガー”を食べました。創業56年というバーガー屋の本店は駐車場に停めたバスでした。カリカリのバンズがクセになりそうな庶民派バーガーです。ホットドック屋だった店主が、佐世保でハンバーガーを食べて感動し、からつバーガーを始めたとのこと。佐世保では、1950年頃から、ハンバーガーが広まっていたようです。どうも風は長崎から吹いているな、と思った次第です。

その日は、長崎県北部の平戸まで行きました。あごやヒラメといった海産物、そして南蛮貿易で知られる町です。南蛮貿易の拠点は、後に長崎の出島に移りますが、もともとはここで始まっています。平戸名物の一つが、往時から伝わる南蛮菓子です。なかでもカスドースは有名です。カステラに卵黄を塗って揚げ、ザラメをまぶしたものです。個人的には、モサモサしたカステラよりも好きです。カステラほどの知名度がない理由は、平戸藩主がレシピを門外不出としたためです。今回は、創業500余年という老舗和菓子店の風情のある座敷で、美味しく頂きました。翌日は、平戸観光のあと、福岡空港への高速道路のアクセスを考え、佐世保、武雄を経由して帰りました。遅めの昼食は、佐世保のソウルフードだというレモン・ステーキを食べました。

佐世保と言えば、前述のハンバーガー、そしてトルコライスが有名です。トルコライスは、ナポリタン、カレー風味のピラフ、デミグラソースをかけたトンカツが、一皿に乗っているというジャンクな食べ物です。ちなみに、トルコとは、トリコロール(三色)が訛ったものだそうです。さて、地元で人気というレモン・ステーキは、今回、初めて食べました。1955年、夏場でも売れるステーキを目指して考案されたといいます。熱いステーキ皿の上に、薄切りのビーフが何枚か乗り、その上からレモン、醤油、にんにく等を混ぜたソースがジャバジャバとかかっています。肉を食べた後は、ご飯を鉄板に投入し、ソースとかき混ぜて食べます。ジャンクな代物ですが、さっぱりとしながらコクもあるレモン・ソースは、結構、中毒性が高いと思いました。

今回、長崎市内には入りませんでした。長崎名物といえば、なんと言っても南蛮由来のカステラが一番に挙げられます。ちゃんぽん、皿うどん、角煮まん、ハトシなども有名です。これらは中華料理由来です。そして、卓袱料理に至っては、和洋中混合です。いずれも国際貿易港としての長崎の歴史が反映されています。平戸名物も同様です。ちなみに、砂糖が一般化したのも南蛮貿易がゆえでした。佐世保のソウルフードは、米軍基地の町という性格から生まれています。対馬暖流と入り組んだ地形が生み出す最良の漁場、天然の良港ゆえに発展した国際貿易、この二つが長崎県の豊かな食文化を形成してきたと言えます。文化が交差するポイントでは、常に新しい文化が生まれるものです。九州の中心は、言うまでもなく福岡です。しかし、こと食文化に関しては、明らかに長崎が発信源だと言えます。

「江戸の敵を長崎で討つ」ということわざは、意外な場所やタイミング、あるいは筋違いなことで仕返しをすること意味します。語源に関しては諸説あるようです。有力な説が言うところは、大阪の見世物師が江戸で大人気となり、江戸の見世物師たちは隅に追いやられます。ところが、長崎から南蛮由来のビードロやギヤマン細工を携えた見世物師が江戸に入り、大人気を博します。結果、我が物顔だった大阪の見世物師たちは、江戸から姿を消したというのです。”長崎で討つ”とは、長崎へ行って敵討ちをするのではなく、長崎の見世物師を使って仇を討つという意味だったわけです。いずれにしても、国際交流から生まれた長崎の文化は、昔から江戸で敵を討つほどの破壊力を持っていたということになります。(写真出典:karatsuburger.jp)

2025年11月24日月曜日

梁盤秘抄#39 The Best of Bobby Montez

アルバム名:The Best of Bobby Montez                                         アーティスト:Bobby Montez

ボビー・モンテスは、1950年代後半から、LAで活躍したヴィブラフォン奏者です。西海岸におけるラテン・ジャズのパイオニアの一人とされます。モンテスは、1934年、アリゾナのソノラで音楽一家に生まれます。多くの楽器の演奏を学んだようですが、成人すると、LAで会計士になります。仕事の傍ら、演奏活動も行っていましたが、1958年、デビュー・アルバム「ジャングル・ファンタスティック」を録音します。ヴィブラフォン、ピアノ、ベース、ティンパレス、コンガで編成されるラテン・ジャズ・クインテットでした。これが、その後も変わらぬモンテスのバンド編成となります。何枚かのアルバムをリリースし、LAのクラブでの演奏は1960年代後半まで続けていました。その後、なぜか演奏活動を止めて、造園デザイナーになり、成功を収めています。

ヴィブラフォンは、アメリカのティーガン社が、1921年に開発した比較的新しい楽器です。アルミ製の音板を持つ鉄琴楽器ですが、マリンバと同様、音板の下に共鳴管があります。ヴィブラフォンでは、共鳴管上部にはねがあり、それをモーターで回すことによって共鳴管を開閉し、絶妙なヴィブラートを生み出します。電気は使いますが、音自体は電気的に出されていないので電気楽器ではありません。ヴィブラフォンを世に知らしめたのはライオネル・ハンプトンだとされます。1930年頃から演奏を始め、1936年には、スウィング・ジャズの王様と呼ばれたベニー・グッドマンのバンドに参加しています。ちなみに、1947年、ハンプトンがオールスターズを率いてリリースした「スターダスト」は、不朽の名作として知られます。

1950年代、LAのジャズ・シーンは、ウェスト・コースト・ジャズ全盛でした。NYとは異なり、白人ジャズマンが多く、知的でクールなジャズが演奏されていました。そのなかに、スウェーデン系アメリカ人のヴィブラフォン奏者カル・ジェイダーもいました。デイブ・ブルーベックやジョージ・シアリングのバンドで活躍した後、ラテンに目覚め、1954年、カル・ジェイダー・モダン・マンボ・クインテットを結成します。折からのマンボ・ブームに乗り、バンドは成功を収めます。ボビー・モンテスは、奏法、曲調、バンド編成など、明らかにカル・ジェイダ-の影響を受けています。彼の1stアルバム「ジャングル・ファンタスティック」などはアフリカン・テイストも取り入れていますが、それも含めてカル・ジェイダ-風と言っていいと思います。

ところが、それ以降、ボビー・モンテスのスタイルは大いに変わっていきます。カル・ジェイダ-のジャズは、ラテンといっても、あくまでもクールで知的なウェスト・コースト・スタイルの枠内にありました。当時のインテリにとって、ラテンやアフリカはおしゃれなファッションだったとも言えます。対して、ボビー・モンテスは、よりストレートに、より分かりやすくラテンのエネルギーを表現していきます。アップテンポでノリが良く、明るい曲調は、恐らく当時のクラブで若者たちに大人気だったはずです。しかし、同時に、それは音楽としての幅を狭めるラウンジ化という道でもあります。ボビー・モンテスが音楽を離れ、全く異なる造園デジナーの道へと進んだ理由は、恐らく、ここにあるのだろうと思います。

本アルバムは、ベスト・アルバムで20曲も収録されています。なかでも”My”、”The Parisians”、”Brazilian”などは大好きな曲です。ポップな曲調は、まさにラウンジ・ミュージックといった感じであり、時代を感じさせます。正直なところ、ラテンといっても、キューバやブラジルのミュージシャンが演奏するような曲ではありません。そういう意味で、ボビー・モンテスは、1960年前後、LAに咲いた徒花だったとも言えそうです。ちなみに、昨今、DJたちの間で、ボビー・モンテスのヴァイナルがよくサンプリングされていたようです。確かに、時代を感じさせるラウンジ・ミュージックは、彼らの好むところだと思います。(写真出典:diskunion.net)

