2024年11月19日火曜日

「十一人の賊軍」

監督: 白石和彌   原案:笠原和夫   2024年日本

☆☆+

我々の世代にとって、脚本家・笠原和夫(1927~2002年)の名前は、とても大きいと言えます。日本映画史にその名を残す名作「博奕打ち 総長賭博」(1968年)を書き、「仁義なき戦い」シリーズを大ヒットさせました。三島由紀夫は、総長賭博をギリシャ悲劇にも通じる名画と絶賛しています。東映の着流しヤクザのマンネリ路線に辟易していた笠原和夫は、ヤクザの冷酷で残忍な世界を描きます。笠原は、ラストシーンで鶴田浩二に「任侠道?そんなもん俺にはねえ!」と言わせ、任侠路線に終止符を打ちます。また、その台詞がそのまま仁義なき戦いへとつながっていきます。総長賭博は、私にとって人生で最も泣けた映画です。そして、まさに時代を捉えた仁義なき戦いは、若者たちを熱狂させることになりました。

全共闘の熱狂に70年安保の敗北が続いた時代、笠原が描いたのは旧世代に翻弄される若者たちの無念だったように思います。「十一人の賊軍」のプロットも同じ構図を持っています。戊辰戦争時の新発田藩にインスパイアされたフィクションです。笠原は、1964年に本作を書きますが、上層部に却下されます。怒り狂った笠原は、台本を破き捨てます。ただ、プロットのメモだけは残っていました。今般、そのプロットに基づき映画化されたわけです。総じて言えば、プロットは☆☆☆☆、脚本は☆☆☆ー、演出とキャストは☆☆ーといったところでしょうか。凡庸な画角、下手な演技は、TVドラマといった風情ですが、プロットの良さに助けられています。ちなみに、仁義なき戦いへのオマージュといった映像もありました。

新発田藩は尊皇を旨とする藩でした。戊辰戦争が勃発すると、新発田藩の周囲は、奥羽越列藩同盟だらけとなります。かつ、同盟の補給線として重要な新潟港を囲む立地でもありました。新潟は天領ですが、周囲は新発田藩の領地だったのです。会津藩はじめ同盟側から恫喝された小藩・新発田藩は、同盟に参加せざるを得ませんでした。ただ、裏では官軍との連絡を絶やしていませんでした。同盟側からの出兵要請には、領民による妨害を理由に、ほぼほぼ応えていません。実は、領民の妨害も、裏で新発田藩士が画策したものでした。官軍が新潟港に上陸した時点で、新発田藩は官軍に参加しています。同盟側からは裏切り者として批判されますが、新発田藩にとって同盟参加は、義を通すための偽装だったということになります。

結果、新発田藩は、領民と領地を戦火にさらすことなく明治を迎えます。新発田藩の偽装工作は、小藩が生き延びる知恵としては、見事なものだったとも言えます。今でも、長岡藩領だった中越地方の老人たちには、新発田藩を中心とする下越地方を嫌う傾向が残っています。私が新潟赴任中に中越地震が起きます。中越地方の営業拠点は、全く稼働できない状態に陥ります。中越地方の営業目標を全て引き受けると立ち上がったのは新発田営業所でした。決して大きくも、強くもない営業所でしたが、その気持ちには涙させられました。結果、新発田の心意気が支社を一つにまとめあげ、災害に遭いながらも、新潟支社は営業目標を達成することができました。一企業内でのささやかな出来事ではありますが、私には、150年の歴史を超えた壮大なドラマのように思えました。

笠原和夫は、小藩なりのやり方で義を貫いた新発田藩の物語を見事にプロット化したわけです。どうも「十一人の賊軍」の製作陣は、新発田藩の決意や土地の人々の思い、あるいは笠原の時代感覚や若者への目線に対する思い入れが一切なく、ひたすらエンターテイメント性だけを追求しているように思えます。映画が薄っぺらいものになった最大の要因はここにあるのだろうと思います。例えば、黒澤映画は超一級の娯楽作品ですが、その背景にしっかりとした思想があったからこそ一級品になっているわけです。本作は、プロットが良かっただけに、誠に残念な結果になったと思います。これだけ見事なプロットですから、真田広之にでもリメイクしてもらいたいものだと思います。(写真出典:hochi.news)

「新世紀ロマンティクス」