伏見稲荷千本鳥居 |
歴史上の渡来人で、最も有名なのが、秦氏だと思います。日本書紀によれば、283年に、弓月君が、120県(あがた)の人々を率いて、朝鮮半島から日本に帰化したとされます。人数は不明ですが、当時の百済の村落構成から推計すると1万人以上ではないかとされます。弓月君の移民は、一筋縄ではいきませんでした。弓月君は、来日して応神天皇へ帰化の希望を伝えますが、新羅の妨害にあって実現できませんでした。そこで応神天皇は、精鋭の兵を繰り出して、弓月君とその民を日本へ脱出させました。渡来人秦氏の由来に関する伝承ですが、実際には、5世紀頃、新羅から渡来した一族と見られています。
秦氏は秦の始皇帝の末裔であるという説もあります。これは、どうも秦氏が箔付けのために創作した話のようです。1~5世紀、朝鮮半島は、三韓と呼ばれる辰韓・馬韓・弁韓が支配していました。うち辰韓は、始皇帝による中国統一の過程で生まれた流民が建てた国とされます。秦の言葉を話すことから、中国の史書においては、秦韓という記載もあるようです。秦氏の始皇帝末裔説は、秦韓という国名に基づいているのでしょう。5世紀には、辰韓の一部であった斯蘆国が隆盛し、新羅を建国して辰韓を飲み込んでいます。日本書紀における弓月君に関する記述は、このあたりの事情を背景としているのでしょう。秦氏の出自に関しては、他にも迫害を逃れた景教徒(キリスト教ネストリウス派)説や羌族の後秦由来説もあります。
いずれにしても、帰化した秦氏は、山城国(現在の京都)の太秦を拠点に、機織、土木工事、製鉄、医術などを生業とし、その勢力を拡大していきます。公人としても活躍し、多くの宮廷人も輩出しています。また、八幡神社や伏見稲荷は、秦氏が創祀した神として知られています。さらに、現在では酒造りの神様として信仰される松尾神社、あるいは平安京以前に創建された京都最古の広隆寺も秦氏が開いています。平安京建設は、山城国の有力者であった秦氏の尽力によるところが大きかったようです。秦氏は、その勢力を近畿一円に広げていますが、東国の相模国にも進出しています。秦野市は有名ですが、当時の本拠地が久我山にあったこともあり、周辺には八幡山、幡ヶ谷といった地名も残ります。
ヤマト王権に仕えた渡来人の集団としては、秦氏の他に、製鉄・軍事に優れた東漢氏、あるいは文筆に優れた西文氏等も、よく知られています。他にも、西日本には、大集団でもなく、中央に進出することもなかった渡来人が多く存在したのだろうと思います。古代における東アジアの歴史の相関性や流動性の高さには、いつも驚かされます。その流動性が文化・文明を発展させたわけです。当然ながら、中央集権化が進み、国家の概念が成熟する前の方が、流動性が高くなります。逆に言えば、国家は、意識して諸国との交流を高いレベルに置かなければ、自国の発展や進歩を実現できないとも言えるのでしょう。(写真出典:icotto.jp)