2025年7月4日金曜日

三十年の馬鹿騒ぎ

邦画好きの知人の勧めで深作欣二監督の「仁義の墓場」(1975)を見ました。興行的には振わなかったものの、ジワジワと評価を高め、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では38位に選ばれています。ちなみに深作欣二の「仁義なき戦い」(1973)は第8位に選出されています。当時、仁義なき戦いに熱狂したにも関わらず、なぜ、この映画を見ていなかったか不思議に思いました。要は、仁義なき戦いシリーズのマンネリ化に嫌気が差して、実録やくざ物からも、深作欣二からも遠ざかっていた頃だったのです。主演は、潰れた日活から東映に移った渡哲也ですが、実録やくざ物には不向きであり、かつ、流行だからといって、あわてて実録ものに出演する姿勢も気に入らなかったと記憶します。

映画は、敗戦直後の新宿で名を馳せたやくざ石川力夫の短い半生を描いています。石川力夫は、水戸の出身で、10代で新宿に出て、南口の闇市を仕切っていた和田組に身を寄せます。20歳で、親分を切りつけて、収監され、かつ破門、処払い10年という制裁を受けます。大阪に身を潜めますが、この間に麻薬中毒になっています。1年半で、兄弟分を頼って新宿に舞い戻りますが、世話になったその兄弟分を殺害します。府中刑務所に収監中、屋上から飛び降り自殺しています。享年30歳でした。独房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」という辞世の句が残されていました。親分や兄弟分に刃物を向けることなどやくざ社会ではあり得ないことです。石川は、掟という伝統に徹底的に背いた反逆者として知られているようです。

仁義なき戦いは、行き場のない復員兵という構図に、組織対組織、組織対個人という普遍性の高いテーマを重ねていました。また、東映内部で言えば、マンネリ化した着流しやくざものからの脱却という背景も持っていました。仁義の墓場では、ひたすら石川力夫個人がフォーカスされています。組織対個人という構図も、死に場所を求める戦中派の苦悩という背景も、深掘りされることがありません。石川の抱える心の闇をえぐることもなく、石川の狂犬ぶりだけが淡々と描かれます。それだけに、その殺伐とした人生の凄みが、ジワジワと見る側の心にしみわたってきます。見終わってみれば、他の映画では、なかなか感じられないほどの重く暗い印象が残り、かつ持続します。ゆえに実録やくざ物の極北と呼ばれるのでしょうが、嫌な後味が残る映画とも言えます。

映画は、幼少期の石川を知る人々のインタビュー音声で始まります。従来の実録物にはなかったアプローチであり、この映画の性格を物語っています。闇市や出入りのシーンでは、深作欣二得意の群衆シーンが繰り広げられます。これが実録物がマンネリ化した要因でもあります。渡哲也は、やはり狂犬役は似合いません。若衆の割には代貸クラスにしか見えません。ところが、映画の後半、麻薬中毒になってからの芝居は鬼気迫るものがあります。持病が悪化し、点滴を打ちながらの過酷な撮影だったことが映像にも現れています。それでも、石川力夫の半生を描くなら、別の俳優がよかったと思います。当時の東映のスター・システムでは、渡哲也ありきでしか映画は撮れなかったのでしょう。売出中とは言え、生活感のない多岐川裕美もミスキャストだと思います。

敗戦直後、新宿駅東口には、的屋の尾津組が、都内初にして最大の闇市「新宿マーケット」を開きます。最盛期には1,600店以上が出店していたと聞きます。「光は新宿から」というのが新宿マーケットのキャッチ・フレーズでした。不法占拠した土地での違法な商売だったわけですが、消費者だけでなく、生産者にとっても、まさに希望の光だったのでしょう。都内の主要駅には闇市が乱立しますが、経済復興とともに消えていきました。しかし、その痕跡は、今も各地に見ることができます。アメ横、新橋駅前ビル等が有名ですが、新宿ゴールデン街も新宿マーケットの強制移転から生まれた街です。闇市も、戦後ヤクザも、石川力夫も、皆、戦争が生み出した産物だったと言えます。(写真出典:amazon.co.jp)

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