2022年7月5日火曜日

コリア・タウン

かつて、LAのウィルシャー・ブールバード沿いにあったアンバサダー・ホテルは、LA繁栄の象徴でした。地中海風建築のアンバサダー・ホテルは、1921年に開業し、アカデミー賞の授賞式が行われ、著名人が住居とし、ナイトクラブ”ココナッツ・グローブ”はLA社交界の中心地でもありました。1960年代に入ると、ウィルシャー地区は勢いを失い、アジア系の流入が始まります。1968年、大統領選に向けて遊説中だったロバート・ケネディが、アンバサダー・ホテルで暗殺されると、街は急速に衰退し、韓国人の街へと変わっていきます。1987年、私が初めてLAを訪れた際、ホテルは、既に休業状態であり、1989年、正式に廃業しています。

LAのウィルシャー地区は、世界最大のコリア・タウンと言われます。1992年に勃発したLA暴動の際には、黒人による略奪と韓国人商店主たちによる無差別発砲で有名になりました。世界のコリア・タウンは、歴史の古い中国の延吉、NYの32~34丁目界隈、あるいは大阪の生野区等がよく知られています。ただ、日本で、近年、急速に伸びたのが新大久保界隈です。韓国人が多く住む街というよりも、観光目的にコリア・タウン化が進んだという意味で、独特な街だと言えます。韓国料理店、韓国発祥のファスト・フード店、韓国コスメ店、韓流グッズ店などが軒を並べ、歩けないほど若い人たちであふれています。ここでは、政治的緊張等は、全く無縁です。

新大久保駅のある百人町界隈は、江戸期、伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名付けられた街です。戦前は、閑静な住宅街で、著名な文化人や外国人も住む街だったそうです。戦後復興が進み、新宿歌舞伎町が一大歓楽街として成長すると、隣接する百人町は、歌舞伎町で働く人々の住居、そして風俗街へと変わっていきます。なかには韓国人もいたようですが、1950年、ロッテが新宿工場を建設し、そこで働く人や出入り業者の韓国人が集まってきたことが、コリア・タウン化を進めたようです。また、1948年に起きた済州島四・三事件、あるいは1950年の朝鮮戦争から逃れた人々が、東京に多く流入したという背景もあるようです。

韓国で海外旅行が自由化された1980年代末から、いわゆる”ニューカマー”と呼ばれる韓国人が増え、2003年、TVドラマ「冬のソナタ」の大ヒットから起きた韓流ブームが、新大久保コリア・タウン化を決定づけました。1997年、通貨危機に陥った韓国は、IMFに救済を求めます。それは、とりもなおさず、米国による経済支配の始まりです。外貨獲得策の一つとして、アメリカは、韓国にコンテンツ産業の強化を要求します。こうして、海外をマーケットとする映画や音楽の育成が始まりました。2000年以降に始まるアジアでの韓流ブームは、その成果だったわけです。極端に言えば、IMFによる韓国介入が、新大久保コリア・タウンを成立させたとも言えます。

新大久保以前、東京で、リトル・ソウルと呼ばれたのは赤坂でした。多くの韓国料理店やコリアン・バーがありました。現在、赤坂プリンスのクラシックハウスとなっている李王東京邸があったことから、赤坂には韓国人が多く集まっていたようです。東京のコリア・タウンとしては、若い人たちが集まる新大久保に対して、落ち着いた赤坂といったところです。赤坂も、近年は、新大久保的な勢いのある店も増えています。赤坂の韓国料理店では、昔、よく使ったのが「チョンギワ」でしたが、最近は「ヌルンジ」がメインです。空輸される韓国野菜を使ったサンパッが人気の店です。東京では珍しくソルロンタンがいただける「一龍」も、たまに行きます。高齢者には、やはり赤坂がいいわけです。(写真出典:asahi.com)

「新世紀ロマンティクス」