2025年11月22日土曜日

野宮

少し前になりますが、観世流宗家・観世清和の舞う「野宮(ののみや)」を観ました。スキのない見事な舞台でした。囃子方も見事でしたが、なかでも笛の竹市学は特筆に値すると思いました。月に2回ほど能楽を観ていますが、今年、最も完成度の高い舞台だったように思います。金春禅竹作の野宮は、源氏物語の「賢木」の巻に基づいています。秋の嵯峨野を舞台に、六条御息所の心の揺れが描かれています。今回は、合掌留、火宅留という小書によって、一層深みを増していました。禅竹作品の特徴は、シンプルなストーリーのなかに、人間の心情が精緻に織り込まれていることだと思います。ことに野宮は大曲(おおまがり)とされ、演者には高い技量が求められます。

旅の僧が、野宮の旧跡を訪ねると、榊を持った一人の女が現れ、毎年、この日に野宮を清めに来るのだと語ります。この日は、かつて光源氏が六条御息所を野宮に訪ねてきた日であり、自分は六条御息所の亡霊だと告げて去ります。夜になり、牛車に乗って現れた亡霊は、賀茂祭での車争いのことなどを語りつつ、月の光のもとで序の舞を舞い、妄執からの救済を願います。禅竹の義父・世阿弥の改作とされる「葵の上」では、六条御息所の生霊は修験者の祈祷によって成仏して終わります。しかし、野宮は、もう少し複雑です。序の舞を舞った亡霊は、光源氏が手紙を残した柴垣に近づき、鳥居に身を寄せた後に、妄執の極致を表す破の舞を踊ります。そして、曲調は一転し、亡霊は鳥居に合掌して、「火宅の門をや出でぬらん、火宅…」と謡われて終ります。

つまり、六条御息所の亡霊は、救われたのかどうか、判然としないのです。少なくとも、法力による救済は否定され、野宮という聖域とその背後にある伊勢神宮の神力による救済が暗示されます。ただ、終局の「火宅…」は、妄執からの解脱に懐疑的な含みを残しています。禅竹の重層的な作風の背景には、時代が色濃く反映されているように思えます。世阿弥は、将軍足利義満に庇護されましたが、晩年、足利義教の時代になると弾圧され、佐渡島へ流刑になります。不遇の世阿弥を支えたのが禅竹だとされます。世は室町幕府の衰退と共に乱れ始めていました。理不尽な弾圧に苦しんだ禅竹は、神仏による救済を否定しているわけではないとしても、距離を置いた見方をしていたのかも知れません。禅竹は、応仁の乱が起こって3年目に亡くなっています。

六条御息所は東宮妃でしたが、東宮が逝去した後、光源氏と恋仲になっていました。しかし、光源氏の気持ちが遠のくと嫉妬に狂います。葵祭で光源氏の正室・葵の上と車争いをして敗れた六条御息所は、生霊となって葵の上を祟ります。名曲「葵の上」に描かれるところです。野宮は、伊勢神宮や賀茂神社の斎宮として指名された内親王が、身を清めるために一定期間を過ごした場所です。新たな斎宮が指名される都度、嵯峨野か西院に設置されていたようです。源氏物語では、六条御息所が、斎宮に指名された娘とともに、一時期、野宮に滞在します。そこへ光源氏が訪ねてくるわけですが、既に光源氏の愛を失っていると自覚した六条御息所は、娘と共に伊勢神宮へと旅立ちます。娘の斎宮期間が終わると、彼女は都に戻り、出家して亡くなります。

能楽の大曲とは、演じるために高い技量を要する曲、演じられることが希な秘曲や一子相伝の曲などを指します。能ではない能と言われる「翁」、鐘入りで有名な「道成寺」、秘曲とされる「檜垣」・「姨捨」・「関寺小町」の三老女もの、歌舞伎の連獅子の元である「石橋」、そして「野宮」などが挙げられます。なかでも野宮は、細かな感情表現が身上という難曲であり、舞、謡、囃子のすべてに熟練の技が求められるとされます。もっとも、細やかな感情表現という意味では、「松虫」、「玉鬘」、「定家」、「芭蕉」といった禅竹の他の作品にも共通するように思います。とにかく、観世清和の野宮は、禅竹の気配を感じさせる良い舞台だったと思います。能楽堂の外に出ると、最前までの酷暑が嘘のような秋の気配が漂っていました。(写真出典:the-Noh.com)

2025年11月20日木曜日

ダーティ・ハリー

かつて、週末の映画館は、オールナイト上映を行っていました。いわゆる“オールナイト”は、1950年代末、博多の映画館から始まったと聞いたことがあります。ほとんど廃れましたが、池袋の新文芸坐といった一部の名画座では、まだ行われているようです。多くは、特集スタイルで、シリーズもの、あるいは特定の監督や俳優の作品などを、3~4本、まとめて上映します。例えば、1970年代に大人気だった仁義なき戦いシリーズなどは何度もオールナイト上映されていました。ダーティ・ハリー特集も定番の一つでした。ハリー・キャラハン刑事がホットドッグを食べながら、マグナム44を撃つシーンは大人気でした。仲間たちと、映画館にホットドッグを持ち込み、ダーティ・ハリーに合わせて食べるなんてこともしていました。

「ダーティ・ハリー」(1971年)は、ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドが組んで制作されました。ドン・シーゲルは、B級アクション映画専門の監督でした。ちなみに、名匠サム・ペッキンパ-は、彼の弟子の一人でした。また、クリント・イーストウッドもマカロニ・ウェスタンの俳優という程度の知名度しかありませんでした。ところが、ダーティ・ハリーは映画史に残る大ヒットとなり、二人は一躍有名になります。映画はシリーズ化され、5作が撮られています。また、警察官が力を誇示するために過度な暴力を振うことが”ダーティ・ハリー症候群”と呼ばれるなど、社会的な影響力もありました。その後に制作されたアメリカの刑事映画はすべて、なんらかの形でダーティ・ハリーの影響を受けているとも言われます。

アメリカ映画のなかの刑事と言えば、組織の論理に流されない一匹狼で、悪人には厳しいが仲間や街の人たちの信頼は厚く、仕事へのこだわりや没頭ぶりから家庭は崩壊している、といったイメージが浮かびます。こういったステレオ・タイプなイメージは、ハリー・キャラハン刑事に由来するところが大きいのかもしれません。自主独立は、アメリカ建国の精神であり、アメリカ人の好むところです。加えて、被害者の視点からの正義を愚直に押し通すハリーの潔さが、アメリカ保守層の心を捉えたわけです。アメリカ社会は、泥沼化したヴェトナム戦争、若者の間に広がったカウンター・カルチャーによって、伝統的な価値観が揺らいでいた時代です。ダーティ・ハリーは、そうした世相に反撥する保守反動層を代弁する映画でした。

ダーティ・ハリーは名台詞も生み、AFIの名セリフベスト100には2つも選ばれています。1作目からは”You've got to ask yourself one question 'Do I feel lucky?' Well, do ya, punk?”が51位、そして4作目で登場する”Go ahead, make my day.”は、ダーティ・ハリーを象徴するセリフとなり、堂々の第6位となっています。”やってみろよ、俺を楽しませてくれ”という意味ですが、意訳するなら”やれるならやってみろよ”となるのでしょう。ハリーは、ダイナー強盗たちを射殺しますが、一人だけ残った犯人がウェイトレスを人質に取ります。ハリーは、たじろぐことなく、拳銃を犯人に向け、このセリフを吐くわけです。このセリフは広く知られ、特に保守層には大人気となり、ロナルド・レーガン大統領や共和党支持者のイーストウッド自身も政治集会の演説で使っています。

