2022年1月12日水曜日

尼港事件

トリャピーツィンとレベデワ
1920年2~5月、アムール川河口に位置する港町ニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが、町の人口の半分6,000人以上を虐殺します。うち730名は日本人であり、民間人、官僚、兵士が皆殺しにされています。建物も破壊され、町は壊滅状態になったといいます。いわゆる赤色テロです。ロシア革命は、レーニンが、テロを強く推奨したことから、赤色テロの嵐となります。リーダーに任命されたヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンが率いたパルチザンは4,000名、中国人と朝鮮人も数百人づつ含まれていたようです。パルチザンとは非正規軍のことであり、トリャピーツィンは、二ヶ月をかけて、アムール川下流地帯から兵員を徴募しています。山賊や強制された農民たちであり、まさに烏合の衆そのものです。

ニコラエフスク港は、1850年に建設されました。極東の貿易港として、ロシア人だけではなく、ユダヤ人、中国人、朝鮮人、そして日本人が拠点を構え、商売をしていました。ロシア革命が始まると、治安が悪化、ごく少数ながら赤軍も駐留していたようです。治安を維持したい町の有力者たちは、おりしもシベリア出兵中だった日本軍に進駐を要請します。町にいた白軍に代わって日本軍400名が町の治安を守ることになりました。そこへトリャピーツィン率いるパルチザンが到達します。日本軍は、司令部から、中立を守るよう厳命を受けていました。つまり、攻撃されない限り、発砲してはいけないということです。町の代表と日本軍は、パルチザン側と交渉のうえ、安全と自由の確保等を条件に、2月末、町を開城します。

しかし、町に入ったパルチザンは、約束を守らず、白軍や市民を拘束、拷問のうえ処刑するなど横暴な行動に出ます。すべての武器を赤軍に貸与せよといった無理難題を突きつけられた日本軍は、3月12日、ついにパルチザン本部などに突入し、武装解除を目指します。ところが、圧倒的な兵員数の差に日本軍は全滅させられ、かつ日本人、および市民の虐殺が開始されました。日本軍への無理難題は、パルチザンの罠でした。さらに、凍結した港に閉じ込められていた中国軍艦から、日本領事館、および市民に対する砲撃も行われます。後に、中国は、パルチザンに砲を貸与しただけだと弁明していますが、何の証拠もありません。5日間続いたという虐殺で、推定1.500人が亡くなりましたが、これが全てではありませんでした。

この事件を機に、日本軍は、中立というスタンスを捨て、ウラジオストク、ハバロフスク等の赤軍を武装解除します。ソヴィエト・ロシアは、極東共和国を設立し、日本との緩衝帯設置を目論みます。ニコラエフスクで虐待の限りを尽くしていたトリャピーツィン一派は、5月末、この情報に基づき、町の放棄を決定し、撤退前に市民の虐殺と町の破壊を徹底的に行います。犠牲者数は、不明のままですが、3月と合わせ、少なくとも6,000人以上と推定されています。撤退するパルチザンは、逃亡者が相次ぎ、ごく少数だけが残りました。ソヴィエト代表団は、7月3日、トリャピーツィンとその愛人で参謀長のニーナ・レベデワ等を逮捕し、簡便な裁判の直後、銃殺しています。罪状は、革命的合法性の侵害、権力乱用、略奪であり、虐殺ではありません。

処刑時、トリャピーツィンは23歳、レベデワは21歳でした。トリャピーツィンはレフ・トロツキーに心酔するアナキストだったという説もあるようです。革命に暴力はつきものです。支配階級は抹殺されます。一神教の宗教戦争は、邪教との戦いだけに、苛烈なものになる傾向があります。共産主義も、ある意味、宗教的です。共産主義革命は、内部抗争も含めて、苛烈を極めます。マスヒステリアと言ってもいいのでしょう。ましてや狂信的な若者が率いるパルチザンなど、カオスそのものです。とは言え、ソヴィエト、そしてロシアが、ニコラエフスク虐殺の責任を認めないどころか、日本軍に責任を押しつけ、トリャピーツィンを解放者と位置づけるという姿勢には、憤りを感じます。(写真出典:peremeny.ru)

「新世紀ロマンティクス」