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Richard Pryor |
世界で、コメディアン、コメディエンヌと呼ばれる人たちの多くは、スタンダップ・コメディの舞台に立つ人たちのことです。日本でスタンダップ・コメディに相当するのは漫談ということになります。日本の”お笑い”の世界は、日本固有の漫才が席巻しています。落語は、伝統芸能として独自の世界を築いていますが、漫談は廃れつつあるように思います。現在、綾小路きみまろが一人気を吐いていますが、寄席の色物として漫談師が登場することは希です。いわゆるピン芸人はいますが、大半は漫談とは異なる芸です。TVが作った幾度かの漫才ブーム、あるいはダウンタウンの登場で、漫才がお笑い界を圧倒し、漫談が押し出された格好です。また、漫談師が得意とする時事ネタや風刺ネタを取り込んだ漫才が出てきたことも、背景にあるのかもしれません。
そもそも、漫才は、ラジオ、テレビと共に人気を高めてきた歴史があります。吉本興業の舞台とテレビの相乗効果という戦略が、演芸ブーム、漫才ブームを生んできた面もあります。つまり、漫才とは、不特定多数の客、いわゆる老若男女を観客として進化してきたとも言えます。ダウンタウンは、コント漫才もさることながら、日常会話のテンポ、日常のなかの細かなネタで漫才を変えました。それは若い層の共感を呼び、絶大な人気を博します。結果、TVから大人向けの漫才や漫談は消えていきました。スタンダップ・コメディは、さらに客層が絞り込まれます。鋭い風刺、人間観察をネタとし、時には哲学的でもある大人向けの芸と言えます。コメディ・クラブといった閉鎖的な場だけで演じられ、その毒を研ぎ澄ましてきたとも言えるのでしょう。
お笑いと毒は表裏一体を成していると言えるのでしょう。お笑いの構図を単純化すれば、笑う人と笑われる人がいるということになります。笑われる人は、他の人と異なることをもって笑われます。悪意の有無は別として、それは格差や差別そのものであり、お笑いが持つ毒の根源だと言えます。漫才は、ボケとツッコミという構図を使って婉曲にそれを表現し、スタンダップ・コメディは徹底的に突き詰めていきます。ですから、スタンダップ・コメディの観客は、そこを理解でき、許容出来る人に限られます。当然、観客数も限定されます。ただ、昨今のネット環境下で、スタンダップ・コメディは、急速に観客を増やし、収入もアップしているものと思われます。配信による収入だけでなく、知名度が上がれば、大きなホールでの公演も可能になるわけです。
日本では、漫才師がTV番組の司会者になるケースが多く、なかには北野武のように世界的な映画人になった人もいます。才能豊かな人たちということなのでしょう。アメリカの場合、スタンダップ・コメディ出身の映画俳優も多く、エディ・マーフィー、ロビン・ウィリアムス、ジム・キャリー、スティーブ・マーティン、クリス・ロック等々が挙げられます。なかでも、リチャード・プライヤーは、特別な存在として知られます。映画としても、ジーン・ワイルダーとコンビを組んだ「大陸横断超特急」(1976)等の大ヒットを飛ばしていますが、スタンダップ・コメディの世界を革命的に変えた偉大なコメディアンとしても知られています。汚い言葉で人種差別を徹底的に揶揄したそのスタイルは、後のスタンダップ・コメディアンに多大な影響を与えたとされます。ある意味、求道者でもあったリチャード・プライヤーは、2005年、アルコールと薬物依存の末、亡くなっています。(写真出典:eiga.com)