また、日本ではマグナム44として知られるハリーの大型拳銃も有名です。マグナム44はレミントン社の0.44インチの大口径弾薬のことであって、拳銃の名前ではありません。ハリーは、大型のスミス&ウェッソンM29拳銃に、マグナム44弾を装填しています。狩猟用の大型拳銃は、カウボーイを連想させますが、それも計算済みの演出だったと言えます。S&W.M29は、決して需要の高い拳銃ではありませんでしたが、映画のヒットで世界最強の拳銃として知られることになり、定価の3倍以上で取引されたと聞きます。ダーティ・ハリーのセリフ、拳銃、ホットドッグなどは、すべてB級アクション映画の真髄を心得たドン・シーゲルらしいこだわりでした。さらに、ダーティ・ハリーの音楽はラロ・シフリンが担当しています。このB級映画音楽の大家は、スパイ大作戦、燃えよドラゴンはじめ実に多くの映画やTVの音楽を担当しています。(写真出典:eiga.com)

2025年11月18日火曜日

近江聖人

滋賀県出身の人から中江藤樹の伝記を頂戴したことがあります。多忙な時期であったことから、ページを開くことはありませんでした。興味が湧かなかったということでもあるのでしょう。江戸初期の儒学者・中江藤樹は、日本における陽明学の先駆者です。近江聖人とも呼ばれ、今までも滋賀県民が誇りとしています。陽明学は、明代の王陽明によって開かれた儒学の一派です。長い歴史を持つ儒学ですが、戦後生まれの我々にとって、孔子や論語は知っていても、やや縁遠い存在になっていると言えます。日本に伝わったのは5世紀と言われ、道教の後、仏教の前ということになります。日本では、倫理、政治思想として定着し、大衆的には道徳として広まりました。しかし、仏教ほどの影響力はなかったと言えるのでしょう。 

中国では儒教として、より宗教的な位置づけだと聞きます。また、韓国では、李氏朝鮮が500年に渡る統治の根本思想としたことから、依然として大きな影響力を持っています。1980年代後半、アメリカの有名大学にアジア系の留学生が増え始め、皆、優秀だと話題になりました。ニューズウィーク誌は、中国、日本、韓国、ヴェトナムの留学生が勤勉で優秀なのは儒学の影響だと報じていました。実は、この4ヶ国のなかで、日本だけが科挙の制度を持っていませんでした。科挙の出題が儒学に関する知識で占められていたことから、他の3ヶ国の社会には儒学が浸透していきました。ちなみに、日本が科挙を選択しなかった理由は、ヤマト王権が部族連合であり、ネポティズムが優先されたからなのでしょう。日本は、盲目的に中国文化を追随していたわけではありません。

南宋時代になると、朱熹が登場し、朱子学を唱えます。大きな影響力を持つに至った朱子学は、科挙の出題の中心にもなります。中世日本にも伝わった朱子学は、仏教界を中心に広がりをみせます。朱子学の基本となる思想は、全ての存在は”気”で構成され、その生成変化を担うのが”理”であるというものです。社会秩序を保つために有効であることから、江戸幕府は朱子学を正学と定め、林羅山を重用するとともに、儒学の官立学校である昌平黌(湯島御聖堂)を開設します。明代になると、体制による統治思想化した朱子学を批判する王陽明が、陽明学を創始します。陽明学は、万民が持つ善なる心”良知”に従って行動する”知行合一”を説きます。朱子学に比して、より実践的で、より万民受けし、その平等主義はアナーキズムに通じる面もありました。

日本の陽明学の開祖と言われる中江藤樹は、近江国の農家に生まれ、祖父の養子になることで武士になります。伊予大洲藩に仕官しますが、脱藩して郷里の小川村(現高島市)に戻り、私塾「藤樹書院」を開きます。学問を朱子学から始めた藤樹でしたが、日本にも伝わり始めた陽明学に傾倒していきます。その背景には、藤樹の半生も影響しているのでしょう。また、太平の世になり、武士とは何なのか、という疑問も生まれたはずです。藤樹書院には、多くの弟子が集まったとされますが、藤樹は、村人たちへの教育にも熱心に取り組みます。読み書きもおぼつかない農民たちにとって、儒学は敷居が高かったと思われます。にも関わらず、多くの農民たちが集まったと言います。農民たちへの教育は良知をひたすらに実践する”致良知”であり、知識と行動を一致させる”知行合一”を説く陽明学の真髄だったとも言え、藤樹が近江聖人と呼ばれる由縁でもあります。

近江聖人にまつわる有名な話があります。馬子の又左衛門は、都へ急ぐ飛脚を馬に乗せて隣の宿場まで運びます。家に帰ると馬の鞍から200両入りの財布を見つけます。飛脚が忘れたに違いないと思った又左衛門は宿まで引き返して財布を届けます。飛脚は、大喜びして、金の一部をお礼として渡そうとします。又左衛門は断ります。押し問答の末、200文だけ受け取った又左衛門は、その金で宿の者たちに酒を振る舞います。感激した飛脚は、あなたは一体どのような方ですか、と尋ねると、又左衛門は、私はただの馬子ですが、毎晩、藤樹先生の話を聞きに行きます。先生は、親孝行しなさい、盗んだり人を傷つけてはいけない、困っている人を助けなさい、と説いています。私はそれを思い出しただけです、と答えます。日本の道徳観の背骨は、近江聖人が作ったのかも知れません。(写真出典:adogawa.net)

2025年11月16日日曜日

フィヨルドから来たもの

ロング・シップ
初めての海外旅行で乗ったのはスカンディナビア航空(SAS)でした。成田からアンカレッジ、コペンハーゲンを経由してマドリッドまで行きました。1979年当時は、ソヴィエト上空を飛ぶことはできませんでした。まァ、現在もロシア上空は飛べなくなりましたが・・・。SASは、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3カ国が共同で運航する航空会社です。驚いたのは、CAが、皆、金髪の巨人だったことです。即座にヴァイキングを思い起こしました。中世ヨーロッパの二大脅威と言われるのは、ペストとヴァイキングです。典型的なヴァイキングのイメージと言えば、角の付いた兜と毛皮をまとった金髪・ひげ面の大男たちです。ヴァイキングの子孫であるCAの巨大さから、今さらながらにヴァイキングの恐ろしさを感得しました。 

8~11世紀頃、スカンディナビアから出て、北大西洋、東欧、地中海を席巻したノルマン人は、ヴィーク(フィヨルド)から来た者を意味するヴァイキングと呼ばれました。ブリテン島、アイルランド、フランス、シチリアへ進出し、アイスランド、グリーンランドを経てカナダ東部へも到達しています。また、バルト海から河を遡上して黒海に至り、コンスタンティノープルにまで至っています。ヴァイキングに関しては、素朴な疑問が二つあります。もともと交易の民だった人々が、なぜ、突然、略奪者になったのか。そして、なぜ欧州の国々を破るほど強かったのか、ということです。ヴァイキングの誕生に関しては諸説あるようですが、10~14世紀の中世温暖期に始まり、その後の小氷河期に終わっていることから、気候変動との関わりも大きいとされます。

つまり、海が凍らなかったから、ということです。環境要因ではありますが、原因とは言えません。現在、最も有力とされる説は、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)によるザクセン戦争が関係しているというものです。カール大帝は、領土拡大とキリスト教布教を目的にザクセン人と30年に渡る戦いを行います。ザクセン人は、キリスト教を頑なに拒んでいました。ノルマン人も、領土、宗教、通商に関してカール大帝の圧迫を受けており、対抗措置として、キリスト教国の沿岸部への襲撃を始めたというわけです。ヴァイキングの最初の略奪とされているのは、8世紀末、イングランド北部のリンデスファーン修道院への襲撃です。いかにも宗教的な意味合いを感じさせます。もっとも、無防備な施設を狙ったとも言えそうではあります。

