ウィーンに生まれたオットー・スコルツェニーは、大学卒業後、土木技師になりますが、ナチスの党員でもありました。第二次大戦が始まると、ナチス親衛隊に入隊し、SS装甲師団の技術将校となります。東部戦線で負傷し、療養中だったスコルツェニーは、ナチスのコマンド部隊の創設に関わります。スコルツェニーは、人材や装備の調達に政治的手腕を発揮し、かつ英国のコマンド部隊を研究して、優れた部隊を作り上げます。1943年、ヒットラーは、連合軍のイタリア上陸を背景に解任・幽閉されていたムッソリーニを救出する作戦を発動します。その実行を任されたのが、スコルツェニーのコマンド部隊でした。大胆な救出作戦は無事成功し、スコルツェニーは名を上げ、ヒットラーの厚い信頼を得ます。
その後、ユーゴスラビアのチトー誘拐事件、ソ連との講話を進めようとしたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子を誘拐し、辞任させ、極右政権を誕生させるなどの活躍をします。戦争末期には、後方攪乱作戦の後、赤軍のドイツ侵入を許すことになったオーデルの戦いで、独立軍を指揮しますが、敗戦ともに降伏します。2年間、収容所に入ったスコルツェニーは裁判で無罪となり、収容所から出ています。ホロコーストには直接的関与が無かったとしても、ナチスの中核的人物が無罪になった背景には、米国の戦略情報局(OSS)、後のCIAが関与していました。要は、利用価値を認めたCIAがアセット化するために収容所を出したわけです。敗戦時、スコルツェニーが管理していたといわれるナチスの秘密資金も関係しているかも知れません。
スペインに渡ったスコルツェニーは、武器の輸出、米軍基地の建設等にからみ、フランコを助けます。また、アルゼンチンのペロン大統領のコンサルタントになり、事業で連携する一方、元ナチス党員を欧州からアルゼンチンに逃す組織も運営します。南米のナチ・ネットワークは、南米各地の共産化を阻止したいCIAと裏で連携していたとされます。また、イスラエル攻撃のために弾道ミサイルを開発したエジプトのナセル大統領の顧問も務め、元ナチスの科学者をエジプトに送り込みます。一方、それを阻止したいイスラエルは、スコルツェニーに対して、身の安全を交換条件に、ナセルの弾道ミサイル計画粉砕の手助けをオファーします。アイヒマンが捕まった直後のことであり、スコルツェニーは提案を受け入れます。スコルツェニーが誘い出した科学者グループのトップを、モサドが消しています。
つまり、スコルツェニーは、東西冷戦という新たな政治構造をうまく利用し、隠れるのではなく、ナチスの英雄であることを逆手にとって、戦後を泳ぎ切ったわけです。米国はじめ各国は、イスラエルでさえ、スコルツェニーを利用し、影でサポートし続けていたわけです。スコルツェニーは、堂々とSS同志会を運営していたこともあり、真のナチス党員とも言われますが、それすら大事な隠れ蓑だったのでしょう。ナチスが育てた真の政治ゴロと言うべきでしょう。ちなみに、ドキュメンタリーのなかで最も驚いたのは、ケネディ大統領暗殺事件の謎を追うと、スコルツェニーのネットワークが、頻繁に顔を出しているということです。関連の詳細は、いまだ不明とのことですが、CIAの闇の深さには、驚きを通り越して、心底恐ろしさを感じます。(写真出典:plaza.rakuten.co.jp)