2022年7月14日木曜日

FAB4

ビートルズとは何だったのだろう、と思うことがあります。音楽的には、20世紀最大の出来事であり、あれほどまでに名曲を量産したことは、モーツアルト以来とも言えます。また、アレンジや演奏レベルの高さも驚異的でした。もちろん、既にロックンロールは存在していました。ビートルズが影響を受けたアーティストも存在します。ただ、それまでには無かったスタイルのポップ・ミュージックが、突如、生まれたわけです。しかも、米国ではなく英国から、ロンドンではなくリヴァプールから誕生しました。音楽や絵画の世界は、しばしば天才が登場します。ビートルズ、特にレノン=マッカートニーは天才というほかないのでしょう。

後に”FAB(fabulous)4”と呼ばれたビートルズの歴史は、1956年に、当時、まだ16歳のジョン・レノンが結成した”クオリーメン”に始まります。その後、バンド名もメンバーも替わり、そこへポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソンが参加します。クラブ・バンド、バックバンドとしてのツアーなども経験した後、ハンブルクのクラブで演奏します。3ヶ月間に渡り、毎日6~8時時間演奏させられたビートルズは、高い演奏技術を獲得します。帰国後、リヴァプールのキャバーン・クラブのレギュラーになりますが、再び3ヶ月間、ハンブルクで演奏します。リヴァプールに戻ったビートルズは、徐々に人気をあげ、ブライアン・エプスタインがマネジャーとなります。1962年、メジャー・デビューが決まり、リンゴ・スターが参加します。

デビュー時のビートルズは、素人あがりの新人バンドなどではなく、若くても既に豊富な経験と実力を持ったプロのバンドだったわけです。ハンブルク時代の過酷な経験は、厳しい長期合宿だったとも言えます。演奏技術が上がっただけでなく、様々なアイデアを試すことでアレンジのセンスを磨き、また、それがレノン=マッカートニーの作曲の才能を開花させることにもなったのでしょう。ビートルズの名曲は、単に歌詞とメロディで成り立つのではなく、アレンジも含めて、初めから楽曲全体として存在するわけです。いわば、アレンジと一体となって発想される作曲法だと言えます。これが、ビートルズの新しさを構成する一つの要素だったと思います。しかし、ビートルズ登場の衝撃は、音楽界に留まるものでもありませんでした。

世界中の若者たちを熱狂の渦に巻き込んだビートルズ旋風は、その新しい音楽だけで起こったのではありません。マッシュルーム・カット、ファッション、彼らの発言、すべてが新しいカルチャーの到来を告げていました。マッシュルーム・カットは、ハンブルク時代、写真家のアストリッド・キルヒャーのアイデアから生まれたとされます。しかし、髪形と襟なしスーツを、ビートルズのトレードマークにしたのはマネジャーのブライアン・エプスタインでした。ビートルズ旋風は、マーケティングの勝利でもあったわけです。インタビューにおける彼らのストレートな発言は、世間に衝撃を与えますが、田舎の青年ならでは、とも言えます。ロンドンの業界でたたき上げたバンドなら、もっと違っていたはずです。

ビートルズ旋風を担ったのは、世界中のベビー・ブーマーでした。二度の大戦を起しながらも古い価値観を押しつけてくる旧世代が存在し、それに対して違和感を持っていたこの世代は、ビートルズによって翼を与えられたわけです。彼らの精神が解放されたことが、反抗の60年代につながったものと考えます。警察は、ビートルズに5千人規模のホールでのコンサートを開かないよう求めます。なぜなら、会場の外に押し寄せた5万人に対応できなかったからです。球場でのコンサートは、当時のPA技術では無理があり、もはや音楽ではなく、見世物でした。66年、ビートルズは、コンサートからの撤退を決めます。ベビー・ブーマーの解放者としてのビートルズの役割は、ここまでであり、それ以降は音楽の求道者として活躍していくことになります。アルバムとしては「ラバー・ソウル」(1965)が大きな転機となり、傑作「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1966)につながります。(写真出典:IMDb.com)

「新世紀ロマンティクス」