一方、ヴァイキングの強さに関しては、概ね定説があるようです。まずは、彼らのロング・シップと呼ばれる喫水が浅く細長い舟の存在です。機動性が高く、海でも川でも高速移動が可能となり、場合によっては陸上を運ぶこともできたようです。これによって、神出鬼没の攻撃を仕掛けることができたわけです。また、一つの舟に同じ村の出身者が乗り込むことで、連携よく助け合える信頼関係があり、かつ恥ずかしい戦いはできないという心理も働いたようです。そして、戦いで死んだ者は、ヴァルハラに召されるという強い信仰が勇猛な戦士を生んでいたとされます。ヴァルハラは、北欧神話の主神オーディンの宮殿であり、戦死者は、戦場での生死を司る女神ヴァルキュリャ(ワルキューレ)によって宮殿に連れて行かれるとされていました。

ヴァイキングの襲撃は、宗教戦争だったと言うこともできると思います。思えば、人間が起こした戦争の多くは宗教に起因しています。しかも、その多くに一神教がからんでいます。他を邪教とする一神教の宗旨からして当然でもあります。かつ、一神教の戦争は、決まって苛烈なものになります。現在進行中のイスラエルによるガザでのジェノサイドも一神教同士の宗教戦争という面があります。人々に平穏をもたらすはずの宗教が、信じがたい程の禍をもたらすことは、実に哲学的で深遠な話だと思います。少なくとも、宗教は、平和に関する最終回答ではないということです。ヴァイキングは、その後、各地で定住化を進め、ノルマン人と呼ばれることになります。同時に、キリスト教化も進みました。ヴァイキングが、どのような経過をたどってキリスト教化したのか、ということも気になるところです。(写真出典:woodworkersinstitute.com)

2025年11月14日金曜日

時の支配

飛鳥水落遺跡
明日香村の飛鳥水落遺跡は、漏刻と呼ばれる水時計の遺跡であり、日本初の時計と言われます。日本書紀によれば、660年に中大兄皇子が作ったとされます。皇帝は空間と時間を支配するという中国の政治思想に倣ったものと考えられています。7世紀の日本は、遣隋使、遣唐使によって、中国から多くを学んでいた頃であり、ヤマト王権もその統治のあり方を模索していた時代なのでしょう。663年には、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫し、以降、日本は急速に国家としての体を成していきます。その中心にいたのは、645年の乙巳の変で中央集権化を目指した中大兄皇子、後の天智天皇でした。 

皇帝が空間を支配するとは領土の支配を意味するのでしょうが、時間の支配に関してはピンとこない面もあります。通常、時間の支配とは、暦、元号の制定、あるいは歴史書の作成を意味するようです。アジアの歴史に最も大きな影響を与えた人物は、秦の始皇帝だと思われます。中国史上初めて天下統一を果たしたわけですが、単に敵対国を次々と征したばかりではありません。あの広大な国で初めて中央集権国家を築いたことこそ大偉業なのだと思います。初めて皇帝という名称を使い、法治国家化、官僚体制の構築、封建制から郡県制への移行、交通網の整備、万里の長城の建築、そして漢字、貨幣、度量衡の統一等を一気に進めました。そして、顓頊暦(せんぎょくれき)と呼ばれる暦法の統一も行っています。すべての改革が中央集権を目指していたわけです。

暦は、狩猟・漁労に適した太陰暦に始まり、農耕の開始とともに太陽暦が主流となります。暦は、地域によって微妙に異なっていました。閏年の調整などにも違いがあったようです。それを統一することは、農民と農業の管理はもとより、祭祀や行政の管理・運営上も極めて重要であったと言えます。さらに時刻の管理は、人を組織的に動かすうえでは欠かすことのできない要素となります。当時の時刻は、水時計や日時計に基づき認識されていました。日時計も、水時計も、古代エジプトで誕生し、各地へ伝播していったとされます。中国へは、紀元前2000年頃、オリエント経由で伝わったという説があります。いずれにしても、始皇帝の時代には存在していたわけで、始皇帝による時の支配の基本アイテムの一つとなっていたはずです。

物理学における時間は、極めて難解な代物だと言えます。いまだに理解しきれません。しかし、人間が編み出した時間という概念ならば容易に理解できます。人間が一人で生きていくならば時刻にさほどの意味はないのでしょうが、農耕とともに人間が組織化、社会化されると不可欠なものになっていきます。人の行動を組織化するためには重要な要素であり、時が人を動かすとも言えます。つまり、時の支配とは人の支配そのものなのでしょう。中国の中央集権体制を知った中大兄皇子は、その統治方法に強く惹かれたはずです。ゆえに乙巳の変で蘇我氏を排除し、大化の改新を通じて、律令国家を目指したわけです。時刻の管理も重要な課題であり、漏刻設備の建造につながったのでしょう。ちなみに、漏刻が告げる時は、太鼓をもって民に伝えられていたようです。

仏教では、三世、つまり過去・現在・未来という区分、あるいは刹那と呼ばれる極々短い時間や劫(こう)と呼ばれるとてつもなく長い時間がよく知られています。しかし、仏教における時間認識の真髄は、連続性を超えたところにあります。それは、例えば道元禅師の「而今」という言葉によく現わされていると思います。直接的には”今この一瞬”という意味ですが、大雑把に言えば、過去の後悔や未来の心配といった煩悩から解脱し、空の境地を目指すということなのでしょう。人間が時間という拘束から解放されることをも意味するわけです。飛鳥水落遺跡は、日本における時の始まり、中央集権化の始まりを象徴しているわけですが、同時に組織と個人という永劫の課題が生まれた場所でもあります。(写真出典:pref.nara.jp)

2025年11月12日水曜日

ヤシの木にプール

NHKのETV特集で「POP 大滝詠一 幸せな結末」という番組を見ました。大滝詠一は、いわゆるJ-POPという地平線を切り開いた巨人だと言えます。我々の世代にとっては、同時代の音楽や文化を決定づけた人です。大滝詠一以前の大衆音楽は、歌謡曲と洋楽に区分されていました。彼は、そこに日本語のポップ・ミュージックという新たなジャンルを創設します。個人的には、ジャズやR&Bに狂っていたので、彼のレコードを買ったこともなければ、好んで聴いていたわけでもありません。しかし、音楽に限らず、大滝詠一が提供してくれたポップ・カルチャーが、我々の文化や感性を形成してきた面は大きいと思います。彼の楽曲を聴くと、とても幸せな気分になります。 

大滝は、1948年、現在の岩手県・奥州市江刺に生まれます。小学5年の夏、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴いて衝撃を受け、以降、アメリカン・ポップの世界にのめり込みます。釜石の高校を卒業し東京で就職しますが、すぐに退社して音楽活動に入ります。1970年には、細野晴臣、松本隆、鈴木茂と伝説のバンド「はっぴいえんど」を組んでデビューします。1971年には、名曲「風をあつめて」を含むアルバム「風街ろまん」をリリースしています。しかし、フォーク・ロック調の楽曲は注目されることもなく、知られることもありませんでした。70年代中頃になって、その完成度の高さがじわじわと評価されていきます。私がはっぴいえんどの存在を知ったのは芸術雑誌の「ユリイカ」でした。松本隆の「風をあつめて」の詞が取り上げられていたのです。

はっぴいえんど解散後、大滝はCMソングの制作や若手のプロデュースなどを行います。山下達郎をデビューさせたことは有名です。また、福生にスタジオを作り、自らのプライベート・レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立します。そして、1981年3月には、作詞に松本隆を迎えて、ソロ・アルバム「A LONG VACATION」をリリ-スします。発売直後は低迷したものの、徐々に売上を伸ばし、結果、オリコン初のミリオンセールス、年間売上第2位を記録しています。それどころか、今も売れ続け、累計で200万枚を超えるロング・セラーとなっています。ジャケットは、青い空、プール・サイド、ヤシの木、白いビーチ・パラソルが描かれた永井博のイラストでした。この大滝詠一、松本隆、永井博のセットが、時代の空気を作ったと言えます。

