2025年10月30日木曜日

死んだ女たち(配信シリーズ)

メキシコの人気作家だったホルヘ・イバルグエンゴイティアの1977年の小説をNetflixがミニ・シリーズ化しました。濃密なメキシカン・テイストにむせかえるような作品だと思いました。小説は、1964年に発覚した実際の事件に基づいています。売春宿を経営するゴンサレス・バレンズエラ姉妹が起こした事件です。娼婦など200人以上が殺されたとされ、ギネスブックには「最も多発的な殺人パートナー」として記録されています。姉妹は、後に”ラス・ポキアンキス”と呼ばれます。服装倒錯者、裏社会の掃除人等という意味らしいのですが、どうもピンときません。いずれにしてもラス・ポキアンキス事件は、メキシコ社会を揺るがした大事件でした。

19世紀、スペインから独立したメキシコでは、長らく混乱の時代が続きました。しかし、事件当時は、制度的革命党の一党独裁体制が続き、社会も安定し、経済成長を続けていました。事件後の1968年には、中南米初となるメキシコ・オリンピックも開催されています。一方で、外資の導入による経済成長は、富の集中や地域格差を生み、一党独裁の長期化は、行政、司法、軍政などに腐敗の構図を生み出していました。地方で起きたラス・ポキアンキス事件には、こうした当時のメキシコの状況がすべて反映されているように思います。オリンピックの初開催は経済的成長の証でもありますが、同時に経済の急成長はひずみをも産むことになります。1964年の東京オリンピック開催前夜の日本も、同じとまでは言いませんが、似たような状況にあったのでしょう。

姉妹は、行政、司法に賄賂をばらまき、軍人も後ろ盾に取り込んで、売春宿を拡大していきます。金さえあれば、世の中に怖いものなどない、という状況だったわけです。ドラマでは、娼婦たちの死は病気や事故によるものであり、姉妹は死体を遺棄したものの、故意的な殺人は犯していないとされています。ただ、裁判では、マスコミに煽られた娼婦たちの偽証によって、極悪非道な経営者、殺人鬼として裁かれるという設定になってます。ところが、実際の事件では、姉妹は役立たずになった娼婦たち、娼婦たちが産んだ赤ん坊を次々と殺害していたようです。恐らく、ドラマでは、姉妹を単なる冷酷な殺人者ではなく、また娼婦たちも単なる被害者ではなく、いずれも時代や社会環境に翻弄された大衆の象徴にしたかったのでしょう。

子供を売った娼婦の親たちも、賄賂を受け取っていた官憲も、時代の犠牲者だと言っているのかもしれません。メイドにすると言われて娘を売った貧しい親たちは、娘の身に何が起こるか知っていたのでしょう。賄賂を受け取った役人たちも極悪人としては描かれていません。しかし、そうした状況は、メキシコの一時代に限った悲劇だとも思えません。スペインに侵略されて以降の中南米が、いまだに抱える構造的問題こそが主題のようにも思われます。貧富の格差ならば、いつの時代も世界中に存在します。中南米の場合、固定化された階級社会こそが問題なのだと思います。大規模プランテーションによって生み出された支配層と奴隷的な大衆という構図が、今なお温存されているように思えます。幾度かの革命や左翼の攻勢にも関わらず基本構造が変わっていないのは、外国資本による経済支配が続いているからなのかもしれません。

監督のルイス・エストラーダは、メキシコの社会派監督として知られているようです。乾いた空気感、独特なテンポ、時にコミカルな演出などが面白いと思いました。以前、監督は、米系の会社から、この原作を英語で映画化するというオファーを受けたものの、断ったそうです。確かに、スペイン語でなければ、原作の持つ深さを表現することは難しいと思います。そして、何よりも、長くても3時間という映画の枠内には、到底、収まらりきらない作品だと思います。Netflixで配信された「百年の孤独」も、まったく同様です。そういう意味では、配信のミニ・シリーズは、新たな表現方法と言えるのかもしれません。(写真出典:filmarks.com)

2025年10月28日火曜日

恵比寿

七福神とは、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天という七柱の神々を指します。人々に幸せと豊かさをもたらす縁起の良い神々です。正月に七福神を詣でると福がもたらされるとされ、お参りできない人は七福神の絵を飾ります。絵図の中の七福神は、財宝を満載した宝船に乗った姿で表されます。いわゆる縁起物ということになります。昔は、枕の下に入れて眠ると良い初夢が見られるとされていたようです。また、家の床の間や商店の軒先にも飾られていたものでしたが、近年では見かけることも少なくなりました。七福神は、日本独自の信仰です。そして、実に日本らしい信仰だと思います。

恵比寿は日本の神話に基づく純国産の神です。大黒天、毘沙門天、弁財天は、ヒンドゥー教の神々に由来します。福禄寿、寿老人は、道教の神です。布袋は、実在した唐の禅僧とされます。七福神は、日本、インド、中国の多国籍軍であり、神道、ヒンドゥー教、道教、仏教の混成部隊です。また、七柱の神々という枠組みは、3世紀の中国で、老荘思想を説いた七人の思想家を指す「竹林の七賢」に由来します。いわば福徳という出汁で炊いたちゃんこ鍋のようでもあり、日本の文化の有り様を象徴しているようにも思えます。多神教ならではの大雑把な現世御利益主義は、ヒンドゥー教に通じるものもあると思います。正月の七福神巡りは恵比寿参りから始めます。釣り竿と鯛を持った姿の恵比寿は、蛭子、夷、戎、胡、蝦夷、恵比須、恵美須等とも表されます。

古事記の国生み神話によれば、イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコであり、次がアワシマでした。しかし、二児には障害があり、海に流されます。その後、アマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれます。日本書紀では、ヒルコは三番目に生まれたとされ、後代、三郎とも呼ばれます。ヒルコは、海を漂った後、摂津国に流れ着いたという説があります。古来、夷(えびす)とは、海から来て福をなすという神です。海から来た三郎はえびすと同一視されるようになり、漁業の神・戎三郎として信仰を集めることになります。また、えびすを、国譲り神話の大国主命の子である事代主神とする信仰もあります。国譲りを迫られた大国主命は、事代主神に判断を委ねます。その際、事代主神が釣りをしていたことから、恵比寿が釣り竿と鯛を持つことになります。

えびす信仰の始まりは判然としません。全国に3,500社を数えるえびす神社の総本山は西宮神社です。鳴尾の漁師が和田岬沖でヒルコ像を引き上げ、その神託によって西宮神社が創建されたと言います。境内の隣接地に人形芸で各地を巡業する傀儡師の本拠地があり、彼らがえびす信仰を全国に広めたようです。当初、えびすは漁業神でしたが、商業が盛んになると商売の神となり、西宮神社は大いに栄えます。西宮神社と言えば、正月の十日えびすで行われる福男選びが、必ず全国ニュースで流されるほど有名です。また、大阪の今宮戎神社は”えべっさん”と呼ばれ、十日えびすの”商売繁盛 笹もってこい”の掛け声や福むすめによる福笹の授与が有名です。ちなみに、福むすめは公募され、その中から多くのTVアナウンサーが輩出されていることでも有名です。

国生み神話のなかで、イザナギとイザナミの最初の子ヒルコと二番目のアワシマが障害を持って生まれ、海に流されたとされるのは、どういう意味なのか、いかなる意図があるのか、実に興味深いところです。世界の国造り神話においても、同様の傾向があると聞きます。古代の出産状況が反映されているようにも思いますが、あえて神話に反映させている意味が知りたいものだと思います。ヒルコは、恵比寿となって信仰を集めることになりましたが、アワシマも、全国に1,000社を数える淡島神社に祀られています。淡島神は、婦人病祈願、人形供養、針供養で知られます。ヒルコとアワシマが寄り添った漁民、商人、あるいは女性は、古代社会において、必ずしも地位が高い人々ではありませんでした。社会的地位が低かった人々が、ヒルコとアワシマを信仰することで、国生み神話、ひいては国の大本に関わっていこうとした、ということなのかもしれません。(写真出典:jiincenter.net)

