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頭山満 |
水戸学に始まる尊皇攘夷という思想は、単に天皇を尊び,外国人を排斥するということに留まらず、天皇を世界の頂点とする日本版中華思想と言えます。後に「八紘一宇」という言葉も登場します。天皇のもとに世界を一つの家として平和に暮らすという意味です。尊皇攘夷的には、各国との通商条約は認められても、対等な関係である友好条約など頭が高いということになります。桜田門外の変の原因は、幕府が勅許を得ずに五ヶ国と修好通商条約を締結したことですが、友好条約そのものへの批判もありました。尊皇攘夷を巧みに利用した薩長は倒幕を果たしますが、新政府樹立とともに、一転、海外との友好政策を展開します。薩長政府は、西南の役で存続の危機に面します。その原因となった征韓論において、強硬派の背景にあった思想は、皮肉にも尊皇攘夷でした。
汎アジア主義は、19世紀後半、欧米列強によるアジアの植民地化が進むなか、アジア各国が連携して、これに対抗すべきという主張であり、明治維新後に盛んになりました。欧米から不平等条約を強いられた日本は、まだ植民地化のリスクを抱えていた時代でもあります。汎アジア主義には、様々な立場・意見があり、統一的な主張や組織があったわけではありません。アジア各国が対等に同盟すべきという意見、日本を盟主とする同盟を模索する国粋主義的な主張、あるいは、中国・朝鮮等の欧米につけ込まれやすい旧体制を、革命で倒して近代化を図ろうとする動きもありました。当初、汎アジア主義をリードしたのは、大久保利通に始まる興亜会でした。1880年に結成されています。興亜会は、清国・李氏朝鮮との対等な連携を目指すものでした。
一方、国粋主義的な汎アジア主義の代表と言えば、旧福岡藩士を中心に博多で結成された玄洋社となります。征韓論で敗れて下野した板垣退助に師事した頭山満が、1881年に結成した政治結社です。頭山満は、後に、政財界、軍部に大きな影響を持つことになり、右翼の巨頭とも呼ばれました。当初は、自由民権運動を展開しますが、議会設立後は、国権強化、汎アジア主義を掲げ、あたかも政治家・軍部の別働隊がごとく、国の内外でテロ行為やスパイ活動を展開します。大隈重信爆殺未遂事件の来島恒喜、日露戦争時、ロシアの後方攪乱に大きな成果を収めた明石元二郎も玄洋社社員です。また、孫文、金玉均、ビハーリー・ボースら、アジアの独立運動家の支援もしています。敗戦後には、GHQからテロ組織との認定を受け、解散させられています。
国粋主義的な政治結社は、今も存在します。ただ、戦前とは異なり、政財界と結び、派手に活動するということはありません。その違いは、なぜ生じたのでしょうか。もちろん、戦前は帝国主義・軍国主義を進める政治的状況があったということであり、戦後は民主化に伴い法的規制が強化されたということにはなります。加えて、明治憲法下における政治、行政、軍部の組織のあり方も背景として大きかったのではないかと思われます。戦前の国家体制は、組織としては権限が全て天皇に集中する親政体制を取りつつ、天皇親政が形骸化していたことが特徴だと考えます。いわば独裁者なき独裁体制と言えます。そこでは権力の分散が起こり、長期的、国際的観点を踏まえた計画的、統一的な国家運営などは存在せず、各派の力の論理がまかり通る体制になっていたものと思われます。まさに、政治結社が権力体制に入り込みやすい体制だったと言えるのでしょう。(写真出典:yomiuri.co.jp)