大滝は、積極的に楽曲提供も行い、松田聖子「風たちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」、薬師丸ひろ子「探偵物語」等は大ヒットします。ヒット曲の多くがCMとタイアップしていることでも知られます。また、吉田美奈子、シリア・ポールが歌い、後にラッツ&スターで大ヒットした「夢で逢えたら」は、日本で最も多くカバーされた曲でもあります。大滝の音楽は、50年代アメリカの豊かさを象徴するポップ音楽がベースであり、ゆえに多幸感をもたらすのだと思います。その多幸感が、高度成長期を経て、豊かになった日本社会にフィットしたと言えるのでしょう。若者には、輸入雑貨、ドライブ、サーフィン、リゾート、海外旅行等々が大人気でした。音楽の世界でも、演歌中心だった歌謡曲の時代が終わり、Jポップの時代が始まります。

海外の文化を我が物にすることは日本の得意技です。大滝が、アメリカン・ポップからJポップを生み出したことは、かつて漢字から仮名文字が編み出されたことに似ています。また、70~80年代、豊かな時代を迎えたと言っても、改革開放後の中国が拝金主義に流れたのとは大違いで、生活の中でささやかな夢を見ていただけのように思います。大滝の音楽や永井博のイラストは、そうした日本の特性をも反映しているように思います。2013年暮れ、大瀧詠一は、突然、動脈瘤で亡くなります。享年65歳。時代が切り替わったことを象徴しているように思います。最後のレコーディングは、竹内まりやとデュエットした「恋のひとこと(Somethin' Stupid)」でした。フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ親子が歌った1967年の大ヒット曲です。大瀧は、何のアレンジも加えず英語で歌っています。カバーというよりもコピーそのものです。それは過ぎた時代への惜別の賦でもあったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年11月10日月曜日

Tokyo Film 2025(4)

「虚空への説教」  ヒラル・バイダロフ監督 2025年アゼルバイジャン・メキシコ・トルコ ☆☆

映画というよりも観念的な映像詩といったところであり、現代アートの作品そのものだと思いました。映像には見たこともないような電子的加工が加えられていました。哲学的でも、宗教的でもあるような詩がナレーションとして流れます。アゼルバイジャン出身の監督は、数学の天才であり、コンピューター・サイエンスを学んだ後、ハンガリーのタル・ベーラ監督に師事して映画を学んだといいます。数々の賞も獲得しているようです。映像の加工処理は、彼の経歴が反映されているのでしょう。この映画の上映で一番すごいと思ったのは、観客の我慢強さです。誰一人途中退席することなく最後まで見ていました。

「The Ozu Diaries」 ダニエル・レイム監督 2025年アメリカ・日本 ☆☆☆+

世界的名声が高い日本の映画監督といえば、黒澤明、溝口健二などともに、必ず小津安二郎の名も挙げられます。小津人気の特徴は、映画監督たちからの評価が高いことだと思います。一般市民の家庭を舞台に、親子の姿を淡々と静かに描き、かつ行間から情感を浮かび上がらせるという小津調は見事なものだと思います。しかし、それ以上に、監督たちが魅せられているのは映画文法の完成度の高さなのだと思います。映画のなかで、小津の大ファンとして知られるヴィム・ヴェンダースが「東京物語」のラストの素晴らしさを解説しています。言われてみれば、確かに、これ以上ないほど完璧な仕上がりだと思えます。本作は、小津が残した日記、近しかった人々のインタビューで構成され、小津の人生と映画を浮き彫りにしたドキュメンタリーです。今後、映画製作を志す人々にとって、良い教科書の一つになっていくのでしょう。ちなみに、小津の映画製作にとって、日中戦争への従軍経験が大きなウェイトを占めていことも知りました。

「パレスチナ36」 アンマリー・ジャシル監督 2025年パレスチナ・イギリス・フランス・デンマーク ☆☆☆+

パレスティナ問題の原因は、大英帝国の二枚舌、三枚舌にあるとされます。その通りですが、問題の根源はシオニストの強引な移住、国家樹立運動にあります。第二次世界大戦後、英国が統治権を放棄すると、国連で分割案が採択されます。ユダヤ人はこれに賛成しイスラエルを建国しますが、アラブ側はこれを拒否します。我が家に武装した他人が入ってきて分割だと言うのですから、当然の対応です。実は、国連決議に先立つ1936年、アラブ側のゼネストに応じて結成された英国のピール委員会が分割案を提示しています。映画は、その前後のパレスティナを描いています。アンマリー・ジャシル監督はパレスティナを代表する映画監督です。パレスティナ問題をテーマとすれば冷静ではいられないはずですが、映画は抑制の利いたタッチで描かれています。しかし、客観的であろうとするためかややインパクトに欠け、複数の視点からストーリーを展開したことで焦点がぼやけた面もあります。映画は、ガザの同胞に対する連帯のメッセージで終わっています。なお、本作は、今年のグランプリを獲得しました。やはり、ガザで進行するジェノサイドへの批判が込められているのでしょう。

「死のキッチン」 ペンエーグ・ラッタナルアーン監督 2025年タイ ☆☆+

スタイリッシュなサスペンス・ホラーです。奇妙な味の小説系とも言えます。ミステリーの世界では、料理と殺人の相性はとても良いのですが、料理をメイン・プロットにすることは極めて困難です。本作は、ひねったアプローチをしていますが、やはり無理がありました。しかし、次々と繰り出されるタイ料理は、その調理プロセスも含めて、実に魅力的でした。タイ料理が食べたくなりましたし、バンコクに行きたくなりました。監督の料理へのこだわりは半端じゃないなと思いました。

「囚われ人」 アレハンドロ・アメナーバル監督 2025年スペイン・イタリア ☆☆☆

監督の才能を感じさせる出来になっています。ミゲル・セルバンテスが、ドン・キホーテを書く遥か以前、アルジェで俘虜生活を送っていた時代が描かれています。その5年間については、4回逃亡を企てたという記録が残るのみで、詳細は不明とのこと。そこをフィクションで埋めようという作品です。話のうまいセルバンテスが人々に語る物語と現実が交差するというプロットが巧みに展開されています。天才肌で知られる監督は、様々な賞も獲得しています。最も印象に残る作品と言えば、「バニラ・スカイ」としてハリウッドでリメイクもされた「オープン・ユア・アイズ」(1997)ということになります。また、「海を飛ぶ夢」(2004)は、スペインの安楽死政策を変えるきっかけになったことでも知られます。監督は音楽の才能も豊かで、本作のスコアも担当しています。実は、本作の上映中、画面がブラック・アウトするという珍しい事故がありました。トラブル回復後には最後まで上映されましたが、料金は全額返還されました。

2025年11月9日日曜日

Tokyo Film 2025 (3)

 「エイプリル」 フレディ・タン監督 2025年台湾 ☆☆☆+

フィリピンから台湾へ出稼ぎして家庭介護を行うエイプリル、彼女の介護を受ける台湾人の老人、それぞれの家庭が抱える問題が交差していくというプロットです。複線化されたプロットの構成、その処理が見事だと思います。ディスコミュニケーションを乗り越えてゆく家族愛、そして国や民族を超えてつながる思いやりを描いています。笑いあり、涙ありの実に良く出来た脚本だと思います。演出も腕の良さを感じさせ、キャストもいい演技をしていました。フィリピンや台湾の美しい風景も魅力的でした。台湾は、外国人労働者を積極的に受け入れ、定着化をねらっています。そうした現状を踏まえて製作された映画なのでしょう。監督は、弁護士出身という異例の経歴を持ちますが、社会を見る目の確かさを感じます。

「トンネル:暗闇の中の太陽」 ブイ・タック・チュエン監督 2025年ヴェトナム ☆☆☆

ヴェトナム戦争時のヴェトコンによるトンネル戦が描かれています。ヴェトナムで大ヒットを記録し、戦争映画としては史上最高の興業成績を上げたようです。ただ、その後、「赤い雨」という戦争映画も大ヒットし、アカデミー賞国際長編部門のヴェトナム代表にも決まっているようです。本作のようにヴェトコンのトンネル戦を正面から描いた映画は、ありそうでなかったように思います。トンネンル・シーンは、経験を持つ国だけあってリアルなものです。ただ、モティーフにこだわりすぎてプロットへの収斂が甘くなっています。トンネル戦を経験した兵士の多くはまだ生存しているはずです。彼らへの豊富な取材が、かえって徒になっているのではないかと想像します。監督の「輝かしき灰」(2022)が素晴らしかっただけに、期待したのですが・・・。