2025年10月26日日曜日

「ハウス・オブ・ダイナマイト」

監督:キャスリン・ビグロー      2025年アメリカ

☆☆☆☆ー

ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞にノミネートされたキャスリン・ビグローの新作は、一部劇場での上映を経て、Netflixで配信されました。その緊張感あふれる展開は、彼女がアカデミー賞を獲得した「ハートロッカー」(2008)、あるいは「ゼロ・ダーク・サーティ」(2012)や「デトロイト」(2017)に通じるものがあります。実にキャスリン・ビグローらしい映画だと言えます。映画は、突然、米国目がけて発射されたICBMの着弾予想時刻までの19分間を、政府と軍の対応を中心に3つの視点から描いています。3つの視点が意図するものは理解できますが、やや区分の明瞭さに欠けるように思いました。性格的には密室映画とも言えますが、十分以上に映画的広がりも確保されています。

映画は、他国のICBM発射を補足した際の米国政府や軍のプロトコールをかなり正確に反映しているようです。全ての対応が予め定められたマニュアルに沿って粛々と進められ、それを支える軍備や通信等のテクニカル・サポート体制も見事なものです。にも関わらず、そこではテクニカル・ミスやヒューマン・エラー、あるいは不測の事態も生じます。また、マニュアル化されているとは言え、報復攻撃を行うかどうかという最終判断は大統領に委ねられています。しかも時間は限られています。耐えがたいほどのプレッシャーのもと、大統領は逡巡することになります。今さらながら、個人が世界の終焉を判断できるのか、あるいはその判断を個人に負わせていいのかという疑問に寒気を覚えました。人類は、少なくとも2度、核戦争勃発直前という危機を経験しています。

1962年のキューバ危機、1983年のスタニスラフ・ペトロフ中佐の事案です。キューバ危機では、ケネディ大統領とフルシチョフ書記長の核戦争を回避するという意志が世界を救いました。ソ連防空軍のペトロフ中佐は、監視衛星が発したミサイル攻撃警報を受けますが、これを誤警報と判断します。このマニュアルや権限を逸脱した中佐の行動が世界を救いました。しかし、人間の判断がいつも核戦争回避へ傾くとは限りません。核軍備の増強は、核抑止力という危うい幻想の上に成り立っています。核抑止力の本質は、報復攻撃という脅しです。しかし、脅しが常に有効とは限らず、その場合、マニュアル上は報復攻撃の応酬が始まり、人類は滅亡の危機へと向かいます。映画のなかに”報復しないことが降伏なら、報復することは自殺です”というセリフがありました。実行すべきではない脅しの上に成立する核抑止力の危うさが端的に語られています。

東西冷戦下における核戦争のリスクは、アメリカとソ連という二ヶ国の問題であり、リスクは大きいものの、ある意味、単純な構造だったと言えます。現在、核兵器不拡散条約(NPT)が認める核兵器保有国はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、 中国の5ヶ国ですが、NPTの枠外で核兵器を持つとされるのがインド、パキスタン、イスラエル、 北朝鮮の4ヶ国です。この4ヶ国は、核抑止ネットワークの外にあるわけですから、現状、核戦争のリスクはより複雑で危険な状況にあると言わざるを得ません。映画でも、断定はしていないものの、突如として発射されたICBMは北朝鮮のものであり、ロシアも中国も事前には知らされていなかったという設定になっています。爆薬であふれた家の発火リスクは、意図的、偶発的を問わず、一層高まっているわけです。

本作は、人々が逃げ惑うパニック映画でも、個人の頑張りで世界が救われるといったヒーロー映画でもありません。核抑止力というアイロニカルで危うい理論を真っ正面から捉えていると言えます。政治、戦争、社会問題をテーマとするキャスリン・ビグローの映画は、骨太でありながら、テンションの高さからエンターテイメントとしても成立しているのだと思います。彼女の元夫は、希代のヒット・メーカーであるジェームス・キャメロンです。アバターとタイタニックは、歴代興業成績の1位、2位を占めています。この二人が夫婦だったとは信じられないほど作風が異なります。ちなみに、2009年のアカデミー賞は、この二人のハートロッカーとアバターの戦いとなり、キャスリン・ビグローが勝利しています。(写真出典:imdb.com)

2025年10月24日金曜日

フェリー

ジョラ号
ローマや京都と並び“千年の都”と呼ばれるイスタンブールは、ボスポラス海峡を挟んで、アジア側とヨーロッパ側にまたがる大都市です。ボスポラス海峡には、3つの橋と鉄道用・車両用の海底トンネルがありますが、 市民が日常的に使うのはフェリーです。朝夕には、べらぼうな数の小型フェリーが行き交います。その活気あふれる光景は、イスタンブールが持つ独特な風情を象徴しているように思います。実は、1872年、世界で初めてカー・フェリーが就航したのが、このボスポラス海峡だったようです。ヨーロッパ側のカバタシュとアジア側のユスキュダル間を運航しました。ちなみに、ユスキュダルは、1950年代に世界的ヒットとなったトルコ民謡「ウスクダラ」の舞台です。日本でも、江利チエミがカバーしてヒットさせたようです。

世界初のカー・フェリーは、蒸気駆動の鉄製外輪船でした。前後に馬車用の乗船口とランプウェイを備えていました。列車や車を自走させて船に積み込む方式は、ロール・オン/ロール・オフ(RORO)と呼ばれます。対して、貨物をクレーンで積み込む方式は、リフト・オン/リフト・オフ(LOLO)と呼ばれます。世界初の近代的RORO船は、1850年、列車専用としてスコットランドで就航しています。貨物輸送の主役が鉄道からトラックに代わったこともあり、列車を積み込むフェリーは、世界的に見てもごくわずかしか運行していません。かつて、日本にも鉄道と直結した鉄道連絡船が就航していました。有名なのは青函連絡船、関門連絡船、宇高連絡船でしたが、すべてトンネルや橋に置き換わり、現在は残っていません。

一方、カー・フェリーは、島や半島のある地域では、今も重要な交通手段になっています。大量輸送が可能であることから、経済的でもあるわけです。主要航路ではカー・フェリーの大型化が進んできました。現在、世界最大とされるのは、ノルウェーの「カラー・ファンタジー」で、オスロとドイツのキールを結んでいます。旅客定員2,750人、積載車両750台、見た目は大型クルーズ船と変わりません。実際、内部には複数のレストラン、ナイトクラブ、パブ、カジノ、プール等があり、ほぼクルース船仕様と言ってもいいのでしょう。日本の大型フェリーも、近年のクルーズ・ブームを受けて、船内設備が豪華になる傾向があるようです。ペットを連れて旅行する人たちの需要をねらい、ドッグランまで備えている船もあり、人気だと聞きます。

しばしば、カー・フェリーの事故のニュースを目にしますが、カー・フェリーの事故発生率は、他よりも決して高いわけではありません。ただ、ひとたび事故が起これば、多数の犠牲者が出る傾向にあります。フェリーの事故には、構造上の問題も大きく関わっているようです。カー・フェリーは船底に近いところに広い車両甲板を持ち、ランプウェイのある乗船口も低いところにあります。つまり浸水のリスクが高いわけです。もろん、十分な対策が施されていますが、ひとたび浸水すれば、隔壁を持つ他の船舶よりも復元率は低くなります。つまり、浸水してから沈没するまでが早いということになります。また、構造上、車両甲板で火災が起きれば、瞬く間に火の手が船内に広がることになります。脱出できる確率も大いに下がるわけです。

