2025年6月22日日曜日

バトル・オブ・ブリテン

スピットファイア
バトル・オブ・ブリテンは、1940年7月〜1941年5月、英国軍とナチス軍が英国上空で戦った空戦です。ことに、1940年9月から連続57日間続いた夜間空襲に始まり、翌年5月まで続いたロンドンへの大空襲は”ブリッツ”と呼ばれます。43,000人以上の市民が亡くなり、100万戸以上の家屋が破壊されました。延々と続く夜間空襲に、ロンドン市民は恐怖のどん底に突き落とされたわけです。にもかかわらず、ロンドン市民は、毎朝出勤し、店舗も営業を続け、夜にはパブに集い、サッカー、クリケット、鳩レース等を楽しんでいました。驚きとしか言いようのない冷静さです。これぞ不屈のジョンブル精神というわけです。それを否定するつもりはありませんが、それだけでは、なかなか納得できない面もあります。

欧州を席巻したヒトラーの最終目標はソヴィエト制圧でした。ただ、二正面作戦を回避するために、まずは英国を封じ込めておく必要がありました。英国に親近感を持ち、懐柔できると思っていたヒトラーは、和平を提案します。ところが、チャーチルがこれを拒否。ヒトラーは、英国本土上陸作戦を指示せざるを得なくなります。もともと英国侵攻はナチスの計画になく、装備も準備も不十分でした。陸戦に強いナチスでしたが、海軍力は乏しく、Uボートは窮余の策でした。当然、揚陸艦などあるわけもなく、大量のはしけをかき集めたようです。それだけに、上陸前に英国の制空権を確保することは必須でした。準備不足とは言え、当時、無敵と言われたドイツ空軍は、大量の爆撃機をもってドーバーを超え、空軍施設・港湾設備への空爆を開始します。

一方、ダンケルクから奇跡の脱出を果たした英国は、この日が来ることを想定し、レーダー網の敷設、迎撃機の量産などを進めていました。ナチスは、爆撃機の護衛として攻撃力に優れたメッサーシュミットBf109戦闘機を投入、英国側は機動性に優れたスピットファイア戦闘機で迎撃します。当初、撃墜率で上回ったナチスですが、航続距離に難があったメッサーシュミットの優位は薄れていきます。ナチスは、スピットファイアを避けるため、夜間爆撃に移行しますが、そもそも爆撃目標が曖昧であったことに加え、夜間では爆撃の精度が落ち、思うような効果は挙げられなかったようです。ヒトラーはロンドン空爆を禁止していましたが、誤爆が起こり、英国はベルリンへの報復爆撃を行います。これを受けて、9月7日、ナチスは本格的にロンドン爆撃を開始します。

英国では、9月15日が”バトル・オブ・ブリテン・デー”とされています。85年前のこの日、ロンドンは、ナチスの最大規模の攻撃を受けています。しかし、海を越えてきたナチス空軍は、全力で迎え撃った英空軍に蹴散らされます。この日が大きな分岐点となり、ナチスは英国上陸作戦に見切りをつけ、東部戦線、ソヴィエト侵攻へと結集していきます。ただ、後背の脅威である英国を牽制するために、ロンドンへの爆撃、Uボートによる海上補給路への攻撃は継続されました。ロンドンに爆撃が集中したことで、軍施設や工場は温存され、英国は工業生産力でナチスを打ち負かすことができたとも言われます。つまるところ、ナチスの敗因は、計画も準備も装備も不十分なまま、物量と勢いだけで迎撃準備万端の英国に攻め入ったことなのでしょう。

とは言え、ナチスは、英国をギリギリのところまで追い込んだとも言えます。ことに9月15日以前のロンドン市民に、余裕など無かったはずです。さはさりながら冷静さを保っていたわけです。かつて地上の1/4を制した大英帝国のプライドもあれば、世界一の海軍力に自信を持っていたとも言えます。あるいは、勢いのあるナチスと言えども、簡単にドーヴァーを越えることはできないという島国なりの確信があったのかもしれません。また、チャーチルへの信頼も大きな要素だったのでしょう。しかし、最も大きな要因の一つは、ドイツに対する軽蔑、差別意識だったのではないかと思います。戦力を過小評価するということではありません。チャーチルがドイツを「帝国の外である」、つまりローマ帝国外の野蛮人であると言った話は有名です。ちなみに、英語の”German”は、ゲルマン民族に由来します。(写真出典:en.wikipedia.org)

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