「ドリームズ」 ミシェル・フランコ監督 2025年メキシコ・アメリカ ☆☆☆+

移民問題は世界のホット・イシューです。欧州では移民の扱いを巡って右派が台頭し、米国では不法移民への弾圧が行われています。映画界においても、移民問題をテーマとする作品が多く制作されています。本作も、その一つですが、やや毛色の異なる作品です。米国の大金持ちの中年女性とメキシコ人の若いバレエ・ダンサーの情事の顛末をプロットとしますが、テーマとするところはメキシコ人から見た移民問題だと言えます。つまり、永年にわたり都合良くこき使ったあげく、今になって不法移民として弾圧するとは何事だ、ということなのでしょう。映画は、劇伴もなく、クリアなワイド画面で、あえて静かに展開していきます。その冷たい触感が怒りの強さを表しているとも言えます。監督は、高い評価を得ており、国際映画祭の常連でもあります。押しも押されぬ大女優ジェシカ・チャステインには、いつも驚かされますが、本作でも冷たさと熱さを見事に演じています。

「ヴィトリヴァル」 ノエル・バスタン/バティスト・ボガルト監督 2025年ベルギー ☆☆☆

何とも不思議な映画です。原題は「ヴィトリヴァル:世界で最も美しい村」となっています。村人の全てが親戚か知り合いというベルギーの小さな村の日常が、二人のパトロール警官を中心に、コミカルにスケッチされます。猥褻な落書き、連続する自殺というトピックはありますが、何も解決するわけでもなく、ドラマは一切ないと言えます。出演者はすべて素人であり当人役を演じています。主演格の二人だけは、本当の職業は警察官ではないようです。本作を、一般的な意味で映画と呼んでいいのかどうかも難しいところです。むしろ、一般的な映画を批判するために製作されたのかも知れません。自然主義映画の極致とも言える風変わりな映画ではありますが、抗しがたい魅力があり、飽きずに観れたことだけは間違いありません。二人の監督の腕の良さということなのかも知れません。

2025年11月8日土曜日

Tokyo Film 2025 (2)

「マゼラン」 ラブ・ディアス監督 2025年ポルトガル・スペイン・フランス・フィリピン・台湾  ☆☆☆☆

フィリピンの巨匠ラブ・ディアス監督の新作は、フェルディナンド・マゼランの半生を描いています。ディアス監督と言えば、スロー・ムーヴィー、モノクロ、タガログ語、長尺といったイメージがありますが、本作は、大分異なります。上映時間も165分であり、普通なら超長尺ですが、ディアス監督としては随分と短くなっています。しかし、ディアス監督らしさは、見事なまでに失われていません。航海の日々やセブ島での布教と死が、絵画的なフレームのなかで淡々と描かれます。モルッカ諸島を目指していたマゼランですが、なぜかセブ島での布教活動に入れ込みます。それが高圧的になりすぎたことで、謀殺されます。マゼランが発見したアジアへの西回り航路は欧州にとって極めて有益でした。しかし、マゼランがフィリピンにもたらしたものは何だったのか。ディアス監督は、冷静な目線でそこを見ているように思いました。

「黒い神と白い悪魔」 グラウベル・ローシャ監督 1964年ブラジル ☆☆☆+

ブラジル最高の映画監督とされるグラウベル・ローシャ監督が26歳で撮った作品です。低予算の荒削りな作品ですが、フランスのヌーヴェルヴァーグと連携していたという監督の作風がストレートに出ています。伝統的なドラマが構成されているわけではなく、映像による散文詩といった風情です。白黒の印象的なショットが監督の才能を感じさせます。舞台は1940年代ブラジルですが、60年代の不安定な政治状況が反映されています。作品がリリースされた1964年は、クーデターによって軍事政権が始まった年でもあります。ドラゴンを倒したことで知られる聖ジェルジオ(ゲオルギオス)は民衆の善政への期待を象徴し、山賊カンガセイロは革命を、そして暗殺者アントニオ・ダス・モルデスは反革命を表しているのでしょう。これらの要素は、監督がカンヌで監督賞を受賞した「アントニオ・ダス・モルデス」へと継承されます。

「人生は海のように」 ラウ・ケクフアット監督 2025年台湾 ☆☆☆

マレーシア版の「お葬式」といった風情の作品です。脚本家・新藤兼人の名言「誰でも一本は傑作を書ける。自分の周囲の世界を書くことだ」を思い出します。恐らく監督自身の経験がベースになっているのでしょう。台湾で働くマレーシア出身の華人が、父親の葬式のために帰郷した際の出来事が描かれています。福建省からマレーシアに移住してきた華人の4世代に渡る歴史がスケッチされます。多民族国家マレーシアでは、華人が24%を占めます。しかし、華人たちは、大層を占めるマレー人に抑圧され、肩を寄せ合って生き抜いてきたのでしょう。世代とともに、状況にも意識にも変化が生じるわけですが、依然、家族の団結は強いものがあります。それは世界中の華人に共通しているとも言えます。マレーシアの華人家族を台湾風の温かいタッチで描くという一風変った趣きを持つ映画です。

「マスターマインド」 ケリー・ライカート監督 2025年英国・米国  ☆☆☆☆+

本作は、米国インディペンデント映画界の第一人者でミニマリスト監督として知られるケリー・ライカートの新作です。結論から言えば、これほど端正な姿をした映画はなかなか見られないと思います。最良の映画文法が隅々にまで行き渡っています。文法の教科書のようでもあり、映画制作を志す人は必ず見るべきだと思います。もちろん、文法は表現のための手段であって、それだけで映画が成り立つわけではありません。本作がテーマとするのは、1960年代カウンター・カルチャーの甘さなのではないかと思います。ぬるま湯に浸かった中産階級の子弟の甘さからは、個人と集団の関係というライカートこだわりのテーマも見えてきます。あるいは、アメリカの豊かさの象徴でもあった中産階級、特にインテリ層の功罪を問うているとも言えます。ライカートは、それをあえて突き放すような冷静さをもって描いています。モダン・ジャズによる古典的な劇伴、美術館の心地よさ、アーサー・ダヴの絵画、舞台がお馴染みのオレゴンではなくニュー・イングランドであることも、すべてが見事に計算されています。

「飛行家」 ポンフェイ監督 2025年中国 ☆☆☆ー

笑いあり、涙あり、家族愛が詰まった大衆娯楽映画です。昭和の頃、松竹や東宝がお正月向けに制作していた映画に通じるものがあります。会場には、多くの中国人が詰めかけており、拍手喝采を送っていました。夢をあきらめなかった主人公は、現代中国における大衆の歴史にも重なっているのでしょう。我々には理解できないのですが、時代を感じさせるモティーフが多く登場していたものと思われます。恐らく、多くの中国人にとっては、共感と勇気を与える映画なのでしょう。中国共産党の覚えもめでたい映画だと想像します。

2025年11月7日金曜日

Tokyo Film 2025 (1)

第38回東京国際映画祭が開催されました。今年は、日程の一部が厳島神社の観月能と重なったものの、8日間で18本を見ることができました。毎年、チケットは争奪戦となるわけですが、今年は概ね順調に確保することができました。結果、これまでで最も多くの映画を見ることができました。1日2本を基本に、3本見る日が2日あったのですが、これが体力的限界だと思います。(写真出典:2025.tiff-jp.net)