国内のカー・フェリーの事故で最悪だったのは1954年の「洞爺丸事件」です。台風が小康状態に入ったと判断して函館港を出港した青函連絡船「洞爺丸」は、船尾車両搭載口から浸水して沈没します。死者は1,155人に及び、日本のおける最悪の海難事故となりました。世界最悪のカー・フェリー事故は、2002年にアフリカのガンビア沖で沈没した「ジョラ号事件」です。定員の倍以上の乗客を乗せ、積載量も限度をオーバーしていたセネガルのRORO船は、嵐に襲われ、バランスを失い沈没したと見られています。1,863人が亡くなっています。アジアやアフリカで起きる海難事故では、杜撰な運行管理が問題となるケースが多いように思います。近海の定期航路を頻繁に航行するカー・フェリーには”慣れ”という問題が発生しやすく、定員オーバーや積載オーバーも起こりやすいのだろうと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2025年10月22日水曜日

庭園日本一

島根県安来市にある足立美術館の庭は、アメリカの日本庭園専門誌が選ぶランキングで、桂離宮などをおさえて22年間トップをとり続けています。 いまでは日本一の庭園として知られる存在になっています。一度見てみたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。今回、思い切って、足立美術館と月山富田城だけを目的に安来を訪れました。安来といえば、何と言っても安来節ということになります。いわゆる”どじょうすくい”です。明治期になって形を成した民謡であり、その滑稽な踊りを大阪の吉本が舞台にかけたことで大ヒットし、全国に広まったようです。安来節のイメージしかなかった街ですが、近年では足立美術館のある街として知られるようになりました。

足立美術館は、不動産投資で財を成した足立全康によって、1970年に設立されています。足立全康は、この地の農家に生まれ、尋常小学校卒業後、商売に道に入っています。戦後は、大阪と安来を拠点に不動産投資に進出し、高度成長を背景に大成功を収めます。終戦直後、横山大観展で見た六曲一双の屏風絵「紅葉」に感動し、日本画の収集家としても活躍することになります。足立美術館の所蔵品は、彼の日本画コレクションを中心に構成されていますが、特に大観は「紅葉」を含む120点が所蔵されています。他にも、全て名品とまでは言いませんが、名だたる日本画家の作品がもれなくと言っていいほど揃っています。あたかも日本画150年の歴史をたどるかのようです。また、北大路魯山人の器や書の大コレクションは別な建物に収められています。

足立全康のコレクションに対する執念すら感じさせるこの美術館は、飯梨川沿いの谷間にあります。ここは足立全康の生家があった場所のようです。自慢の庭は、昭和の小堀遠州とまで言われた中根金作の作品です。その広さは5万㎡、東京ドームを超えています。借景される近隣の山も含めれば16万㎡を超えます。日本庭園の特徴とされる枯山水、白砂青松庭、苔庭、池庭、滝などが丁寧に配され、どこから見ても絵になる見事な庭園と言えます。庭園内の石は、すべて足立全康自らが収集したものと聞きます。彼は、庭園もまた一幅の絵である、と語っています。その端的な象徴とも言えるのが、ガラス越しに庭を臨む生の掛軸、生の額絵であり、その前は黒山の人だかりになっていました。庭においても、足立全康の執念を感じます。

その隙のない作庭にも驚きますが、それ以上に感心させられるのはメンテナンスの徹底ぶりです。葉っぱ一枚落ちていませんし、木々は見事な枝振りを完璧に保っています。それなりの庭園は、当然、メンテナンスされているわけですが、ここは完璧を期しているとしか思えません。専属の庭師は5人、今年は新人2名が採用されたそうです。訪れた時、ちょうど数名の庭師が作業を行っていましたが、実に細かな剪定を行っていました。景観のみならず、このメンテナンスも高く評価されての日本一なのでしょう。足立全康のこだわりが詰まった庭ですが、徹底的なメンテナンスにも彼の強い執念を感じさせられます。足立全康は、1990年に91歳で亡くなっています。死後35年を経てなお彼の執念は生き続けていると言えるのでしょう。

日本三大庭園と言われるのは、水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園です。いずれも江戸期に大名が作った広大な回遊式庭園ですが、三大庭園とは、三つの大庭園のようにも思えます。西洋でそれに相当するのが王宮等の幾何学模様の庭園だと思います。西洋庭園は、王が自然をも支配していることを示そうとしているように見えます。対して日本庭園は、自然との調和を図ろうとしていると言われます。もちろん、庭である以上、いずれも人工的なものではありますが、日本庭園の場合、理想とする自然の景色を再現しようとしている点が特徴的なのだと思います。その背景には、自然のなかの人間という思想があり、自然対人間という西洋的な思考とは異なるということなのでしょう。その違いを煎じ詰めれば、多神教と一神教の違いに行き着きます。日本の文化や思想の多くは、自然災害の多さ、メリハリの効いた四季の移ろいといった環境が生んだものなのでしょう。(写真出典:kankou-shimane.com)

2025年10月20日月曜日

プロ・スポーツ

Noah Lyles
過日、東京で開催された世界陸上を観戦しました。19時開始のイブニング・セッションでしたが、3時間30分、まったくダレることなく楽しめました。トラックでは次々とレースが行われ、フィールドでは複数の競技が同時進行していました。DJ調のアナウンス、インタビュー、ディスコ風の音楽も会場を盛り上げていました。席は3階でしたが、トラック競技のフィニッシュ・エリアとインタビュー・エリアを見下ろす席でした。1、2階席は満席なのですが、3階は半分程度の入りで、ゆったり見られたのも良かったと思います。また、40年前にもらったニコンの双眼鏡を持参したのですが、場内の2つの巨大ディスプレイが競技の模様などをライブで映し出すので、まったく必要ありませんでした。

プログラムの構成も、偏りのない見事なもので、毎日、複数の決勝種目が組み込まれています。総じて言えば、超一流のエンターテイメントだったと思います。世界陸上は、陸上競技の国際団体であるワールド・アスレチックスが、1983年に始めています。モスクワ・オリンピックを多くの国がボイコットしたことが契機になったようです。現在は、隔年開催であり、今回の東京は、1991年東京、2007年大阪に続く、3度目の日本開催です。世界のトップ・アスリートが集まり競うという大会としは、オリンピックやサッカーのワールド・カップに次ぐほどの盛り上がりを見せていると思います。世界陸上を、ここまでにしたワールド・アスレチックスの運営手腕は見事なものだと思います。また、日本での人気は、TBSと織田裕二の貢献も大きいと思います。 

徹底的にエンターテイメント化された世界陸上を観戦しながら、アマチュア・スポーツとプロ・スポーツの違いについて思い起こしていました。かつて、アマチュアとは、スポーツで収入を得ていない者といった規定がありましたが、もはや垣根はほぼ存在しないと言えます。象徴的には、1974年、オリンピック憲章からアマ規定が外されたことが挙げられます。時代が変わり、厳密な規定化が困難になった面があったのでしょう。例えば、国や企業から何らかの支援を受けている選手を、アマと呼べるかどうかは微妙な問題です。一方で、野球やゴルフでは、特定の興行団体に所属する者がプロとされ、それ以外はアマという分かりやすい規定になっています。そもそも、プロとアマという区分は、本当に必要だったのか、とさえ思います。

