2025年2月22日土曜日

バカの壁

20年ほど前に、養老孟司の「バカの壁」が大ベスト・セラーとなりました。人は自分が知りたくない情報を遮断するという傾向をバカの壁と例えていました。基本的には、いわゆる確証バイアスのことであり、古くはカエサルも、人は見たいものしか見えない、という名言を残しています。10年前まで、九段下駅では、都営新宿線とメトロ半蔵門線が同じプラットホームを使っていながら、壁を作って仕切り、乗り換えには階段を昇降する必要がありました。これもバカの壁と呼ばれていました。昨年秋の衆議院選挙後、国会では与党と国民民主党の間で”年収の壁”問題が盛り上がっています。これもバカの壁にしか見えないところがあります。

年収の壁とは、パートタイマー等の年収が一定額を超えると税金や社会保険料の負担が発生し手取りが減るという問題です。住民税の100万の壁、所得税では103万の壁、社会保険料や配偶者控除では106万、130万、160万の壁と様々あります。昨年の衆院選挙では、国民民主党が、選挙公約として103万円の壁の引き上げを打ち出しました。衆院で過半数割れとなった自民党は、予算を通すために国民民主党の協力が不可欠となります。国民民主党の要求を無視できなくなった与党は、税制改正大綱に123万円への引き上げを盛り込みました。ただ、国民民主党は納得しておらず、依然、攻防が続いています。年収の壁を引き上げることは、世帯収入を増やす効果とともに昨今の人手不足解消につながる面も多少はあります。

それは否定しませんが、壁の引き上げで増える手取り収入は数千円から数万円のレベルであり、一方で税収は数兆円減ることになります。選挙前に票集めのために行われる一時金のばらまき政策とは異なる制度論議ではありますが、目先のことしか考えていないという点においては似たような議論であり、しかもその水準はばらまき以下だと思います。そもそも、近年、劇的な変化を見せている日本の社会に対して、社会制度はまったく対応できていません。例えば、制度立案の前提とされる世帯モデルは、かつて夫婦に子供2人、妻は専業主婦というものでしたが、今や、そんな世帯はごく少数派です。随所に明治憲法の精神を温存しながら成り立つ日本の社会制度は、生きた化石に近づき、世界遺産登録も間近と言えます。

少子化、年金水準、夫婦別姓を含む女性の権利、同性婚などへの対応などはOECD加盟国のなかで最も後進的な状況にあります。国際競争力、教育水準も低下し、医療制度も危うい状況のままです。根本から社会制度を変える議論が必要とされるなか、微々たる手取り水準の議論をしている政治など、もはや笑い話だと思います。問題の先送り、ごまかしは自民党が最も得意とするところであり、近年、さらに酷くなっていると思います。数年前、自民党の隠し金が取り沙汰された頃、NYタイムス紙が、自民党批判の記事を出し、結論として自民党のレベルの低さは国民のレベルの低さでもあると断言していました。屈辱的な記事ですが、日本のマスコミは沈黙していました。先進国のなかで唯一、新聞とTVが同じ経営という日本のマスコミですが、NYタイムスを批判すれば、自らの首を絞めることになりかねないと恐れたのかもしれません。

会社勤めのなかで、社内制度の設計にも永く携わりました。その経験からすれば、制度は思想7割、だと思います。つまり、何を目指すのかを明確にできれば、細部は、その実現に資するかどうかという話になり、スムーズに設計できます。例えば、人事諸制度は、会社として望む従業員の姿を明確に伝え、その姿に近づけば、どう処遇するのかを明らかにするものです。社会制度も同じだと思います。目指すところが不明瞭であれば、細部の議論が紛糾するわけです。社会制度の場合、その根幹たるべきものは憲法なのだと思います。お仕着せ感が残るせいか、日本は憲法へのこだわりが薄いように思います。憲法について、最も重要なことは国民の間で共有されるべきだということです。そのためにも、憲法改正の議論を真っ正面から行い、それによって政治を変えていくことも可能になるのではないかと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

「新世紀ロマンティクス」