「蜘蛛女のキス」 ビル・コンドン監督 2025年アメリカ ☆☆☆

1982年、アルゼンチンの軍事政権はフォークランド戦争で英国に敗れ、翌年には民政への移行が行われます。本作は、その前後を舞台とするミュージカル仕立てのファンタジーです。原作は、アルゼンチンの作家マヌエル・プイグ作の小説であり、映画化もされ、ミュージカルにもなっています。民衆を守る代わりに生け贄を要求する伝説の蜘蛛女とは、南米における民主主義の象徴なのでしょう。多重的に構成されたプロットが面白いと思いました。往年のハリウッド・ミュージカルばりの歌も踊りもセットも見事です。ジェニファー・ロペスの魅力も満開です。ディエゴ・ルナはキャシアン・アンド-にしか見えませんが、革命家の役としてはさすがの存在感を見せています。トナティウは見事な演技力を見せつけています。総じて高水準の映画だと思います。ただ、何をやりたかったのか判然としない映画だったとも思います。

「マタドール」 ペドロ・アルモドバル監督 1986年スペイン ☆☆☆+ 

当時、37歳だったアルモドバルが、その名を世界に轟かすきっかけとなった問題作です。アバンギャルドで、ロマンティックで、スリリングな映画です。いつもの自然主義的なアルモドバル映画ではありません。アルモドバルの青臭い意気込み.そして殺人と性欲というテーマが時代を感じさせる映画です。しかし、それらを超えて、アルモドバルの構想力の高さと映画文法のセンスの良さが光る映画でもあります。若き日のアントニオ・バンデラスはじめ、スペインの名優たちが魅力的な演技を見せています。今やネットでも見ることができない旧作を観れて良かったとは思うのですが、東京国際映画祭が、なぜ、この作品をワールド・フォーカス部門で取り上げたのか不思議でした。どうやら、今年のヴェネチア国際映画際でレストア版が上映され、話題を集めたからということのようです。

「ガールズ・オン・ワイヤー」 ヴィヴィアン・チュウ監督 2025年中国 ☆

ヴィヴィアン・チュウは、中国における女性の立場を描いて、高い評価を得ている監督だそうです。若くして米国へ渡り、美術史を学んだ後、映画製作を志して中国に戻り、第6世代を代表するディアオ・イーナンの作品等を製作しています。2013年には自ら監督業に進出します。本作は、彼女の長編3作目となります。端的に言えば、今年最悪の作品でした。テーマへの思い入れや掘り下げが不十分で、かつ最大の問題は基本的な映画文法が欠如していることです。それは、観客を無視していると言われてもやむを得ない問題です。第6~7世代の監督作品の模倣のようですが、レベルが違い過ぎます。中国における女性の立場を訴えたいというねらいは分かりますが、検閲逃れも含めて、もっと練り上げるべきです。高い評価を得たくて焦っているような印象を受けました。

「ポンペイのゴーレム」 アモス・ギタイ監督 2025年フランス ☆☆☆+

イスラエル出身の高名なドキュメンタリー作家である監督が、ポンペイのローマ遺跡で自ら演出した舞台を記録した映画です。ゴーレムとは、ユダヤ伝承の泥人形です。動けるのですが、意志はなく、守り神にも、厄災にもなり得ます。ロボットの原型のようなものなのでしょう。16世紀のプラハで、ゴーレムを作ってユダヤ人を迫害から守ったラビのユダ・レーヴの話がベースとなっています。前衛的な集団朗読劇でもあり、音楽劇でもあります。各々のアイデンティティを尊重し合えば、戦争は起きないはずだと訴えています。中東で続く戦争に対して、心で抵抗するのだという強い意志が伝わります。印象的なプロローグ映像に続き、舞台が映し出されますが、カメラは、ほぼ動きません。映像として評価すべきなのか、舞台として評価すべきなのか、悩ましいところではありますが、少なくとも強い印象を残す舞台ではありました。

2025年11月5日水曜日

空港名

初めて米子鬼太郎空港を使いました。数機のC-2輸送機が駐機しており驚きました。C-2輸送機は、航空自衛隊が2017年に運用を開始した国産輸送機です。その偉容にも驚きましたが、米子鬼太郎空港が共用空港であることにも驚きました。共用空港とは、自衛隊や米軍と民間が共用する空港であり、千歳、三沢、小松等、国内に8ヶ所あります。戦闘機のスクランブル発進時、民間機は待機させられるという特徴があります。境港市にあるこの空港の正式名称は美保空港であり、民間使用区域は愛称として米子鬼太郎空港を使っています。もちろん、境港市出身の水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に由来します。ちなみに、同じ県の鳥取空港は、鳥取市出身の青山剛昌の「名探偵コナン」にちなんで鳥取砂丘コナン空港という愛称を使っています。

空港は、交通施設なので、地名を名称とするのが本筋です。日本には、軍事基地を除き、126の空港があります。そのなかで、正式名称以外の通称・愛称を持つ空港は、なんと100ヶ所近くに登ります。例えば、東京国際空港は羽田空港、大阪国際空港は伊丹空港、中標津空港は根室中標津空港といった地名を分かりやすく伝えるケースもあります。また、中部国際空港はセントレア、神戸空港はマリンエアといったおしゃれ系もあります。しかし、他の多くは観光PRを主な目的とし、徳島阿波おどり空港、岩国錦帯橋空港といった名物・名所を織り込んだ愛称を持ちます。おいしい山形空港、おいしい庄内空港に至っては、目が点になります。大阪万博期間中の限定とはいえ、大分空港がハロー・キティ空港を名乗ったのにも驚きました。

この愛称ブームが、いつ、どこから始まったのかはよく分かりません。ただ、日本初の、そして日本で唯一の人名を冠した空港は高知龍馬空港であり、2003年から使っているようです。このあたりが空港の愛称ブームの始まりなのではないかと思われます。海外に目を転じると、人名のついた空港の多さに驚きます。ローマのフィウミチーノ空港のレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港などは愛称ですが、逆に通称ミュンヘン空港の正式名称は フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港です。NYのジョン・F・ケネディ空港やパリ=シャルル・ドゴール空港なども愛称ではなく正式名称です。空港名に限らず、海外では人名を公共施設、道路、あるいは軍用船などの名称とする傾向が明らかです。対して、日本では人名を使うことは希だと言えます。

前にも書きましたが、日本の軍用船に人名が使われないのは、明治天皇が沈没した際の悪影響を懸念したからとされます。以降、日本の伝統となっています。唯一の例外とされるのは旧防衛庁の砕氷艦「しらせ」です。日本にける南極探検の先駆者・白瀬中尉にちなむ名称ですが、一般公募で決められています。当時の防衛庁は、人名ではなく白瀬中尉の名を冠した南極の地名に基づくと苦しい答弁を行っています。しかし、明治天皇以前から、日本では人造物等の正式名称に人名を使わない傾向があります。恐らく神道の影響なのでしょう。日本では、万物に魂が宿るというアニミズムが、神道を通じて、いまだに息づいている面があります。例えば、それ自体が魂を宿すとされる軍船に、別な人格を有する人名を被せることはしない、ということなのでしょう。

米子鬼太郎空港で、名称以上に面白いと思ったのは、館内のアナウンスです。一部ですが、方言によるアナウンスが流れていました。もちろん、誰でも理解できる程度のマイルドな方言です。遠いところへ旅に来たという実感が湧いて、なかなか好感が持てました。他の地方空港でも取り入れたらいいのではないでしょうか。例えば、青森空港の定型的なアナウンスは、タレントの王林にさせればいいのではないかと思います。米子鬼太郎空港でも、どうせなら目玉おやじの声で「おい、鬼太郎、保安検査は早めに済ませるのじゃゾ」とアナウンスすれば、大いに盛り上がるのではないでしょうか。(写真出典:tottorizumu.com)