スポーツの語源は、ラテン語の”気晴らし”だとされます。そもそもスポーツはすべてアマチュア競技だったわけです。日本の力士は、世界最古のプロ選手と言われます。力士は、貴族や武家が召し抱えられていました。18世紀の英国でも、貴族がスポーツ選手を抱えていました。いわゆるパトロン・スポーツです。産業革命後、市民を中心に賞金の出る競技会が普及し、多くの労働者も参加します。スポーツが市民に解放されたわけです。一方、これを良しとしない貴族は、アマチュア規定を発明し、労働者からスポーツを取り戻そうとします。つまり、プロ・アマ規定は、英国の階級闘争の産物だったわけです。その後、米国でも野球などにプロ・アマ規定が導入されますが、こちらは階級闘争ではなく、賭博と賄賂の横行が原因だったようです。要は、競技団体が競技と選手を管理しようとしたわけです。野球やゴルフの規定は、その名残だと言えます。

現代におけるプロとアマの違いとは、資格の問題ではなく、競技の興行団体側の問題、つまりエンターテイメント・ビジネスにおける運営・管理上の問題のように思います。例えばゴルフは、2022年に規定改正が行われ、アマも10万円以下の賞金なら受け取れるようになりました。大会参加費用に当てるという意味合いがあるようです。賞金のうち、10万円を超える部分は、慈善団体等に寄贈されるとのことです。また、アマが、スポンサーから金銭や用具を受け取ること、あるいはCMへ出演することに関する制限も無くなっています。つまり、ビジネスを守ることには熱心でも、それ以外のことは知ったことじゃないというわけです。我々の年代に浸透していたプロ・アマの区分は、既に存在していないと思っていいのだと思います。(写真出典:the.ans.jp)

2025年10月18日土曜日

「ワン・バトル・アフター・アナザー」

監督:ポール・トーマス・アンダーソン    2025年アメリカ

☆☆☆☆

本作は、トーマス・ピンチョンの「ヴァインランド」をポール・トーマス・アンダーソンが翻案した作品です。トーマス・ピンチョンは、現代アメリカを代表する作家として高く評価されています。公式の場に姿を現わさないばかりか、ほぼ写真もないという謎の作家でもあります。ポール・トーマス・アンダーソンは、2014年にピンチョンの「インヒアレント・ヴァイス」を映画化しています。ピンチョンが映画化を許可した初めての、そして唯一の作品です。個人的には、印象に残る好きな映画の一つでした。ただ、興行的には失敗しています。プロットが、やや難解で複雑だったからなのでしょう。ピンチョンを読んだことはないのですが、それがピンチョン作品の特徴なのだと想像します。本作にも、同じ傾向を感じます。

ピンチョンの原作は、カウンター・カルチャーの時代である1960年代に暴力革命を目指した連中が、80年代の保守的な社会と向き合う姿を通して、アメリカの現代史を描いているようです。本作は、時代感を抑えた形で制作され、現代にも通じる普遍性を持たせようとしているように思われます。トランプの登場で明確となったアメリカの右傾化を批判する意図もあるのでしょうが、それだけではありません。ドラマの構図は、極左の母と極右の父を持つ娘が、極左の養父のもとで育つというものであり、父と娘の関係こそがメイン・プロットなのでしょう。映画のなかの極左も極右も、実に漫画的に描かれています。監督が訴えたかったのは、政治思想を超えたアメリカ人本来の価値観や親子の絆なのでしょう。ポール・トーマス・アンダーソンらしいテーマだと思います。

ポール・トーマス・アンダーソンの映画は、交響曲を思わせるような見事な構成力を持っていると思います。本作では、それに加えて映画としてのパワーと迫力を感じました。本作は、ビスタ・ヴィジョンで撮影され、鮮明で凄みのある映像になっています。また、いつもどおり、巧みにシンコペーションを利かせた演出とテンポ、それらと見事にシンクロしたレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドによる音楽が印象的です。アクション・シーンは、他とは一線を画す斬新さを持っています。クセ強のキャストたちによる演技も魅力的なものになっています。3時間という長尺さを一切感じさない映画でした。パワフルでコミカルなエンターテイメントという意味では、ポール・トーマス・アンダーソンの新しい一面が見られたように思います。

キャストでは、ラッパーのテヤナ・テイラーの存在感が強烈です。いい人を見つけたものです。また、65歳になるショーン・ペンが実に彼らしい役柄を楽しんで演技しています。いつもながらベニチオ・デル・トロの存在感と安定感は抜群です。レオナルド・ディカプリオは好きな俳優ではありませんが、今回は見事なはまり役だったと思います。監督の前作「リコリス・ピザ」で、映画を決定づけるほどの印象を残した歌手のアラナ・ハイムも、ちょい役で顔を見せています。ちなみに、映画に登場する極左過激派集団”フレンチ75”の名前は、1975年におけるフランス革命の再現を意味しているのでしょうが、パリのハリーズ・バーで生まれたカクテル名でもあります。第一次世界大戦におけるフランスの勝利を期待して、75mm野砲にちなんで命名されています。

秀逸なモティーフにあふれる映画ですが、特に父娘が潜伏するメキシコ不法移民の街、そして娘を匿う武装修道院というアイデアにはやられたと思いました。不法移民の聖域であるバクタン・クロスは架空の街ですが、ピンチョスの作品を今日的にアップデートしていると思います。また、武装修道院は、ロケ地となったカリフォルニア州北部に実在するシスターズ・オブ・ヴァレーという修道院もどきの大麻生産・加工施設がモデルになっているようです。修道院ではないものの、ほぼ修道院と同じ生活を送りながら大麻製品を製造・販売し、成功を収めているようです。武装修道院という設定は、右派の温床である福音派プロテスタントを皮肉っているようにも見えます。しかし、単に教会を批判しているわけでないと思います。極左の娘を匿う修道院が、極右と戦い殲滅されるというアイロニカルなプロットには、アメリカ建国の精神であるピューリタニズムへの回帰が意図されているように思いました。(写真出典:eiga.com)

2025年10月16日木曜日

七難八苦

島根県安来市の月山富田城は、戦国大名・尼子氏の本拠地であり、難攻不落の山城とされます。1542年に大内氏の45,000人の大軍に包囲されますが15,000人で守り抜き、1565年には毛利軍35,000人に攻められますが10,000の兵でよく耐えます。ただ、最終的には、兵糧攻めにあい、降伏しています。高地戦の場合、攻撃側は守る側の3倍の兵力を要すると言われます。月山富田城は、3倍以上の敵をも寄せ付けなかった最強の城の一つと言えます。今般、麓から山頂の本丸跡まで登ってきました。さすがに厳しい山であり、登るのに約1時間かかりました。中腹には、山中鹿之助の大きな銅像が建っていました。山中鹿之助は、尼子氏の軍師であり、数々の武勇伝とともに、死ぬまで尼子氏再興のために奮闘したことで知られます。 

山中鹿之助と言えば、尼子氏再興を誓って三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったというエピソードが有名です。明治政府は、鹿之助の忠義の厚さを称え、このエピソードを教科書に載せます。戦前に教育を受けた人たちにとって、鹿之助の名と七難八苦のエピソードは骨の髄まで染みていたわけです。そういう親のもとで育った我々の世代も知ってはいますが、若い人たちにはまったく馴染みがないと思います。七難八苦は、観音経に由来する言葉であり、七難は火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難、八苦は生・老・病・死に加え愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦となります。ちなみに四苦八苦の八苦も同じであり、四苦は生老病死を指します。八苦は、人が生きていくうえで避けがたい苦難ということなのでしょう。

