2025年6月30日月曜日

式子内親王

別府八湯の一つ観海寺温泉街は、高台から見下ろす別府湾と温泉街の景色が自慢です。そこに観海禅寺という小さな寺院があり、境内に式子内親王の墓なるものがあります。しかし、歌人としても知られる式子内親王は、1201年、都で病死したことが複数の資料から確認できているようです。 全国には、このように、高名な人の墓が、史実とは一致しない場所にあるという現象がまま見られます。なぜそうなったのかはよく分かりません。想像するに、高名な人に仕えていた人が地方に流れ、雇い主の名をかたったか、あるいは土地の人々が簡便的に雇い主の名で呼ぶようになったのかもしれません。大昔の都と地方の距離感からすれば、あり得る話ではないかと思います。

式子内親王は、1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれています。母は高倉三位と呼ばれた藤原成子です。同母兄弟には高倉宮以仁王、異母兄弟には高倉天皇がいます。幼い頃から、賀茂神社の斎宮を務め、新古今和歌集はじめ多くの勅撰和歌集、あるいは百人一首にその歌を残す歌人としても知られます。内親王は、高名な歌人であると同時に、その私生活に関しても、いくつかのエピソードでよく知られています。最も有名なのは、金春禅竹が能楽「定家」に描いた藤原定家との忍ぶ恋なのでしょう。同曲にも登場しますが、つる性常緑低木である定家葛の名の由来も不思議な話です。定家葛という名称は、俗称ではなく正式な和名です。死後も内親王を忘れられない定家が葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたというのです。

二人の恋愛関係に関する確たる証拠はありません。式子内親王は、和歌を藤原俊成に師事しています。俊成の次男が定家です。定家が内親王家に出入りしていたことは、彼の日記からも明らかです。忍ぶ恋とは、後世の人たちが、歌や日記から膨らませた妄想とも言われます。実は、式子内親王と慈円との恋愛という話も有名です。慈円は、摂政関白・藤原忠通の子であり、天台座主として、歌人として、あるいは「愚管抄」の作者として知られます。やはり二人の関係を示す証跡はないものの、二人の歌から読み取れるというわけです。さらに、式子内親王は浄土宗の開祖である法然に心を寄せていたという説もあるようです。後白河天皇の娘、独身、資産家、歌人とくれば、超がつくほどのセレブリティであり、浮名が絶えないとしても不思議はないと思います。

内親王とは天皇の直系女子を指します。かつて、内親王は、臣下の者に嫁ぐことなどあり得ず、嫁ぐとすれば天皇か皇太子のみでした。従って、ほとんどの内親王は独身のまま生涯を終えるか仏門に入りました。また、内親王は、天皇家一族から遺産を相続し、多くの荘園を持つ資産家でもあったようです。天皇家としては、一代限りの資産分与なので財産が外に流出する恐れがなかったわけです。内親王は、庶民が様々な妄想をかき立てずにはいられないセレブだったのでしょう。例え、実際に臣下と恋愛関係になったとしても、超国家機密扱いであり、文献など残るわけもありません。ましてや、神に仕える斎王という立場になれば、なおのことです。残された和歌が証拠だという説も多いのですが、現代人の感性で理解するのはどうかと思います。一流の歌人ともなれば、恋愛の歌など、事実の裏打ちなどなくても巧みに詠むのではないでしょうか。

式子内親王が生きたのは、父である後白河天皇が巻き起こした激動の時代です。浮き沈みの激しかった父親の影響を相当に受けていたはずですが、内親王に関しては、和歌と忍ぶ恋の話だけが知られています。女性ゆえ記録が少ないのかもしれません。事件と言えば、身を寄せていた八条院の主である暲子内親王とその姫宮に対する呪詛の嫌疑をかけられています。八条院を出ざるを得なくなった式子内親王は、そのまま出家しています。 亡き後白河院からお告げがあったとする橘兼仲夫婦の妖言事件に連座し、流刑寸前になったこともあるようです。どうも、父親に似て、お淑やかなばかりの内親王ではなかったように思えます。事件の都度、内親王に仕える者が身替りとして罰を受け、流刑になっていたとしても不思議はありません。そのうちの一人が別府に流れ着き、観海禅寺に身を寄せていたのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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