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| 生月大橋 |
生月島は、隠れキリシタンの島です。1553年、平戸松浦藩の重臣で生月島南部の領主だった籠手田安経が、大友義鎮の庇護を受けたバルタザール・ガーゴ神父から洗礼を受けます。1558年には、ガスパル・ヴィレラ神父が、生月を含む平戸で布教活動に入ります。結果、生月島では村ごとの集団入信が増え、寺社が教会に転用され、仏像などが焼かれたようです。当然、それは大きな反撥にもつながり、平戸藩主は、ヴィレラ神父を追放し、教会を閉鎖します。しかし、棄教を強制することはなく、生月島では信徒が増え、16世紀末には、3千人弱と想定される全島民がキリシタンになります。従来から存在した村の組織やヒエラルキーが、そのまま教会組織へと置き換わっていったことが、入信者拡大につながったでしょう。
江戸初期、禁教令が出ると、島民は信仰を隠して生きていくことになります。明治の解禁後にカソリックに戻った教徒は潜伏キリシタンと呼ばれます。キリスト教を独自の解釈で変化させ、解禁後も信仰し続けた人々が隠れキリシタンです。聖書もなく、神父は追放され、教会も閉じられた生月島では、隠れキリシタンが唯一の選択肢だったのでしょう。集団入信の場合、教義の理解が不十分であり、信仰の独自化が進んだとも言えます。生月島は、隠れキリシタンの島ゆえ、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の対象になっていません。ちなみに、追放されたヴィレラ神父は、その後、京都、次いで堺でも布教活動を行っています。本国への報告に際し、堺を”東洋のヴェニス”と呼んだことから、堺の名は欧州でも知られるようになりました。
江戸期、生月島は捕鯨の島としてその名を轟かせます。明治以降、捕鯨は廃れ、現在は一切行われていません。ただ、地元のスーパーマーケットには鯨コーナーがあり、様々な部位が冷凍販売されていました。鯨を食べる文化だけは、しっかり残っているわけです。生月島の捕鯨が最盛期を迎える頃、島から歴史に残る超大型力士が生まれています。その名も生月鯨太左衛門( げいたざえもん)。身長227cmという記録は、いまだに破られていません。18歳で大阪の小野川部屋に入門、翌年には江戸の玉垣部屋に移ります。江戸相撲での戦績は、3勝2敗115休。土俵入りには参加し、人々を驚かせていたようですが、いざ取組となると、巨体を恐れて対戦に応じる力士がいなかったようです。生月は、若干23歳で亡くなっています。死因は、脚気とも梅毒とも言われてます。
生月島の西側には、東シナ海の強風に削られた断崖絶壁が続きます。島の最北端には大バエ灯台があります。80mの切り立った崖の上に建つ白い灯台は、どこか日本離れした光景に見えます。灯台には展望台があり、強風吹きすさぶなか、東シナ海に沈む夕陽を見ることが出来ました。ちなみに、大バエとは妙な名前ですが、これは通称であって、正式名称は”大碆鼻灯台”です。碆(ばえ)とは、矢じりにつける石を意味します。転じて、尖った地形の場所の名称にも使われるようです。思えば、生月島自体も矢じりのような形をしているように思います。灯台を南に下ると御崎浦があります。江戸期、漁民3,000人以上、鯨舟200隻、年間捕獲数200頭以上を誇った日本最大の鯨組”益富組”が拠点としていた浦です。現在は、数隻の小型漁船が舫う港だけがあり、往時を偲ぶものは何一つありません。(写真出典:jalan.net)















