終戦時、根元中将は、駐蒙軍司令官でした。満州に侵入したソ連軍は、8月15日以降も戦闘を止めませんでした。根元中将は、4万人の日本人住民を守るために、命令を無視して戦い続けます。結果、全居留民を守り切り、日本へ送り出しています。また、終戦時、中国全土には、兵士・民間人あわせて600万人の日本人がいました。引き揚げには10年かかると言われていたそうです。北支那方面軍司令官を兼任するに至った中将は、それを、わずか10ヶ月で成し遂げます。その背景には、蒋介石国民党総裁の援助があったと言います。最後の引き揚げ船で帰国し、浪人生活を送っていた中将の耳に、国民党台湾へ逃避というニュースが入ってきます。
蒋介石に恩義を感じていた中将は、1949年6月、家族に「釣りに行っている」とだけ告げ、延岡から台湾へ密航します。到着した基隆では、密航者として投獄されますが、やがて軍の知るところとなり、中将は蒋介石と対面、顧問への就任を依頼されます。国民党軍中将、司令官顧問となった中将は、緊迫する金門島に赴き、迎撃態勢を整え、人民解放軍を待ち受けました。結果、地雷、トーチカ、軽戦車で防備し、兵力4万人を投入した国民党軍が、人民解放軍を退けます。人民解放軍は、上陸用舟艇等の装備で劣り、得意の人海戦術がとれなかった面もあります。いずれにしても、満蒙で八路軍とも戦ってきた中将の差配が大きな効果を挙げたと言うことなのでしょう。密航から3年で、中将は、日本へ帰国しています。
その後、蒋介石は、旧帝国陸軍の将兵80名強を集め、白団(パイダン)を組成し、国民党軍の教育・訓練にあたらせています。中将の金門島での活躍は、国内外で議論を呼びますが、世間の注目が中将に集中したことで、白団は、密やかに活動できたとも聞きます。白団は、1949~1969年まで活躍しますが、中将は、これに参加していません。なお、終戦直後の山西省では、2,600名の日本兵が、国民党軍に組み入れられ、4年間、人民解放軍と戦っています。残留日本人や将兵の帰国と引き換えだったとも言われます。また、人民解放軍のパイロット養成を支援した300名の日本兵も知られています。さらに、ヴェトナム、インドネシアでも、数百名の日本兵が、独立を目指す戦いに参加しています。
根本中将は、福島県須賀川の出身。士官学校、陸大卒業で、石原莞爾の木曜会、永田鉄山ら統制派の一夕会にも名前を連ねています。大酒飲みで、寡黙な人だったと言われ、昼行灯とあだ名されたこともあるようです。占領下にあった日本を巡る国際情勢のなかでは、一個人の行動とは言え、旧帝国陸軍中将の行動は、賛否両論あって当然です。しかしながら、残留日本人の引き上げを支援した蒋介石への恩返しという意味において、あくまでも筋を通した東国武士の心意気は賞賛されるべきだと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)