重盛は、六波羅の小松弟を居所としたことから、小松殿と呼ばれます。血気盛んな若武者時代を経て、28歳で清盛の後継者となります。平家物語における重盛は、思慮深く温厚な性格で、時に清盛や一門の行き過ぎにブレーキをかける存在として描かれています。1179年に重盛が亡くなると、後白河法皇は清盛に無断でその荘園を没収します。これに激怒した清盛は、福原から上洛し、法王を幽閉、反平家の公家たちを解任します。いわゆる治承三年の政変ですが、ここから清盛の暴走は止まらず、同時に反平家の動きも加速していくことなります。平家物語には、小松殿が生きていれば、という人々の嘆息がしばしば語られています。つまり、重盛が死んだので平家は滅亡に向かったという見方がされているとも言えます。
治承三年の政変以降、清盛は、孫である1歳の安徳天皇を践祚させ、福原遷都を強行し、南都焼討で興福寺や東大寺を灰燼に帰しています。平家物語は、こうした清盛の横暴さを際立たせるために、ことさら重盛を良識的に描いているという面もあるのでしょう。そもそも平家物語は見事な物語ではありますが、史実を忠実に反映しているわけではありません。盛者必衰という分かりやすいテーマに沿って、清盛を極悪人として描くことで名作たり得ていると言えます。例えば、殿下乗合事件についても、平家物語では、報復を命じたのは清盛とされていますが、実際は重盛だったようです。しかし、かなり脚色されているとしても、やはり重盛は良識的であったと考えられます。重盛が担った役割、置かれた立場から、それが十分に推測できるからです。
重盛の正室は、後白河院の側近である藤原成親の妹・経子であり、経子が後白河院の子である憲仁親王、後の高倉天皇の乳母に任命されたこともあり、重盛は平家と後白河院をつなぐ太いパイプとなります。清盛が既存政治体制のなかで実権を握ろうとしたため、重盛は調整役に徹せざるを得ませんでした。重盛の言葉として知られる「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」は、重盛の立場をよく表していると思います。ただ、この言葉は江戸期に頼山陽が創作したもののようです。また、重盛は、実母が正室ながら身分が低くかったため、有力な外戚を後ろ盾を持つ異母兄弟たちのなかでは孤立気味だったとされます。加えて、隠居したとはいえ、絶大な力を有する父・清盛も存在していたわけです。
つまり、小松殿は、平家一門の総領とはいえ、好き勝手はできない微妙な立場にあったわけです。このことが、良識的な人間という重盛の評判につながったのでしょう。機能面だけに着目すれば、重盛の存在が貴族政治と武家勢力を辛うじて共存させていたことになります。その重盛が死んだわけですから、両者の反目が激烈な形で噴出することは当然だったとも言えます。平家滅亡の真因は、源氏との合戦に敗れたことではなく、清盛の横暴と暴走、そして後白河院の堪忍袋の緒が切れたことなのでしょう。だとすれば、やはり小松殿の早すぎる死こそが平家最大の不幸だったと言えます。別な言い方をすれば、小松殿以外に政治家と呼べる人がいなかったことが、平家最大の弱点だったということになります。(写真出典:ja.wikipedia.org)