2021年12月2日木曜日

恥ずかしながら


1972年、グアム島で、残留日本兵・横井庄一軍曹が発見され、帰国を果たします。終戦から28年が経っていました。戦後復興どころか、奇跡の高度成長を果たした日本にとっては、衝撃的な出来事でした。羽田空港に出迎えた厚生大臣に対して「横井庄一、恥ずかしながら帰って参りました」と軍隊調に報告します。これが、その年の流行語にまでなりました。横井さんが配属されたグアム島には、1944年7月、アメリカ軍が上陸し、日本軍を制圧します。その時点で、横井さんのご家族には、戦死公報が届けられていました。しかし、生き残った日本兵たちは、山中に逃げ込み、終戦を知ることがありませんでした。

南方戦線では、そのような兵士が、少なからず残っていることが分かっていたので、戦争は終わった、投降せよ、という呼びかけが、日米当局によって幾度も行われていました。横井さんも、聞いていました。ただ、大日本帝国が負けるわけがない、これは敵の謀略だろうと判断し、無視し続けたと言います。横井さんは、部下2名とともに、木の実を食料に、必要なものは手作りして、壮絶なサバイバル生活を続けます。あまりにも厳しい生存環境に耐えられず、部下の2人は死亡します。アメリカの統治下に入ったグアムは、米軍基地が拡張されるとともに、リゾート開発が進み、ホテルや観光施設が建設されていきます。横井さんは、要塞化が進んでいると思っていたそうです。

横井さんの「恥ずかしながら」という発言も、28年間、投降を拒否し続けた背景にも、「戦陣訓」があります。戦陣訓は、1941年、当時、陸軍大臣であった東条英機の訓令として、示達されました。決して法的な位置づけを持ったものではありません。1882年に制定され、軍人が暗唱までさせられた「軍人勅諭」を、より具体化した内容ながら、新たな訓令も加えられます。その代表が「生きて虜囚の辱を受けず」という一文です。捕虜になると、非国民という烙印が押され、家族まで同様の扱いを受けたと聞きます。捕虜となった日本兵は、家族に累が及ぶことを恐れ、本名を名乗らなかったとも聞きます。また、この一文が、人命軽視のバンザイ突撃や玉砕を生んだとも言われます。

軍事機密を守るという目的から加えられた訓示だったのでしょうが、その意図をはるかに超えて浸透したわけです。機密保持という狙いからすれば、捕虜になった際の行動原則を教育すればいいわけですが、日本軍には、一切そうした教育はなかったようです。米軍は、下士官クラス以下の日本兵捕虜ならば、本名を本国に伝えるぞと脅すだけで、容易に情報を聞き出すことができたようです。機密保持上、戦陣訓は逆効果となったわけです。軍人の精神的支柱である軍人勅諭に対して、戦陣訓はより具体的な行動指針であるべきでした。ところが、屋上屋を重ねるようなエキセントリックな精神論となり、かつ”べからず集”であったことから、軍隊内で一人歩きを始め、容易に徹底されていったということなのでしょう。

1974年には、陸軍中野学校卒業の情報将校・小野田寛郎少尉が、フィリピンのルバング島から帰還します。小野田少尉にも武装解除命令は届かず、3名の部下を率いて情報収集とゲリラ戦を継続していました。1950年に1名の部下が投降したことで、その存在が知られます。1974年に至り、残りの部下2名も失っていた少尉に、日本の冒険家が接触します。少尉は、正式な命令がない限り、作戦行動を継続すると明言します。そこで、かつての上官が山下奉文司令官の命令書を携えて接触し、任務解除、帰国命令を伝えました。山中に隠れて過ごした横井庄一さんとは大違いでした。その点を指摘された横井さんは「将校たちは教育が違いますよ、教育が」と答えています。立場は様々であっても、残留日本兵は、徹底した教育が生み出した悲劇だったと言えます。(写真出典:yomiuri.co.jp)

「新世紀ロマンティクス」