2025年11月3日月曜日

有職故実

かさねの色目
平安期の貴族社会では、十二単などの重ね着が正装でした。色と素材の組合せで絶妙なグラデーションを生み出します。色の組合せは個人の自由ではなく、「襲(かさね)の色目」と呼ばれる一定の決まりに基づいていました。そこまで定型化されていたとは知らず、実に驚きました。話は変わりますが、若い頃、会社で行われる役員・管理職の賀詞交換会の準備を手伝っていました。金屏風、生花、酒、つまみにする三種の縁起物など、伝統の品々を準備したものです。いずれも、有職故実(ゆうそくこじつ)の一例と言えます。辞書によれば有職故実とは「朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故。また、それらを研究する学問。平安中期以後、公家や武家の間で重んじられた」とされます。有職は有識者を、故実とは過去の実例を指すと聞きます。

公家故実は、平安中期から体系化が始まり、それを家職とする家も登場し、小野宮流、九条流といった流派も生まれます。武家故実は、鎌倉期に盛んとなり、室町期には小笠原流、伊勢流等が生まれています。いずれも儀礼流派として今に伝えられています。しきたりはうっとうしい面もありますが、有職故実が共有されることで、組織の維持や強化、円滑な運営が可能となります。それは海外でも同じであり、外交にはプロトコールが存在します。組織があるところには有職故実あり、と言ってもいいのでしょう。しかしながら、日本は、とりわけ有職故実好きなのではないかと思います。諸儀式・行事に留まらず、武道、あるいは茶道、能楽、舞踊、和歌・俳句といった芸道、果ては企業風土に至るまで、文化の全てが有職故実の塊のようなところがあります。

日本の文化は、型にはめて安心する、型にはめて究める、といった傾向が強いように思えます。欧米の個人主義に対して日本の組織主義という見立てもあるのでしょう。西洋で異端と言えば正当の反対語です。日本では主に集団からはみ出したものを指す傾向があります。組織主義を身上とする日本文化と有職故実は密接不可分な関係にあるように思います。組織主義は、自然災害の多い日本が育んできた文化と言えます。また、為政者が変わっても天皇を中心とするヒエラルキーが温存されてきた歴史とも関わっているのでしょう。さらに、仏教の影響が大きいとしても基本的には多神教であったことも影響しているのかもしれません。万物に神性を見い出す多神教が、上部構造だけでなく民の生活の隅々にまで有職故実を浸透させている面もあるのでしょう。

江戸期の安寧と幕府による管理社会は、学問としての有職故実を進展させています。江戸幕府も、管理手法として有職故実を活用した面があります。もちろん、形骸化やそれに伴う弊害もあったものと思われます。赤穂浪士による討ち入りの発端となった江戸城松の廊下での刃傷沙汰も、ある意味、行き過ぎた有職故実がゆえに生じた事件と言えます。また、農村部における行き過ぎた組織主義の結果としての村八分なども、有職故実が関連している面もあります。明治期になると、盛んに江戸幕府の旧弊打破が叫ばれますが、本質的には武家政権である明治政府のもと、組織主義もヒエラルキーも温存され、有職故実も様々な分野で生き続けます。その後、敗戦による民主化に伴い、少なくとも上部構造における有職故実はほぼ消失することになります。

組織主義の象徴である日本の有職故実は、日本の美を形成してきたとも言えます。端的に言えば、武道、芸道等における様式美、ないしは形式美ということになります。様式美は、マンネリズムにつながる面もあります。マニエリスムやマンネリズムの語源は、イタリア語で様式や手法を表すマニエラだとされます。しかし、日本の様式美は、無理や無駄のない様式や所作によって、より高い精神性の獲得を目指す点が特徴だと言えます。武道・芸道の”道”が意味するところです。能楽や茶道などが分かりやすい例であり、武道においても、心技体の鍛錬を通じて、より高い人格形成を目指すことが重視されます。つまり、日本の美は、様式のなかに高い精神性を求めるという傾向があるのだと思います。それは、ある意味、禅に通じるところもあります。有職故実は、漂流する日本社会において、見直されるべきものの一つだと思えます。(写真出典:gov-online.go.jp)

2025年11月1日土曜日

カメラのことなど

大学生の頃、毎年、春休みには遠縁の写真館の手伝いをしていました。卒業式シーズンの3月、写真屋は集合写真の出張撮影で大忙しとなります。手伝いと言われたので、出張撮影のカバン持ちや雑多な雑用かと思いましたが、いきなり一人で卒業式の出張撮影を任されました。写真やカメラが趣味というわけでもなく、そんなことは出来ないと断りました。ところが、腕がイマイチでもカメラが良いから安心しろ、と言われ、立派なカメラや照明機材等を持たされ、送り出されました。結果、そこそこ通用する集合写真が撮れました。プロから見ればひどい出来だったのでしょうが、写真屋からは整列のさせ方が上手いと褒められました。希に卒業式のスナップ写真の撮影依頼もあり、これが一番難しかった記憶があります。

高級カメラといっても、当時はオート・フォーカスでもなく、スナップ写真では、構図もさることながら、瞬時にピントを合わせるのが大変でした。そんなアルバイトをしていたので、カメラ好きになったかと言えば、そうでもありません。理由の一つは、カメラが良ければまずまずの写真が撮れると知ったからだと思います。高級カメラは極めて高価で、手が届くような代物ではありませんでした。もちろん、お手頃なカメラは持っていましたが、さほど熱心に撮るタイプでもありませんでした。一人で中国へ旅行した際などには、カメラを持参しなかったほどです。携帯電話、スマホの時代になり、以前よりは画像を撮ることも増えましたが、知れたものでした。ただ、定年退職後、老後の楽しみの一つにしようと思い、ややお高いカメラを買ったことがあります。

ニコンの知人にも相談し、いきなり高価な一眼レフではなく、高機能デジカメから入門するという段取りでした。しばらくは旅先でよく撮影していましたが、ドロミテで骨折して以降、ほとんど撮らなくなりました。片手でバッグからカメラを出そうとして転倒、骨折したのです。カメラが悪いわけではないのですが、それからは持ち歩くことすら面倒になりました。背景には、スマホのカメラが良くなったということもあるのでしょう。近年は、もっぱらスマホで撮影しています。といっても、さほどの枚数にはなりません。しかも、撮った画像を見返すことも、ほぼありません。思うに、カメラは、生来の面倒くさがり屋には向かない趣味なのだと思います。カメラ好きの友人たちには、概してマメな性格の人が多いように思います。

マメかどうかは別として、若い人たちはスマホでやたらと画像を撮ります。カメラ好きではなく、SNSにアップするために撮っているのでしょう。SNS中毒の症状の一つであり、承認欲求を満たすための麻薬のようなものです。美しい光景に出会っても、それを楽しむのではなくスマホで撮影することが目的化されます。映える食事を撮るために注文し、口もつけないという現象も起こります。それは極端だとしても、若者は、食事が出てくると、まずは撮影します。老人たちは、食べてから、撮れば良かったと思いがちです。また、ローリング・ストーンズ・ファンである友人から聞いた話があります。Youtubeでストーンズの最近のライブを見ると、観客が皆スマホを掲げて動画を撮っているので、ライブが盛り上がっているのかどうかが分かりにくいというのです。スマホが、いわゆる主客転倒を起こしているということになります。

後漢で書かれた「漢書」に由来する”百聞は一見にしかず”という言葉はよく知られています。画像や映像は、言葉を超えるほどに強力な伝達力を持っているものです。しかし、この言葉には続きがあります。”百見は一考にしかず”、見るだけでなく考えなければならない。”百考は一行にしかず”、考えたら行動しなければならない。”百行は一果にしかず”、行動するだけでなく結果を出さなければならない。”百果は一幸にしかず”、結果は幸せにつながるものでなければならない。”百幸は一皇にしかず”、幸せは個人のものではなく皆のものにならなければならない。古代中国の知恵の深さには驚かされます。今やネットと電話機能が付いたカメラと言ってもいいスマホの世帯普及率は、9割を超えているようです。過度な画像依存は、言葉の喪失、想像力の減退につながりかねず、人間の劣化をもたらす恐れもあります。(写真出典:fanto-magazine.jp

倭寇