山中鹿之助は、1569年から死ぬまでの10年間に、3度に渡って尼子再興の兵を起こしています。武芸に秀で、軍才に優れた鹿之助は、毛利勢を次々に撃破していきますが、やはり中国一帯を支配する強大な毛利には敵いませんでした。毛利に2度敗れた鹿之助は、急速に勢力を拡大する織田信長の傘下に入ることで、3度目となる毛利との戦いに挑みます。鹿之助は、ここでも赫々たる戦果を挙げ、毛利勢から奪った上月城を3,000の手勢とともに守ることになります。上月城は、播磨・美作・備前の三国の国境に位置する要所であり、毛利軍は、3万の兵をもって奪還に動きます。中国攻め総大将の羽柴秀吉は、上月城に援軍を送ろうとしますが、三木城攻略を優先する信長の命によって断念。上月城は孤立し、毛利勢に降伏せざるを得ませんでした。

生け捕りにされた鹿之助でしたが、護送中に謀殺されています。享年39歳でした。尼子再興軍の生き残りは、尼子一族の亀井茲矩に引き継がれます。秀吉によって出雲半国を約束された亀井茲矩は奮戦を続けますが、本能寺の変で約束は反故にされます。秀吉の朝鮮出兵にも参戦、関ケ原の戦いでは東軍に参加、出雲に隣接する鹿野藩を拝領しています。その後、津和野藩に転封となり明治を迎えています。出雲国、月山富田城に戻ることはできませんでしたが、尼子勢は、鹿之助の活躍をもって再興されたと言ってもいいのでしょう。まさに七難八苦と言える鹿之助の生涯でしたが、宿望に生きた人とも言えるのでしょう。七難八苦とは、単に困難の連続を指すのではなく、大きな望みを実現するためなら苦労は厭わないという覚悟を表す言葉だと言えます。

月山富田城は、日本百名城とともに、日本五大山城にも数えられています。他の日本五大山城は、春日山城、七尾城、観音寺城、小谷城とされています。これらは、戦国時代における戦うための山城です。一方、日本三大山城と呼ばれる岩村城、高取城、備中松山城は、藩庁としての政治的・行政的役割も担っていた近世の山城です。日本の城と言えば、壮麗な天守閣を持つ城がイメージされがちです。しかし、天守閣の歴史は、信長の安土桃山城に始まるわずか50年に過ぎません。それまでの城は、まさに戦うための城であり、山城が中心でした。しかし、中世の山城を訪れる観光客は希です。アクセスが悪いこと、険しい山頂にあること、石垣が残るばかりで見所に欠けることなどが要因なのでしょう。月山富田城も、訪れていた人は数名に過ぎませんでした。その代わりに、蛇は何匹か見かけましたが。(写真出典:kankou-shimane.com)

2025年10月14日火曜日

「ブラック・バッグ」

監督:スティーブン・ソダーバーグ    2025年アメリカ

☆☆☆

20~30年前、ソダーバーグに勢いがあった頃には、喜んで観に行ったものですが、ここ10年くらいは、ほとんど観ていません。とは言え、ソダーバーグのスパイ・スリラー、主演はケイト・ブランシェットとマイケル・ファスベンダーとくれば、やはり観に行かざるを得ません。さすがの出来映えでした。緊張感、テンポ、スマートな演出、やはり腕の立つ監督であることは間違いありません。しかし、興行的には大コケしています。そこがソダーバーグという監督の本質を端的に現わしているように思います。つまり、上手い映画だと思っても、後には何も残らないのです。結果、上質ではあるものの、単なる暇つぶし映画といった印象になります。

デビッド・コープの脚本は良く出来てると思います。コープは、ジュラシック・パーク、ミッション・インポッシブル、インディ・ジョーンズ、スパイダーマンなどの大ヒットを放ってきた大人気脚本家です。本作では、複雑なプロットが、ほぼ会話だけで展開していきます。会話劇といえば、「探偵スルース」(1972)を思い起こします。監督はジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、出演者はほぼサー・ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインだけ、長尺ながら緊張感が続く傑作でした。本作は、スルースほど徹底した会話劇ではありません。ソダーバーグの巧みなカットや主演の二人によるさすがの演技によって上質な映画に仕上がってはいるものの、中途半端な会話劇であることが、映画的パースペクティブを失わせていると思います。

恐らく、夫婦の絆が主題だったのだろうと想像します。しかし、会話だけで複雑なプロットを展開する必要からか、そのテーマは埋没気味だったと言えます。加えて、主演の二人の使い方にも、多少、難があったように思います。今回、ケイト・ブランシェットは金髪ではありません。いつもなら、金髪で謎めいた表情を見せる彼女の存在感はえげつないほどです。本作の地味な出立は、役柄上必要だったと理解しますが、彼女の魅力や演技を活かしきれていない印象を受けます。マイケル・ファスベンダーは、さすがの存在感を見せていますが、陰影の深さは感じられませんでした。ソダーバーグは、二人の存在感を前提に、あえて抑え気味の演技をさせたのでしょう。ねらいはよく理解できますが、やや不発気味であり、もったいないな、と思いました。

映画の制作技術においては、当代有数の達人と言えるソダーバーグですが、才に走る傾向が強いように思います。ソダーバーグは、その長いキャリアのなかで、2度の休止期間がありました。先進的で、おしゃれで、スマートなソダーバーグの映画は高く評価されてきたわけですが、本人にとっては、それがプレッシャーだったのかもしれません。高い技術力を使って何を表現するかが大事であることは、本人が一番よく知っているものと思います。とは言え、斬新な映画に対する周囲の期待が、彼の背中にのしかかっていたのでしょう。思い起こすのは日本の家電メーカーの衰退です。かつて、世界を征した日本の家電は、高スペックにこだわりすぎて、世界市場を失ったとも言われます。品質が高いものは必ず売れる、というのがものづくり日本を支える神話でした。しかし、顧客が求めているものは、高スペックではなく実用性だったわけです。

デビュー作「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)でカンヌのパルムドールを最年少受賞、「トラフィック」(2000)でアカデミー監督賞を獲り、オーシャンズ・シリーズで大ヒットを飛ばし、他にも多くの話題作を送り出してきたソダーバーグは、巨匠と呼ぶべき監督なのでしょう。しかし、まだ62歳。彼が立ち返るべき原点があるとすれば、トラフィックとオーシャンズだと思えてなりません。(写真出典:eiga.com)

2025年10月12日日曜日

巴御前

巴御前は、平家物語や源平盛衰記といった軍記物語にしか登場せず、遺物なども発見されていないことから、架空の人物とされています。物語のなかの巴は、源(木曽)義仲に仕える一騎当千の女武者です。木曽四天王と呼ばれた樋口兼光・今井兼平兄弟の妹、あるいは樋口兼光の娘ともされます。兄弟の妹だとすれば、乳母子として、義仲とは幼少期から共に育った仲ということになります。宇治川の戦いで鎌倉勢に敗れ、わずか5騎となった義仲主従は琵琶湖畔の粟津で討たれます。5騎のなかに、巴も残っていましたが、女連れで討ち死にするわけにはいかないと、離脱させられます。

巴御前の最大の謎は、なぜ平家物語は架空の女武者を登場させたのか、ということだと思います。平家物語には、実在・架空取り混ぜて、二十数名の女性が登場します。平家物語は、琵琶法師が語る口承の物語であり、聴衆のなかには多くの女性も含まれていたはずです。基本的には戦記物語ですが、女性の歓心を買う必要もあり、多くの女性の物語も取り入れたものと思われます。巴のモデルになったのは、越後の板額御前ではないかと言われます。板額御前が活躍した建仁の乱は、1201年に起きています。平家物語の成立は不詳ですが、13世紀前半とみられています。板額御前がモデルという説は、大いにあり得ると思います。板額御前は「吾妻鏡」に記載されますが、平家物語には登場しません。巴とダブることを避けたのかもしれません。

