日本で、最も有名な白鳥伝説といえば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に関するものということになります。ヤマトタケルは、第12代景行天皇の第二皇子です。古事記と日本書紀では、ヤマトタケルに関する記述に違いがあります。共通する記載だけを見れば、景行天皇は、ヤマトタケルを九州の熊襲成敗に送り出します。熊襲を征したヤマトタケルは、ヤマト王権にまつろわぬ者たちを滅ぼしながら帰還します。続いて天皇は、東征を命じます。伊勢神宮の斎宮である叔母から草薙の剣を与えられたヤマトタケルは、駿河で賊から火攻めにされますが、草薙の剣で難を逃れ、賊を成敗します。この地は焼津と名付けられます。その後、ヤマトタケルは、関東一円を平定し、大和帰還の途につきます。その途上、伊吹山の神と戦い、術をかけられて病を得ます。
ヤマトタケルは、能煩野、ないしは能褒野、いずれにしても現在の亀山市あたりで命を落とします。一旦は埋葬されたヤマトタケルでしたが、白鳥になって飛び立ちます。古事記によれば、白鳥は河内の志幾に留まり、その後、昇天したとされます。日本書紀では、志幾の前に、大和の琴弾原にも降りたったとされています。宮内庁は、亀山の能褒野墓、御所(ごぜ)の白鳥陵、羽曳野の白鳥陵の3ヶ所をヤマトタケルの墓としてます。死後、移動させることは何を意味しているのか、そして、なぜ、その2~3ヶ所が選ばれたのか、不思議な話です。景行天皇の在位は4世紀前半と推定されます。ヤマト王権の勢力は、まだ限定的であり、景行天皇が、九州へ、関東へ、日本書紀によれば陸奥にまで兵を出したことは理解できます。
ヤマトタケルの実在性は議論のあるところですが、近年、ヤマトタケルは個人ではなく兵団を擬人化したものだとする説が有力視されているようです。それも十分にあり得る話だと思います。だとすれば、ヤマトタケルの死や複数の陵墓は何を意味しているのか、大いに謎ということになります。例えばですが、東征に成功した兵団内部に報酬等を巡る反乱が起き、多数の死者を出したことから、解団せざるを得なかったのかもしれません。あるいは、統率していた王族のリーダーシップに問題があって反乱が起きたのかもしれません。いずれにしても、部族連合のリーダーとは言え、まだ政治基盤が脆弱なヤマト王権にとっては、統治上の大問題だったはずです。二度と兵団を構成できなくなる恐れすらあったのではないでしょうか。
ヤマト王権としては、東征に成功したことを全国に周知する必要があり、兵団、あるいは統率者に不名誉な点があったとしても、それを糊塗し、美談化する必要もあったのでしょう。そのために白鳥伝説を創造したとも考えられます。複数の陵墓は、兵の主な出身地だったのかもしれません。その実在性に関わる議論はさておき、ヤマトタケルの伝説は、ヤマト王権初期の権勢拡大と内在する脆弱さを伝える話なのでしょう。日本書紀では、父である景行天皇よりもヤマトタケルに関する記述の方が、量的に多いと聞きます。いまだ政権基盤が弱かったヤマト王権にとって、南征、東征は極めて重要な事業だったわけです。天孫家の特徴として、武力のみで他の部族を制圧するのではなく、巧みな政治力も駆使して権勢を拡大しています。神話も、ヤマト王権にとっては重要な政治手法の一つだったわけです。(写真出典:powerspot-jinja.jp)