平家物語には、わざわざ巴を創作しなくても、実在の板額をヒロインにするという選択肢もあったはずです。平家物語に登場する女性たちは、平家方であろうと源氏方であろうと、おおむね涙を誘う悲劇のヒロインです。板額も平家方の敗軍の将ではありますが、鎌倉幕府の御家人と結婚し、生涯を全うしています。女性聴衆の興味は引けても、涙は誘いにくかったと思います。あるいは、平家物語が生まれた頃、板額は、まだ生きており、脚色することは憚られたのかもしれません。ならば、ということで、当時、弓の名手として評判になっていた板額をモデルに巴を創作したのではないでしょうか。なお、平家物語の巴は、義仲が木曽から同行した二人の便女(びんじょ)の一人とされています。今一人の山吹は、病気のために義仲の最後には同行していません。

便女は、武将の身の回りの世話をする侍女ですが、巴は美しく、かつ強弓精兵の兵(つわもの)とされています。巴を義仲の愛妾とする話もありますが、便女には、そういう性格もあったのでしょう。平家物語には、粟津を去った巴の後日談は述べられていません。討ち死にした、出家した、遊女になったなど諸説あるようですが、源平盛衰記では、捕まって鎌倉に送られ、御家人である和田義盛の妻になったと書かれています。まさに板額御前の半生そのものです。架空の人物とは言え、少し気になる話もあります。粟津にほど近い義仲寺の縁起です。義仲の死後、義仲の墓所近くに庵を組み”われは名も無き女”と称して供養をする女性がおり、その庵が義仲寺になったというのです。現在、義仲寺には、義仲の墓に加え、巴を弔う塚もあります。

もちろん、後付けの縁起ということにはなりますが、なにやら本当にあった話のように思えてきます。能楽「巴」では、義仲と最期を共に出来なかった恨みを残す巴の亡霊がシテとなります。武人がシテとなる能楽は修羅能と呼ばれます。巴は、能楽のなかで唯一女性が主人公の修羅能です。有名な修羅能には、八島、敦盛、実盛など、平家物語を題材とする曲が多くあります。ちなみに、義仲寺には、松尾芭蕉の墓もあります。芭蕉は、大阪で亡くなっていますが、遺言に基づき、義仲寺に埋葬されました。生前、芭蕉は、義仲寺周辺の景色が気に入り、何度も訪れていたといいます。ただ、芭蕉が巴を詠んだ句は一切存在していないようです。(写真:蔀関月「巴御前出陣図」 出典:bunka.nii.ac.jp)

2025年10月10日金曜日

板額御前

鳥坂城跡
平安末期から戦国時代までには、何人かの女性武将が登場しています。当時の武家にあって、女子も武芸を鍛錬し、戦場に出ることも珍しいことではなかったとも言われます。また、女性城主も、井伊直虎や立花誾千代がよく知られていますが、他にもそこそこ存在していたようです。ただ、江戸幕府が武家の嫡男相続を定めたことから、類が及ぶことを避けるために、女性武将や城主に関する文献の多くが廃棄されたようです。女性武将に関しては、巴御前、板額御前、甲斐姫、大祝鶴姫などが有名ですが、文献上、その実在が確認されているのは板額御前、甲斐姫くらいと聞きます。大三島の大山祇神社で鶴姫が着用したという鎧も見ましたが、その実在については否定的な見解が多いようです。

板額(はんがく)御前は、桓武平氏維茂流で越後国北部を治める城資国の娘として生まれます。母は、後三年の役で滅んだ出羽の清原武衡の娘とされます。板額とは変わった名前ですが、額が固かったからとも、出生した奥山荘飯角からきているとも言われます。幼少の頃から、文武に優れていたようです。板額には二人の兄がいました。長兄の城資永は平清盛の信認厚く、保元の乱でも活躍し、検非違使にも任ぜられています。木曽義仲が挙兵すると追討を命ぜられますが、出陣前日に急死、弟の長茂が軍を引き継ぎます。数万規模の長茂軍でしたが、横田河原の戦いで数千人の義仲軍に敗れます。その後、平家の没落とともに城家も没落していきます。鎌倉幕府に捕らえられた長茂は、梶原景時の後ろ盾を得て奥州合戦に参加、武勲を挙げて鎌倉幕府の御家人になります。

長茂は、梶原景時の変で景時が失墜すると、鎌倉を離れ、京都で倒幕の兵をあげます。しかし、幕府追討の宣旨も得られず、あえなく討たれています。いわゆる建仁の乱ですが、越後では、板額御前が、長茂の嫡男・資盛とともに、鳥坂(とっさか)城に依って反幕府の兵を挙げます。鳥坂城は、現在の胎内市にあった山城です。幕府は、頼朝死後の内紛で上野国に蟄居させられていた佐々木盛綱に追討を命じます。数万に膨れあがった盛綱軍でしたが、千人程度が立て籠もる鳥坂城を攻めあぐねます。難攻不落と言われた山城と弓の名手であった板額に阻まれたとされます。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、板額の弓は百発百中と記載されています。しかし、板額は、背後の山から射られた矢に太ももを射抜かれ、勢いを失った鳥坂城は、1ヶ月の攻防の末に陥落します。

板額は鎌倉に移送され、将軍頼家の前に引き出されます。唐代の陵園妾にも例えられる美形、そして臆することのない堂々たる様に、並み居る御家人たちは驚いたと言います。すると、弓の名手であった甲斐源氏の浅利義遠が妻にしたいと申し出ます。なぜ謀反人を娶るのかと将軍に問われた浅利義遠は、立派な男子を設け、朝廷と幕府のお役に立てる、と申し述べ、許可を得たとされます。浅利義遠は、出羽国にも領地を持っており、秋田にゆかりのある板額を娶ることで、領民の歓心を買おうとしたとも言われます。城家は秋田城介として名を成した名門であり、板額の母は出羽の大豪族清原家の人でした。以降、板額は、浅利義遠の妻として二人の子を設け、甲斐国で生涯を終えています。山梨南部には、板額塚はじめ、わずかながら遺構が残っているようです。

甲斐二十社の一つとされる笛吹市の賀茂春日神社には、板額御前のものとされる弓・薙刀・小刀が伝わっています。浅利義遠の本拠地から多少離れた賀茂春日神社に、なぜ板額の武具が残されているのか不思議な話です。実は、賀茂春日神社の宮司を務める奥山家は、城氏の出身でした。奥山という姓は、いかにも城氏の本拠地・奥山荘にちなんでいそうです。板額は、自分の武具を親戚の宮司に託すことで、女性武将としての一面を封じ、浅利家の妻に、母に徹したということなのでしょう。平家没落の経緯は平家物語を通じてよく知られているわけですが、板額のような地方における平家一門の没落は、さほど広くは知られていないように思います。恐らく、全国には、語られることのなかった平家物語が、数多くあったのだと思います。(写真出典:sirotabi.com)

2025年10月8日水曜日

静御前

北斎「白拍子」
巴御前、板額御前、静御前を、日本三大御前というのだそうです。よく知られているというだけに過ぎない選定なのでしょう。いずれも平安末期から鎌倉時代、敗者の側にいた女性たちですが、実在が確実とされているのは板額御前だけです。板額は、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」に記載があること、ゆかりの地に遺構が確認できることから、実在の人物とされます。静御前は、吾妻鏡に記載があることから実在したとも言われますが、妙に詳しく物語風に描かれていることから、やや怪しいとされています。巴御前については、平家物語とその後続本に記載されるのみなので、架空の人物として知られます。もっとも、なぜ巴や静の話を創作する必要があったのかは、興味深いところです。

静御前については、武将でもなく、政治に関わったわけでもないのに、なぜ正史に詳しく語られているのか、実に不思議だと思います。静御前は、白拍子の磯禅師の娘として生まれ、自身も白拍子になります。京丹後の禅師の娘とも言われます。白拍子は、男装して、今様や朗詠を歌いながら舞う遊女です。遊女と言いながら、公家や武家の宴席に招かれることも多く、また平清盛はじめ人気の白拍子を愛妾とする貴人も多かったようです。現代風に言えば、大物芸能人といったところだったのでしょう。源義経に見そめられた静は愛妾となります。兄頼朝に追われる身となった義経主従に同行して都を離れます。しかし、九州へ向かう船は嵐で難破、吉野山へ逃げ込みます。従う者も少なく、険しい山中の逃避行ゆえ、静はそこで都へ返されます。

ところが、同行する雑色から金品を奪われた静は、山中で捕縛されます。都で取り調べを受け、母とともに鎌倉へ移送されます。頼朝は、舞の名手である静に、鶴岡八幡宮で舞うように命じます。その際、静が歌ったとされる唄は、よく知られています。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

いずれも義経を慕う唄だったことから、頼朝は激怒します。それを取りなしたのが北条政子だったとされています。その後、静は義経の子を出産します。男子であったことから、頼朝は由比ヶ浜に埋めさせます。北条政子は、静に金品を与えて、都へ送り返します。その後に関す記述はありません。

静の初出は「平家物語」です。頼朝が送った刺客を、静の機転で、義経が返り討ちにするという段にのみ登場します。その後、「義経記」が登場し、静について、吉野山中や鎌倉でのことを詳しく語ります。吾妻鏡の記載は、この義経記と、ほぼ一致する内容となっています。鎌倉幕府の正史が、大衆向けの話をそのまま載せることは、異常なことのように思えます。吾妻鏡の成立は、1300年頃とされます。北条家による執権政治全盛の頃のことです。義経と静の悲運を通じて、頼朝の冷酷さと北条政子の慈悲深さを対比させ、北条政権の正統性を示したかったのかもしれません。しかし、それだけなら、静の話を持ち出すまでもなく、方法は他にもあったように思います。

恐らく、義経記などを通じて、義経と静の話は広く知られており、鎌倉幕府としても、無視できないほどだったのではないでしょうか。判官贔屓という言葉は、江戸期以前からあったようです。判官とは義経のことであり、弱い立場の人間に同情する、応援する、といった意味です。鎌倉幕府は、いじめた側ということになりますから、これを正史で全否定する手もあったと思います。しかし、それでは火に油を注ぐ結果になりかねません。そこで、罪を頼朝と梶原景時に被せて、北条家に責任はなく、むしろ静には同情的であったとして、世間の評判を高めたかったのではないでしょうか。ちなみに、義経記では、都に戻った静は天龍寺に庵を結んで出家し、その翌年に亡くなったとされています。享年は若干20歳。例によって,各地に墓が存在しています。(写真出典:nikkei.com)

2025年10月6日月曜日

「エレクトリック・レディ・スタジオ」

エレクトリック・レディ・スタジオ:ジミ・ヘンドリックスのビジョン         監督:ジョン・マクダーモット   2024年アメリカ

☆☆☆+

NYのエレクトリック・レディ・スタジオは、ジミ・ヘンドリクスが多額の私財を投じて作った録音スタジオです。ジミヘンが死んでからも、こだわりの詰まったスタジオでは多くのミュージシャンが録音し、名門スタジオとして知られています。本作では、関係者のインタビューを中心に、名門スタジオ誕生の経緯が語られています。エレクトリック・レディ・スタジオがオープンする前までは、レーベルが所有するスタジオでの録音が主流であり、以降、プライベート・スタジオという流れが出来たとも聞きます。ロックに変革をもたらした天才ギタリストは、録音技術の面でも大きな功績を残したわけです。

この映画は、不思議なスタイルで上映されました。死の2ヶ月前に撮影された「アトランタ・ポップ・フェスティバル1970」との2本立でした。アトランタ・ポップの映像は、かつてアメリカのTV で放送され、その後、映画化されています。ただし、日本ではこれまで未公開でした。なぜ2本立にしたのかは不明ですが、恐らくアトランタ・ポップの単独上映が興行的に厳しそうだったからなのでしょう。今回は10曲ばかりのピックアップ・ヴァージョンですが、全曲を観てみたいと思います。また、スタジオのドキュメンタリーでは、ジミヘンの音作りが子細に語られて興味深いのですが、観ているとフル・ヴァージョンでのジミヘンの演奏が聞きたくなってしまいます。そういう意味では、結果、ベスト・カップリングだったのかもしれません。

天才ジミヘンは、その驚異的なフィンガリングで知られています。加えてエフェクターの多用(といっても、当時はワウ・ファズ・ユニヴァイブくらいですが)、ギター・マイクの多彩な活用(ハーフトーンなどフェンダー・ストラトキャスターの3つのマイクの活用)、アーミングの独創的な使い方、加えて大音量といった電子的加工をもってロック・ギターの世界に変革をもたらしました。それだけに、スタジオでの録音技術にも、相当のこだわりがあったわけです。もちろん、装置類の進化も背景にはあったのでしょうが、ジミヘンは録音技術にも変革をもたらしたと言えます。ちなみに、スタジオの名前に関する話はありませんでしたが、当然、最後のスタジオ録音盤となった傑作「エレクトリック・レディランド」(1968)から付けられたものと思います。

作中、録音技術者のエディ・クレイマーが、録音技師はミュージシャン出身でなければならない、という持論を語っています。頷ける話です。彼がアシスタントたちを、ミュージシャンのなかから採用する経緯も面白かったと思います。エディ・クレイマーは、「フリーダム」・「エンジェル」・「ドリー・ダガー」等の音の構成を解説してくれます。聞いていると、ジミヘンの音楽への興味がより一層深まります。また、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリアンスのドラマーであるミッチ・ミッチェル、ベースのノエル・レディングの演奏は、ジミヘンのギターに隠れがちです。もともとうまい人たちだとは思っていましたが、本作でその凄さがよく分かりました。これからは、二人の演奏にも注目しながらジミヘンを聞きたいと思いました。

音楽好きだという人に会うと、あなたの神様は誰ですか、と聞きます。皆、すぐに名前を挙げます。聞かれて悩む人は見たことがありません。多様な音楽を聴いている人であっても、その人が挙げた名前で、その人の音楽的指向が分かります。私は、マイルス・デイビスとジミ・ヘンドリクスと答えます。では、ジミヘンの曲のなかで、何が一番好きか、と聞かれることもあります。これは答えにくい質問です。衝撃的だったパープル・ヘイズにはじまり、フォクシー・レディ、ファイア、フリーダム等々挙げたらキリがありません。ボブ・デュランのカバー「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」は本家越えの傑作だと思います。しかし、最上の一曲と言われれば「ヴードゥー・チャイルド (スライト・リターン)」ということになります。アトランタ・ポップでも演奏されており、うっとりと聞き惚れてしまいました。(写真出典:eiga.com)

2025年10月4日土曜日

世界人口

若年出産の母親
半世紀も前のことなりますが、”これまでに死んだ人の数は、今、生きている人の数に等しい”という話を聞きました。どうにも納得できない眉唾話だと思ったのですが、友人のなかには”そうだろうな”と言う奴もいて、混乱しました。恐らく、彼らは、ごくシンプルなファミリー・ツリーのようなものをイメージして、納得していたのではないかと思います。当時、世界の人口は40億人とされていました。2000年前後、人口が60億人を超えると、”これまでに死んだ人の数は、今、生きている人の数より少ない”という新しいヴァージョンの都市伝説が流布されました。過去の統計がないので、あくまでも推計上ではありますが、いずれの説も、科学的には、まったくのデタラメでした。

アメリカのPRB (Population Reference Bureau:人口参考局)が、発表したところによれば、ホモ・サピエンス以降、2022年までに生まれた人間は推定1,170億人となります。世界人口、つまり生きている人が82億人ですから、これまでに死んだ人は1,088億人となります。もちろん、前提の置き方次第ではありますが、おおよそ信頼できる数字なのでしょう。人間は、必ず死にます。100人生まれれば、その100人は確実に死にます。出生数が変わらず、寿命が皆同じだとすれば、人口は安定し、増えることも減ることもありません。世界人口は、産業革命が起こった18世紀から増加を始めたとされます。1800年、10億人を超えたとされる世界人口は、1900年には16億人となり、人口爆発の世紀と呼ばれる20世紀に突入します。

半世紀を経た1950年には25億人になっています。人口を構成する要素は、出生、死亡、移動です。世界人口だけを考える場合、移動は関係ありません。1950年の世界の合計特殊出生率は5.0でした。合計特殊出生率とは、一人の女性が生涯で産む子供の平均数を示します。人口が安定する目安は2.1とされますので、5.0は極めて高い水準と言えます。その後、合計特殊出生率は、先進国を中心に低下を続け、2000年には2.7、2023年には2.2まで落ちています。合計特殊出生率の低下を受けて、世界人口の伸びは鈍化傾向にあります。ただ、世界人口そのものは増加を続け、2022年には82億人に達しています。つまり、20世紀中頃までの人口増加は、出生率の伸びによるところが大きく、以降、人口増加にドライブをかけたのは寿命の伸びだったと推測されます。

死亡率は、通常、千人当たりの死亡者数で表されます。死亡率の構成要素は、経済、医療、疫病、紛争等々と多岐に渡りますが、GDPとの相関も強いことが知られています。先進国が低く、開発途上国が高いわけです。世界的な死亡率は低下傾向にあります。平均寿命の伸びでみれば、1900年は31歳、1950年は48歳、2024年には73歳を超えています。とりわけGDPの低い国々で、食糧事情、医療水準などの改善が進み、死亡率が低下していることが、人口増加を加速させています。大雑把に言えば、出生率が低下しても、死亡率の低下がそれを上回るので、世界人口は、まだまだ増加していくと予測されています。国連は、2080年代に世界人口は103億人となり、ピークを迎えると予測しています。人間の寿命の伸びが限界に達するというわけです。

平均寿命が最高水準の日本ですが、死亡率は世界で10位前後とかなり高位です。高齢者の比率が高いからです。日本をはじめ世界63ヶ国の人口は、既にピークアウトしています。一方、サブ・サハラ一帯では、死亡率の低下と高い出生率によって、2050年代には人口が2倍に達すると予測されています。サブ・サハラでは、少女たちの意図せぬ出産が多いことが問題とされています。いずれにしても、地球と人類は、100億人という人口に耐えられるのか、ということが大問題だと思います。食糧需給、経済環境、気候変動など心配すべき事柄は多々ありますが、重大な問題の一つは地域による人口の偏在だと思います。100億人時代には、偏りがさらに激しくなるわけですから、早急に議論すべき事項だと思います。単に移民受入れに反対するのではなく、国際的な移民の枠組みづくりを議論すべきではないかと思います。(写真出典:ja.wfp.org)

2025年10月2日木曜日

「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」

監督:ウェス・アンダーソン 原題:The Phoenician Scheme 2025年アメリカ・ドイツ

 ☆☆☆+

ウェス・アンダーソン・ファンは、彼の映画を観ているだけで幸せなのではないかと思います。その独特な世界観は唯一無二と言えます。本作も、ウェス・アンダーソン・テイストを満喫できます。ただ、ここ数作とは異なり、久しぶりにプロット重視の映画になっています。とは言え、独特な映像と演出、お馴染みのキャストやスタッフが醸すムードには何ら変わりはありません。キャストでは、ヒロインを演じたミア・スリープルトンが新顔であり、ユニークな印象を残しています。今後、ウェス・アンダーソン・ファミリーの常連になりそうです。彼女は、ケイト・ウィンスレットの娘ですが、ウェス・アンダーソンは、そのことをオーディションで彼女を選んだ後に知ったようです。

本作は、レバノン出身のエンジニアだったウェス・アンダーソンの義父に着想を得ているようです。靴箱が象徴的なモティーフとなっていますが、これは、義父が亡くなる前に娘に渡した靴箱に由来しており、箱の中には、彼の人生の思い出の品々が入っていたと言います。誰もが、本人にとっては大事な思い出をコレクトした宝箱を持っているものです。本人にとっては重要でも、他人にはゴミにしか見えない類いの品々です。しかし、これは、もうウェス・アンダーソンの大好物だと言えます。そもそも、ウェス・アンダーソンの映画は、そうした宝箱の品々をコラージュしたような趣きがあります。義父の宝箱の品々は、ウェス・アンダーソンのイメージを膨らませ、モティーフだけでなく、プロットにも大きな影響を与えたものと思われます。

舞台は1950年代の中東にとり、プロットはオリジナルですが、キャラクターの設定には実在した往時のビジネスマンたちを参考にしたようです。そのなかには、コンスタンティノープル出身のアルメニア系イギリス人実業家カルースト・グルベンキアンと息子のヌバールも含まれています。「ミスター5%」というニックネームはイラクの石油を開発したことで知られるカルーストから、そしてザ・ザ・コルダの兄の名前はヌバールから借用しています。ヌバール・グルベンキアンは、長い髭、モノクル、ボタンホールの蘭など特徴的な出立で知られ、英国社交界で鳴らした人だったようです。20世紀、特にロンドンには、海外に出自を持つ個性的で魅力的なビジネスマンが多かったように思います。彼らも、まさにウェス・アンダーソンの大好物だと言えます。

ウェス・アンダーソンの独特な世界は、彼の個性によるものであることは間違いないのですが、多くの人々がその世界観を愛しているわけですから、そこには何か普遍的な要素があるということになります。それをノスタルジーと呼ぶことは簡単ですが、それでは十分な説明にはならないと思います。恐らく、ノスタルジーと非日常性の相乗効果なのではないでしょうか。世の中には、非日常性をねらった映像などあふれています。しかし、それがノスタルジックな衣をまとうと、先鋭的であろうとする角が取れ、ロマンあふれる夢といった風情を醸します。それは、例えばスティーム・パンクやピタゴラ装置と同じく、合理性に抗い、人間性に回帰しようとする意図、あるいは近代科学を人間の手に留めようとする意志のように思えます。しかも、ウェス・アンダーソンは、プラスチックな安物を並べることで、それを肩肘張らない形で映像化します。

また、ウェス・アンダーソン映画の非ドラマ性も大きなポイントだと思われます。そもそも映画は、伝統的、あるいは自然主義的といった手法の違いはあるにしても、観客にドラマを提示し、巻き込み、あるいは押し込むという代物です。ウェス・アンダーソン映画は、イメージを提示するのみです。加えて、テンポを外すことで、観客と距離を取ります。つまり、ドラマを押しつけることなく、全ての判断を観客に委ねているわけです。いわば、観客は暗がりのなかで完全な自由を確保していることになります。これは、何もウェス・アンダーソンに限ったスタイルではありませんが、ノスタルジー、非日常性と相まって独特の味わいを生んでいるのだと思ます。(写真出典:eiga.com)

倭寇